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「ファンとは『熱狂する数字』であるべきだと思う」
退職宣言の翌日。大学の学食で、月裏は私にそう言った。物々しい雰囲気に気圧されて、箸の隙間から冷ややっこの欠片が小皿に落ちた。
「おうおう、どうした。哲学にしちゃ、ずいぶん素っ頓狂な内容だけど」
「君は事の重大さが分かってない。危うく、推しと接点を持ちかけたんだ。大事件だ。わたしはなんとしても、惨事を回避せねばならなかった」
小皿から冷ややっこの欠片を拾い上げる。自然と視線は月裏から逸れたが、いまだ彼女の熱意が冷めていないことは見なくても伝わってくる。
「そかそか。大丈夫、同意だよ。あれは凄い出来事だったね」ただ、と私は言葉を続ける。「バイトを辞めるほどとは思えなかったけど」
「究極の選択だった。信念を曲げるか、職を失うか。二つに一つだった」
「極端だなあ」
とはいえいまさらな話だ、とも思った。彼女の辞書に「中庸」なんて項目はない。
「私島さん、わたしに『いい人ね、また来るわ』と言ったんだ」
「嬉しいことじゃん。書店員冥利に尽きるでしょ。推しに言われたならなおさらだ」
「そこだよ、帯船。推しに言われてしまった。すなわち、推し活三原則の第三条に抵触する恐れがある」
出たよ、それ。私は嘆息しながら、右手で話の続きを促した。
「もしも私島さんが弊書店の常連客になって、わたしが贔屓の店員になってしまったら取り返しがつかない。いわゆる、認知だ。推しからの認知。そうなればファンとしておしまいなんだよ。……まあ、推しのいない君には分からんかもしれないが」
うん、たしかに。話を最後まで聞いても、さっぱり分からなかった。
月裏が語った内容はあくまで個人的な価値観に依るものだ。推しの認知イコールファンとしておしまい、という方程式は決して世の理ではない。むしろ逆だと思う。推しに認知されたいと思うのが、一般的な感性だろう。
しかし、月裏は違う。
「ファンとは『熱狂する数字』、ねぇ」
私がそう呟くと、月裏は深々と肯いた。
「我々は、動画の再生数やチャンネルの登録者数、SNSのトレンド順位を形成するための部品にすぎない。推しの魅力を世間に知らしめるため、可能な限り訴求力のある数値を叩き出すことこそがファンの責務」
それから、純真無垢な瞳で私を見つめて、
「たかが数字に自我は要らない」
◆
ある種、月裏ひよりは誰よりも誠意ある推し活をしている。と思う。ここまで己の欲求を殺して、推しを推すという使命に忠実なオタクを、私は月裏以外に知らない。
まあ、かなり歪んだ愛だし、それで楽しいの? と思わなくないけど、月裏のスタンスを否定したくないし、それが彼女の生き甲斐で幸福の形らしいから、進言は無粋ってもんだ。
だから、月裏から誘われたバイト先に私だけ取り残されることになった現状も、ま、納得するしかない。
五限終わり、バイト先の書店に出勤すると、店長に月裏のことを訊かれた。
「帯船ぇ。ひよりちゃん、まだ辞める気でいる?」
「あー。そっすねぇ。意思は固いみたいですよ。ちょっとやそっとじゃ動かんす」
「だよなあ。頑固っぽいもんなあ」言って、店長はパソコン画面に視線を戻した。どうやら求人サイトに掲示する文章を考えているみたいだ。「ホント、困っちゃうよね。あんだけ仕事できる学生をまた見つけるって、奇跡でも起こんないと無理だよ」
「店長、目の前にも奇跡いますよ」
店長は返事のかわりに乾いた笑いを零した。うまく誤魔化されたな、と私は苦笑してから、タイムカードを押した。
「ま、仕方ないっす。月裏には月裏のポリシーがありますから」
「? なにそれ。俺、ひよりちゃんのポリシーを曲げるような言動しちゃってた?」
そうじゃないす、と首を振る。月裏の性格の問題だし、私もお手上げだし。
店長が朝礼日報を手に椅子から立ち上がり、私に向かい合った。
「ま、いいや。はい、では朝礼始めまーす。おはようございまーす」
言って、出勤前の恒例である社訓の唱和を始める。オートマチックに社訓を口ずさみながら、私が思い浮かべていたのは『推し活三原則』のことだった。
月裏ひよりのポリシーであり、彼女の頑固さの象徴であり、アルバイトを辞める理由になったそいつを、頭の中で唱える。
一、同担と群れるべからず。オタクは孤独たれ。
二、推し活は衆目に晒すべからず。縁の下から推せ。
三、推しに認知されるべからず。サイリウムを振るう肉塊と化せ。
月裏は、誰より誠意ある推し活をしている。その最たるものが、この『推し活三原則』だ。誰に説かれたでもなく、彼女自身で創出したルール、らしい。
「はい、それじゃあ。今日も一日、よろしくお願いしまーす」
店長の気だるそうな挨拶で朝礼が終わる。私は事務所から売り場へと出ていき、今日もまた、月裏に誘われたから始めただけの、趣味でもない書店バイトに従事する。
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