EP37 導線

 バスが海風を巻き込みながら停まり、私たちは大阪ベイホテルのガラス張りの車寄せへ降り立った。


 湾の匂い、潮気を含んだ風、磨かれすぎて夕景を二重に映すファサード。


 ここが今夜の宿であり、そして――勝負の盤面。


「……今日は色々とありがとうございました」


 私は人の流れから半歩だけ外れ、佐山くんに小さく頭を下げた。そして、彼の反応を確認することなく女子の輪が形成されている方へ足を進めた。


 女子の集結地点へ歩くと、真夏はすぐに気づいて、ぱっと表情を明るくした――けれど三方を取り巻き三人衆に固められていて、こちらへは来られない。


 視線だけで『あとで』とやりとりする。


 そのすぐ後ろから、すすすっと音もなく近づく気配。


「おかえりなさいませ。……そ、その、いかがでしたか? も、も、も、もしかして、その……ヤッちゃったりしましたか?」


 どうして水族館の語彙から最短距離で不健全に飛ぶのだろう。ひよりの頭の配線は、やっぱり独特だ。


「そんなこと、あるわけないじゃないですか」


「ほ、本当に何もなかったんですか!? サメを見て『キャー怖い』で抱きついたり、ナマズ触って『痺れちゃったみたい』って寄りかかったりとか!」


「水族館を何だと思ってるんですか。……ありません」


「そ、そうなんですか……。でも、葵さんの雰囲気、こう、やわらいでまして。なにか、良いことがあったのかと」


 妙に鋭いセンサーは、今日も健在だ。私は口角だけで小さく笑う。


「まあ、は、たしかにありましたね」


「ほうほうほう!!! く、詳しく! 詳述を!」


「今日は別の部屋でしょう。また明日」


「や、約束ですからね!! 逃げたら、泣きますよ!」


「はいはい。逃げません」


「うへへ……では今晩、楽しんできてください」


『も』に含まれた意味を、捉えないようにする。


 ――楽しむ、か。


 勝負はもう、色づけにすぎないのかもしれない。


 私はその思いを胸に、ひと息だけ深呼吸して、明るいロビーの自動扉をくぐった。



     * * *



 ロビーはまばゆかった。天井から滴るように連なるシャンデリアが幾万の光粒を放ち、大理石の床はそれを鏡のように返している。


 先生の点呼と説明がひとしきり終わると、各部屋の代表者が順に呼ばれていく。


 名札を読み上げる声がロビーの天井で柔らかく反響し、カードキーが配られるたび、プラスチック同士の乾いた音が小さく鳴った。


 ついに私の名が呼ばれる。受け取った封筒を開くと、ICチップの入ったカードが二枚、ホテルのロゴを金箔で押した厚紙に差し込まれていた。


 部屋番号は――1032。白い文字が妙にくっきり目に残る。


 部屋へ向かう前に、私はフロント脇の柱の陰からお目当ての人物である二見くんを探すと、すぐに目についた。


 代表者の列から離れ、ポケットにカードを収めたところで呼びかけると、彼は相変わらず温度の読めない笑みでこちらを見た。


 さっきまで美島さんの腕に絡め取られていた男とは思えない、冷めた回路の目だ。


「二見くん――」


「ああ、鷹宮さん。例の話、だね」


 うなずき、私は二枚のカードキーのうち一枚を彼の掌にすべらせる。指とカードが触れた一瞬の小さな摩擦音が、やけに耳に残る。


「……確かに受け取ったよ。これを太一に渡すね」


「お願いします。入浴時間は二十時から二十一時。できれば――二十時過ぎに」


「わかった。そのあたりの段取りはこちらで調整するよ。鷹宮さん、太一をよろしく」


 指をひらひらさせて去っていく背中は、いつもどおり抜かりない。私が動かせるコマは、これで揃った。


 ――あとは、迎え方。


 室内の照明は天井灯ではなく、ベッドサイドとバスルームの間接光だけにしておこう。


 浴室の扉は曇りガラスだろうか?

 だとすれば好都合だ。近づかないと見えない距離感。


 ――そうなれば、彼は必ずもう一歩、二歩、こちらへ踏み込む。


 想像だけで、頬の内側が少し熱くなる。勝負は勝負。それでも、心のどこかで『楽しみ』という語の輪郭が濃くなるのを否定できない。


 軽い心持ちのまま、真夏の姿を探す。取り巻きに囲まれているときの彼女は、群舞のセンターみたいに目立つのに、今は見当たらない。


 ロビーの柱の陰、スタッフカウンターの列、回転扉の外――と順に目を走らせると、エスカレーター脇でキャリーのベルトを直している後ろ姿を見つけた。


「……真夏」


「葵ちゃん!」


 振り向いた顔がぱっと明るくなる。


「カード、受け取れた?」


「はい――1032です。行きましょうか」


「はーい!」


 彼女はキャリーのハンドルを引き上げ、私の横に並ぶ。ガラスの自動扉に映る二人分の姿が、シャンデリアの光に薄く縁取られている。


 エレベーターのボタンを押すと、数字の灯りが一段ずつ落ちてくる。

 扉が開くと、艶のある鏡面に、少しだけ上向いた自分の口角と、浮ついた心を誤魔化すようにまっすぐ前を向く瞳が、重なって映った。


 今夜の段取りを、もう一度だけ胸の内で反芻しながら、十階へと向かうのだった。

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