EP58 佐山くんからの……
キャンプ場に着いてからのことは、正直あまり覚えていない。先生の説明、火の取り扱いの注意、夕食の段取り、班ごとの役割分担――どれも耳は通り抜けていったはずなのに、心には引っかからなかった。頭の大半を、二十時の待ち合わせが占めていたからだ。
「もうすぐ時間じゃないの?」
真夏にそう言われて、ようやく時計を見た。十九時五十六分。心臓が、急に現実の重みを取り戻す。
「それじゃ、葵ちゃん。頑張ってね」
「……はい」
テントのファスナーを静かに閉める。外は、驚くほど静かだった。風に揺れる草木の擦れる音と、虫たちの合奏だけが広い夜を満たしている。街の喧騒に慣らされた身体には、音の少なさがかえって大きく感じられた。
共同キッチンに着くと、ベンチも流しも、ぽつんと暗がりに沈んでいた。
まだ誰もいない。
ここに彼が来ていないということは――覗く意思がないということ。つまり、私にもチャンスがあるということだ。胸が、すっと軽くなる。
どうかこのまま、来ないで。
そう思った自分に、苦笑が漏れた。卑怯だ。けれど正直な心は、綺麗事を選ばない。
二十時。秒針のないアナログの針が、きっちりその位置を指し過ぎ、二十時一分、二分。冷えたベンチに腰掛けたまま、指先でショートパンツの縫い目をなぞる。
……本当に来ない?
そう思った瞬間、砂利を踏む規則的な足音が、暗がりの奥から近づいてきた。
「……よぉ、待たせちまったか」
闇からほどけるみたいに現れたのは、佐山くんだった。息は上がっていないのに、額に小さな汗が滲んでいる。喉が、ぴくりと鳴った。
……来て、しまった。
でも、仕方ない。もともと、それが彼の目的――だった、はず。
「いえ、私も今来たところなので」
努めて平坦に返す。息を一度深く吐いて、本題に踏み込む。
「それで……ここに来た、ということは――つまり、そういうことなんですね」
来てしまった事実は、変えられない。私の心がどう願おうと。
「……それでは、行きましょうか」
本当に案内するつもりはない。まず、今日のことを謝る。それから、想いを伝える。そう決めて踵を返した瞬間――
「待ってくれ」
手首を掴まれた。驚いて振り向くと、彼の掌は熱を帯びていて、それが皮膚越しに真っ直ぐ伝わる。
「俺は――行かない」
意味が、すぐには結べない。
「一体、どういう……?」
「俺がここに来たのは、小鳥遊の風呂を覗きにいくためなんかじゃねえんだ」
暗がりでも、彼の目が一点を射抜くみたいにこちらを見ているのがわかる。
「――お前に言いたいことがあったから、ここに来たんだ」
「言いたいこと、ですか」
「ああ、俺はまどろっこしいのが苦手だからさ――そのまま言わせてもらう」
夜気を胸いっぱいに吸って、彼は言葉を放つ。
「鷹宮、俺はお前が好きなんだ」
………………え?
言葉の輪郭が、頭の中でゆっくりと焦点を結ぶ。好き。誰が、誰を。私を?
「見たいのは小鳥遊の裸なんかじゃねぇ、お前なんだよ!」
…………ん?
「好きだ鷹宮、俺と――付き合ってほしい!」
勢いよく頭を下げる。テーブルの上の金属のボウルが、かすかに鳴った。
私は、いま――告白されている? 本当に?
「……あの、顔を上げてください」
とりあえずの言葉しか出てこない。ゆっくり顔を上げた彼は、嘘の色を一切持たない目で私を見ていた。胸の真ん中が、温かいもので満ちる。
「ふふ、裸が見たいなんていう告白、聞いたことがないですよ」
「ち、違うんだ!! 俺が見たいのは、その……お前のその猫みたいに笑った顔とか、驚いた顔とか、不機嫌な顔とか、そういうのって意味だよ!!」
「……なるほど。では、……裸は見たくないと」
「いや、それはさ……やっぱり俺も男だから見たいけどさ……って、そうじゃなくてだな――」
耳まで真っ赤にして、言葉が転ぶ。可愛い、なんて思える余裕が自分にあるのが不思議だった。
「わかっていますよ。ありがとうございます。とても、嬉しいですよ」
本当に。胸が弾けそうなくらい。足の裏まで熱が下りていく。
「お、おう」
返事を――すぐにでも。だけど、嬉しさと驚きが入り混じって、今の言葉で薄めたくなかった。
「……お返事なんですが、一晩考えさせていただいてもよいですか? とても大事な、ことなので」
「あ、ああ!! もちろんだ!!」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。顔を上げると、彼は安堵したように息を吐いて、いつもの調子で言った。
「それじゃ、また明日な。気をつけて戻れよ」
「ええ、佐山くんも。おやすみなさい」
私は、夜の冷気を胸に入れながらテントへ戻った。
* * *
ファスナーを開けるなり、二つの影が音速でにじり寄ってきた。
「おかえり! どうだった!?」
「そ、それで! 首尾のほどは!!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください……」
真夏とひより――二人を寝袋の上に座らせ、私も向かい合って正座する。吐く息が白くなるほどではないが、夜の山の空気は刺すように冷たい。ランタンのやわらかな光が、テントの布に橙色の円を作っていた。
「実はですね――」
私は、共同キッチンでの出来事を、順を追って語った。
「――って、言われました」
「きゃーーーーーーーーっ!!!」
反射神経で耳を塞いだのに、真夏の歓声は貫通した。
「めでたい!! めでたいですねぇ!! 素敵なアベックです!!」
ひよりは座ったまま両手をばたばたさせ、テントが揺れる。
「ちょ、静かに……!」
周りのテントの気配が気になる。けれど二人は目を潤ませ、今にも花びらでも撒きそうな勢いだ。
「それで、結局葵ちゃんはなんて返事をするの?」
真夏が前のめりに尋ねる。声は小さくなったが、目の熱量はまったく落ちていない。
「……一晩、考えさせてほしいと伝えました。でも――」
自分の胸の内を、言葉でなぞる。今日一日、彼が見せてくれたもの。人込みで手を取ってくれたこと。
英語で迷子の外国人に道を教えた横顔。足湯で顔を真っ赤にして視線を泳がせた仕草。ラーメンを語る時の無邪気さ。無茶を言えば断る勇気と、それでも寄り添ってくれる優しさ。
私の逃げを見抜いて、それでも真正面から好きだと言ってくれたまっすぐさ。
「私は…………もちろん、オッケーします」
言った瞬間、胸の奥がほどけた。決めただけで、景色が少し鮮やかに見える。
「うおおっ――めでたい!!」
ひよりが小声で叫び、寝袋に顔をうずめてばたつく。
「うんうん、そう来なくちゃ!」
真夏は目尻に嬉し涙まで浮かべ、私の手を両手で包んだ。
「具体的になんで返事をするかは考えておいた方がいいからね!」
「……なんで、ですか?」
「人はね、どう好きかを言葉でもらうと、心に残るものだから――」
「……ありがとうございます」
「お礼なんていらないよ! 葵ちゃんが幸せなら、わたしも幸せだし」
「そうです!! 真夏さんの言うとおりです!!」
胸の奥が、じんわり温かくなる。私は本当に、周りに恵まれている。そう思ったら、涙腺の奥が少しだけ緩んだ。
「じゃ、もう夜も遅いし。お風呂行って、寝よっか」
真夏が立ち上がって伸びをする。テントの天井がぴん、と鳴った。
湯で体を温め、戻ってくると山の夜はさらに深まっていた。寝袋を広げ、私はバッグからオーバーサイズのスウェットを取り出す。
昨晩、彼が着たもの――頭をくぐらせた瞬間、ほのかに残る彼の匂いが、布の内側の空気と混じって鼻腔を撫でた。洗剤と、少しだけ石鹸。胸のあたりが、抱きしめられたみたいにぎゅっと温かい。
「……おやすみなさい」
小さく呟いて、寝袋に潜り込む。目を閉じると、今日の景色がゆっくり再生される。ロープウェイからの街並み、ハーブの香り、足湯の湯気、赤いポートタワー、ラーメンの湯気。そして共同キッチンでの、彼のまっすぐな声。
明日、ちゃんと伝えよう。
スウェットの袖口に指を潜らせると、眠気がやさしく肩に降りてきた。私はゆっくりと、その重みに身をあずけ、すっと夢の世界へ落ちていった。
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