EP57 持つべきものは幼馴染
女子たちの輪へ向かう足取りは、鉛を仕込んだみたいに重かった。集合場所のロビーは天井が高く、照明の白が床に硬く反射している。クラスメイトの笑い声が、早回しのBGMみたいに耳の外側を流れていく。胸の内側だけが、静かすぎた。
真っ先に私を見つけて駆け寄ってきたのは、やっぱり真夏だった。取り巻き三人衆を手で制し、靴底をきゅっと鳴らして目の前で止まる。
「葵ちゃん! どうだった――って、どうしたの? そんな顔して」
「…………いえ」
喉の奥に、言葉が湿った綿みたいに詰まって出てこない。視線をずらすと、ガラス越しの駅前に夕方の光が薄く傾いていた。
「ま、まさか……ぎょ、玉砕しちゃったとか?」
「その方がまだよかったのかもしれないですね……」
玉砕は、少なくとも真正面からぶつかった証だ。私は、正面に立てなかった。ただ、逃げた。それが顔にそのまま出ているのだろう。真夏の眉尻が、いつになく真剣に下がる。
「もう! そんな辛気臭い顔しないでよね! 何があったのか話してよ」
その言葉を、内心では待っていた。
誰かに引き上げてもらわないと浮上できない自分が、心底嫌になる。
打算的に期待していたのだと気づくほど、情けなくなる。それでも、口は止まらなかった。
「実はですね――」
私は、さっきのカフェからの顛末を、順を追って話した。真夏は、茶化すでもなく、相槌も最小限に、ただ真っ直ぐこちらを見て聞いてくれる。普段のほわっとした空気はしまいこまれていて、眼差しだけがやさしく鋭い。
ひとしきり話し終えると、彼女はふう、と深く息を吐いた。
「葵ちゃんさぁ……それは良くないよ」
胸の真ん中に、小石がぽとりと落ちたみたいに痛む。
「言うだけ言って、ただ感じ悪くなってる。しかも、佐山くんも何か言いかけてたんでしょ?」
「そう……ですね」
ぐうの音も出ない。正論は、時々いちばん刺さる。
「聞くのが怖い気持ちは……まぁ、わかるけどね。それでも、そこはちゃんと会話をしないと!」
叱られているのに、ありがたかった。
真夏は、私が道を外したとき、必ず真正面から言葉をくれる。痛いけれど、そこには必ず、私の背中を押す力がある。
落ち込む私を見て、彼女の表情が少しやわらぐ。「しょうがないなぁ」とでも言いたげに口角が上がった。
「まぁ、今まで経験のないことだもんね。仕方ないといえば仕方ないよ」
「私は……どうすれば……」
「とりあえず!!」
ぴん、と人差し指と中指を立てる。彼女の声が周囲のざわめきより少しだけ高く響いて、私の意識を掬い上げた。
「葵ちゃんがやるべきことは二つ」
指が一本ずつ折りたたまれていく。
「一つは、佐山くんに謝ること。さっき遮ったことも、逃げたことも、ちゃんとごめんって言う」
もう一本。
「それからもう一つは、佐山くんに思いを伝えること。これは、今日の二十時に来ても来なくても——絶対にやらないといけないよ」
言い切る声に、迷いがなかった。
本当に、そのとおりだ。けれど――素直に口が動く自信はない。私の沈黙を見透かしたように、真夏が一歩詰めて、両腕で私をぎゅっと抱きしめた。シャンプーと柔軟剤の混じった匂い、体温、骨の硬さ。背中に広がる掌の圧が、緊張の糸を一つずつほどいていく。
「心配しないで。どんな結果になっても――わたしがいるんだから。次の作戦だって考えてあげれるし!」
言葉だけじゃなく、抱擁の温度が胸に染みて、張り詰めていた膜がやわらかくなる。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
持つべきものは、幼なじみ。そう思う反面、頼りきりにはなりたくない自分もいる。私は小さく息を吸って、意地をひとかけらだけ口にした。
「……まぁ、仮に次の作戦が必要になったとしても、自分で立てますけど」
「おっ! ちょっといつもの葵ちゃんらしくなったね!」
「……おかげさまで」
「うんうん、それでこそ葵ちゃんだよ!」
肩を軽くぽん、と叩かれる。目線の向こう、クラス全体に「集合ー!」の声がかかり、先生が点呼表を手にぶんぶん振っていた。
「それじゃ、そろそろみんな集まったみたいだから、バスに乗ろっか」
真夏に促され、私たちは動き出す。
夜の入り口の気配を帯びた空気がひやりと肌に触れた。階段を降り、停車レーンへ。
六甲山キャンプ場行きの札が掲げられたバスに、列を作って乗り込む。柔らかな緑のモケットシートに私は真夏と並び、窓側を彼女に譲った。
車内の照明が一本ずつ灯り、エンジンの振動が背中に伝わってくる。ドアが閉まるプシューという音。先生の「忘れ物ないかー?」という大声。全員の返事が合唱みたいに重なって、やがてバスは滑るように動き出した。
真夏はヘッドレストに頭を預け、私の方に顔を向けた。
「ね、二十時。逃げない」
「……はい」
たった一言でも、口にするだけで輪郭がくっきりして、恐れと同じ濃度の覚悟が生まれる。私は膝の上で手を組み、親指同士をそっと重ねた。黒い窓に映る自分の横顔は、ほんの少しだけ強そうに見えた。
頭の中で段取りを組み直す。まず謝る。遮って、逃げたことを。言い訳はしない。次に、思いを伝える。飾らない言葉でいい、短くていい。もし彼が来なかったときは――それでも、翌朝話す時間を作る。どんな結果になっても、曖昧にしない。私の悪い癖に負けない。
バスは山道に入り、カーブのたびに車体が体を包むように傾いた。外はもう薄闇で、遠くに六甲の稜線が墨絵みたいに重なっている。窓をほんの少しだけ開けると、湿った土と、針葉樹の青い匂いが一筋入り込んできた。
「ねぇ、葵ちゃん」
真夏が囁く。声は小さいのに、はっきり耳に届く。
「ほんとに、どんな結果でも大丈夫だからね。喜ぶのも泣くのも、付き合うから」
「……ありがとう」
私は視線を落とし、シートポケットに両手を差し込んで、布の感触を確かめた。胸の奥の震えは残っている。でも、さっきよりも、ずっと小さい。
今度は逃げない。そう繰り返し、窓の外に視線を移す。もっと濃くなっていく山の影に向かい、バスは一定の鼓動で登っていく。二十時までの時間は、きっとまたあっという間だ。だからこそ、今、深く息を吸い、心を整える。
シートに背中を預ける。薄暗い通路灯が、私と真夏の膝に等しく滑る。指先の冷たさは、もうほとんど消えていた。
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