顔をうずめたい

 決戦前夜の空気ってやつは、胸の奥でじりじりと鳴る。初めて辿り着いた選手権大会の神奈川予選決勝――神奈川県立円蔵えんぞう高等学校サッカー部は、明日九十分の向こうに全国大会が見える。


 ……と、頭の片隅でだけ思いながら、俺は翔吾の家のソファに沈み込んでいた。


 翔吾の部屋は、サッカー雑誌のバックナンバーが壁沿いにずらり、テレビには録画した試合のハイライトが静止画で止まり、ローテーブルは書きかけのサッカーノートが置かれている。

 そして、男の部屋とは思えないほど良い香りが部屋中を満たしていた。


「なあ、翔吾」


「どうしたんだい?」


「お前と美島ってさ、実際どこまで進んでんだ?」


 俺が口火を切ると、翔吾はリモコンでテレビを消し、あからさまにため息をついた。


「決戦前夜に一体何の話をしてるんだい、君は?」


「いや、だってよぉ――」


 そう言いながら、俺はここ数日、喉の奥に魚の小骨みたいに引っかかっていた話をしてしまう。


 選手権予選を勝ち上がったことで忙しくなった日常にも、俺と鷹宮は、少しずつ関係を深めていた。


 時間が合えば駅まで一緒に帰る。休みを合わせてデートに出かける。

 特に多いのは水族館デートだ。海獣の寝息、青光りする水槽、薄闇で見上げる彼女の睫毛。手を繋げば、指の骨が触れ合う感触に、胸の内側がひどく静かになる。


「それはよかったじゃないか」


「ああ、でもよ――それだけなんだよ」


「というと?」


「なんつうかさ、手を繋いだりはするんだけどさ……あの修学旅行の夜みたいな昂りがないんだよ」


 言いながら、脳裏に勝手に再生される映像がある。京都の旅館の大浴場、湿った湯気の白に切り取られた彼女の鎖骨のライン。バスタオル一枚、湯に濡れて重たくなった布の隙間から、体温がふっと漏れるあの距離――肌の雫が灯りを砕いて、ゆっくり流れ落ちる軌跡を目で追った瞬間、喉が乾いた。


 奈良の夜は、ジッパーが胸元で悲鳴を上げていたパジャマ。小さな体躯に不釣り合いな双丘が布地を押し上げ、呼吸のたびに柔らかく形を変える。視線を外そうとするほど、視界の端が彼女の曲線で満たされていく。


 大阪ではプルシャンブルーの水着。肩紐を伝った水滴が鎖骨の窪みに集まり、そこから胸の谷へと重力に従って滑り落ちる。そのささやかな足跡に、指先がうずいた。


 彼女が猫みたいに片口角を上げて笑ったとき――俺の名前を、少し甘く崩して呼んだとき――理性が、カップの縁まで静かに満ちて、溢れ出す寸前だった。


「……あのさぁ」


 翔吾が眉を寄せ、わざとらしく肩を竦める。


「それって要するに、エロいことがしたいですってだけでしょ?」


 ……翔吾のやつ、俺がせっかく包んだオブラートを無視しやがって。


「まぁまぁ……平たく言えばそんなところだ」


 俺が白状すると、翔吾は麦茶を一口飲み、氷の音を鳴らしてから、呆れの色を少し濃くした。


「はぁ……それで、具体的に何をしたいのさ?」


「具体的に、か……」


 喉が生唾を飲み込む音を立てる。想像は、正直いくらでも出てくる。けれど、一番を挙げろと言われたら、答えは決まっていた。


「とりあえず一番は――顔をうずめたいな」


「はぁ?」


「だから! あのご立派なたわわに顔をうずめたいんだって」


 声に出した瞬間、部屋の空気が半音、熱を帯びた気がした。彼女の香り、肌に触れる前からたゆたう甘さ。頬を預ければ、布越しでも弾むような柔らかさに包まれて、呼吸ごとやさしく受け止められるはずだ。


 耳元で彼女が困ったように笑って、「太一くん」と囁いたら、その声が脳天に響いて――。


 想像の熱が、下腹に重く落ちた。


「はぁ……本当に、何でこんな時期にこんな話をしているんだか……」


 翔吾はこめかみを押さえて天井を仰ぐ。


「いや、俺にとっては決勝戦と同じか、それ以上に大事なことなんだって!」


「はいはい、だったら決勝で勝ったらとかいう条件でお願いしてみたらいいじゃないか」


「――っ! それいいな!」


 翔吾の名案が、テーブルの上の照明を一段明るくしたみたいに、俺の頭を照らした。


「よしっ、そうと決まれば早速鷹宮に連絡だ!」


 リュックの口をがばっと開け、翔吾の部屋に店を広げていたあれこれを、手に取って放り込んでいく。


 とりあえず荷物を全てまとめたところで、俺は立ち上がった。


「そんじゃ、鷹宮に電話するし、今日はこれで帰るわ」


「うん――あ、明日の試合、勝とうね」


「あぁ! もちろんだ! 俺のパラダイスがかかってるからな!」


「その表現はどうにかならないの?」


 そんな呆れ声を背中で受け取りつつ、玄関でスニーカーの踵を踏み込む。夜風は乾いていて、肺が清潔になる感じがする。街灯のオレンジがアスファルトを薄く照らし、遠くの踏切が、規則正しく夜を刻んでいる。


 俺たちの家の裏手にある小さな公園――ぶらんこに腰を下ろし、鼓動が少し落ち着くのを待って、通話アプリを開く。


 画面には、葵――という文字の表示。親指が、送信と発信のあいだを二往復した。


 ――落ち着け。俺たちはちゃんと付き合ってる。お願いは、勝利のご褒美として、礼儀正しく。


 通話ボタンを押す。ワンコール、ツーコール。三回鳴る前に、澄んだ声が夜をすっと切った。


『もしもし、太一くん? どうかしましたか?』


「……今、大丈夫か?」


『はい。ちょうど勉強の休憩に、ミルクティーを飲んでいたところです』


 彼女の声は、湯気の立つカップみたいに、耳に優しく触れる。


 ――言うんだ、俺。


「その、さ。明日の決勝なんだけどさ……、勝ったら――」


『はい』


「勝ったら、ご褒美をお願いしてもいいかなって」


 間――通話の向こうで、カップの受け皿がコトンと鳴った気がした。


『ご褒美、ですか。ふふ。内容にもよりますが……一応、何を?』


「……その……ええと……」


 公園の闇に、言葉がほどけて消えそうになる。逃げるな。腹筋に力を入れる。


「顔を、うずめたい。鷹宮に、うずめさせてほしい」


 沈黙。次の瞬間、微かな笑い息が、電話口のマイクをくすぐった。


『……太一くん』


「はい」


『とても太一くんらしいお願いだなと思いました』


「お、俺らしい……?」


『ええ。お願いに対する答えですが、いいですよ』


「ホントか!?」


『はい。ただし、いくつかの条件を守ってほしいです』


「じ、条件?」


『まず、明日勝つこと。それから――乱暴にしないこと。私の香りが移るくらい、ゆっくりでお願いします』


 肺の奥に、熱い空気が満ちた。視界が少し滲む。夜風でも、冷ませない。


「……約束する。勝つ。ゆっくり、やさしくする」


『はい。楽しみにしています。……太一くん』


「ん?」


『今のお願い、太一くんの本音を聞けたようで、すごく嬉しかったですよ』


 通話が切れたあとも、耳の奥で「嬉しかった」が反芻された。ぶらんこから立ち上がる。


 脚は軽い――スパイクじゃないのに、ピッチに出ていく前の足取りになっている。


 夜空は薄い群青で、星がいくつか、息を潜めている。明日の九十分、その向こうに、胸いっぱいの桃源郷がある。


 いや、それだけじゃない。俺が欲しいのは、試合に勝って、仲間と抱き合って、彼女に胸を張って会いに行く、その全部だ。


「よし」


 ポケットの中で拳を握る。明日の相手は、選手権常連の強豪校だ。翔吾は警戒されているだろうから……俺がこじ開けてやる。

 セカンドボールの回収、最終ラインと前線のリンク――頭の中で、何度も描いたルートをなぞる。


 勝つ。……勝って、うずめる。うずめさせてもらう。


 決戦前夜。絶対に負けられない戦いがここにある――ピッチの上にも、ピッチの外にも。


 俺は玄関のドアを開け、階段を二段跳びで駆け上がった。

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