EP48 もう少しだけ
夢を見ていた。
私よりも大きな、もふもふの犬。雲をそのまま丸めたみたいな毛並みに、身体をくるりと小さく丸めて、頬を埋める。深く息を吸うたびに、干したてのタオルみたいなあたたかい匂いが胸の奥までしみ込んできて、肩の力が音を立てて抜けていく。
大きくて、柔らかくて、安心感があって、心地よい。触れているだけで、体温が静かに同じ高さへそろっていく。
……でも、この犬はなんだろう。
家で飼ったことなんてないのに。誰の家の子だろう。そんな疑問が薄い靄みたいに額をかすめた、その時――
「——うわあああああ!!」
近くで弾けるような叫び声。睡眠の表面に浮いていた私の意識が、一気に水面上へ引き上げられる。
「……うるさいですね」
ここ数日、寝相テロリストに挟まれて安眠できていなかった身としては、貴重な朝の静けさを破られた恨み言のひとつも出る。
目頭を親指で軽く押さえ、上体を起こして周囲を見渡す。
隣の枕に、佐山くん。ぽかんと口を開け、こちらを見て固まっている。どうやら先ほどの大声の主は彼だったらしい。
――そっか、二人で一晩を過ごすことなったんでしたね。
昨夜の経緯を、まだうまく回らない頭で巻き戻す。それにしたって、この叫びは何なのか。
「なんなんですか、朝から」
枕元の髪を耳にかけながら、少し恨めしく問うと、彼は近くの空きベッドを指差した。
「な、なんでお前、隣で寝てんだよ!! たしか、あっちのベッドにいたよな!?」
――あ。そうでしたね。
寒いからという建前を用意して、同じ布団に潜り込んだんだった。ほんとうの理由を口にするのは、さすがに朝から心臓に悪い。
「…………あぁ、いえ」
咳払いで言葉を整え、事前に用意していた建前をそっと取り出す。
「夜中に少し寒かったので、ちょっと暖を取らせてもらっただけです」
「なんでだよ! 暖房の温度を上げろよ!」
「……暖房、苦手なんですよ」
乾燥して喉が痛くなるし、頭がぼうっとする。ついでに言えば――
「近くにちょうどいい湯たんぽがあるなら、そっちを使いますよね?」
「誰が湯たんぽだ!」
声だけは憤慨しているけれど、表情はいつもの佐山くん。
昨夜、一晩を同じ部屋で過ごしたことで何かが決定的に変わってしまっていたら、とほんの少しだけ怖れていた私は、そのいつも通りに安堵する。
「……それより、今何時ですか?」
枕元のスマホへ手を伸ばすのと同時に、彼もポケットからスマホを引き抜いて時刻を確かめる。
「七時過ぎか。もうすぐ朝食の時間だな」
窓の明るさに納得がいく。ぐっすり眠ってしまったらしい。
「……この時間なら人の動きも多いので、紛れて移動できると思います」
ベッドから足を下ろしながら告げると、彼は状況をすぐ呑み込んで頷いた。
「なるほど! それじゃあ、昨日の服に着替えたほうがいいな」
彼は脱衣所のほうへ向き直る。
「……私もこっちで着替えます」
バッグに歩み寄り、ファスナーを開く。ついでに一言、軽口を添える。
「……あ、それと——覗きたかったらご自由にどうぞ」
「し、しねぇよ!!」
反射で否定しつつ、脱衣所へ逃げ込む背中。ドアが静かに閉まった。
* * *
私はバッグから服を取り出す。
大きめで無地のパーカー、黒のタイツ、すっきりしたラインのショートパンツ。
真夏やツカサが選んでくれた華やかなコーデも、たしかに入っている。けれど、今日はこれがいい。
彼に、私の普段を見せたいから。
鏡の前でフードを軽く直し、裾を整える。肩の落ち方、袖の長さ、タイツの黒が脚の線をほどよく引き締める感じ。呼吸がひとつ深くなる。
「着替えたので、出てきて大丈夫ですよ」
声をかけると、脱衣所のドアが少しずつ開いて、彼が顔を覗かせた。まるで何かに怯えるような慎重さ。
目が合って、彼の視線が頭から爪先へ、すっと降りていくのがわかる。数秒の沈黙。ぽろり、と言葉がこぼれた。
「似合ってるな。お前らしくていいと思う」
欲しかった言葉。そのまま、ド真ん中。胸の奥で小さく弾ける音がした。
「…………あ、ありがとうございます」
照れが一周して、声が上ずりそうになるのをなんとか飲み込む。
「お、おう」
なぜか彼も同じように視線を泳がせて、頬を掻く。変な気まずさを追い払うみたいに、彼が咳払いして立ち上がる。
「そ、それじゃ、俺は一回部屋に戻るわ」
昨夜貸したスウェットを丁寧に畳んで差し出してくる。その仕草が真面目で、少し可笑しくて、少し寂しい。
指先が布越しに触れて、温度がふっと離れる。踵を返した彼の背に、昨晩一度襲ってきた寂寥感が、もう一度、同じ形で戻ってきた。
――もう少し、もう少しだけ。この穏やかな時間に留まっていたい。
頭より先に、口が動いていた。
「――佐山くん。あの……神戸は詳しいですか?」
彼が振り返る。
「ん? ああ、昔住んでたのも兵庫県だし、大阪より詳しいと思うぜ」
「……今日の自由行動の時に、案内――してくれませんか?」
言ってしまった。断られたらどうしよう、という不安の形が出来上がる前に、彼の返事が飛んでくる。
「あ、ああ! もちろんいいぜ!」
胸の高さが、少しだけ上がる。空気が軽くなる。
「ふふ、ありがとうございます。それではお願いしますね」
自然と笑みがこぼれる。
「それと、出る時は慎重に出た方がいいと思いますよ。一応女子のフロアなので」
「忠告ありがとな! んじゃ、また後でな!」
彼は小さく手を振り、廊下の気配を探るみたいにドアをそっと閉めた。
静寂。さっきまで確かにここにあった体温が、部屋の広さに解けていく。広くなったように感じるのは、きっと気のせいじゃない。
――私の中で、彼の存在感は思っていたよりずっと大きくなっている。
そんなことを考えていると、置いてあったスマホが震える。画面に光る名前は、真夏。
『今、部屋の前にいるから鍵開けてほしいな』
…………はぁ。
深く、ひとつため息。
幸福の後ろに、決まって付いてくる試練という名のオマケ。彼女の顔を思い浮かべる。きっと、あの悪戯っぽい笑みを浮かべている。
それでも――たぶん、避けては通れない。私は立ち上がり、窓際で一度身だしなみを確認してから、ドアののぞき窓に目を当てる。廊下の照明は朝の白さで、そこに真夏の影が綺麗に切り取られていた。
――いや、むしろこちらから苦言を呈すべきか。勝手なことをしてくれたなと。
心の中でそう呟きながら、私はドアハンドルを静かに下ろした。
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