EP36 矢印の行き先

 エレベーターの扉が開いた瞬間、空気の温度がひとつ落ちた。青が濃くなる。天井も、左右の壁も、水。


 波紋が光を砕いては貼り直し、通路全体がゆっくりと呼吸しているみたいだった。


「なんか、海の中にいるみたいだな」


「たしかに、その通りですね」


 佐山くんの独り言に、素直に同意する。


 頭上をマンタがふわりと滑空し、斜め前ではイワシの群れが銀の矢尻を無限に生成してはほどいていく。見上げても見回しても、水の都合で世界が静かだ。


 人の足音は吸い込まれ、代わりにポンプの低い唸りが一定の鼓動のように続いている。


 海のトンネルを抜けた先で、二見くんと美島さんに追いついた。彼女は完全に腕を絡め、彼はそれを当然の体温みたいに受け入れている。甘さが空調の冷たさに勝ち、見ているこちらがむず痒くなる。


 もし、自分にもああいう『片側に寄りかかれる温度』ができたとして、同じだけ温まるのだろうか。


 想像がまだ追いつかない。

 重ねた月日の差、というやつだろうか。


「……あの二人、付き合ってどのくらいなんですか?」


「半年くらいかな」


「そうですか」


 半年。

 この年代なら十分に部類かもしれない。三ヶ月もてば上出来、という噂を何度も耳にしてきた。


 ふと横目で佐山くんを盗み見る。すると、ちょうど彼もこちらを見ていて、目が合った。


 ――っ。


 自分でも笑えるくらい、反射的に視線を逸らす。変な連想をしていたせいで、頬の内側がじわっと熱い。


 ……なんでこっちを見ていたんですか。


 そんなことを思いながらむくれ顔で彼に向き直ると、言葉が飛んできた。


「鷹宮は、彼氏とかいないのか?」


 いま、何と?


 内容はわかる。

 ただ、その矢印の行き先がであることに、脳が半拍遅れて驚く。


 これまでその手の問いは何度も聞いた。でもいつだって、向けられるのは真夏へだった。


「……いませんよ」


 事実だけを、できるだけ平板に返す。佐山くんの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 安堵、だろうか。その理由までは掴むことができなかった。



     * * *



 順路はゆるやかに落ち、照明がさらに沈んだ。

 どうやら深海魚エリアに入ったようで、足裏に伝わる床のひんやりが一段強くなる。


 壁一面の黒いガラスに、ランプのような点がぽつぽつと浮かび、チョウチンアンコウの擬餌がゆらりと揺れていた。


 遠くでポンプの低い唸り。観覧客の話し声は水に吸われるみたいに小さく、私と彼の靴音だけが、薄く、控えめに重なる。


 側面のケースには、リュウグウノツカイの標本が銀の帯となって伸び、斜め上のスクリーンではデメニギスの透ける頭部がゆっくり回転している。


 暗闇の濃度があがったぶん、彼の輪郭もやわらぎ、呼吸の上下だけが近くなった。


「……さっきの質問、そのまま返してもいいですか」


 私の声も知らず知らず落ちて、囁きに近かった。


 彼は「へ?」と小さく振り向く。瞳孔が開いて見えるのは照度のせいか、それとも――。


「佐山くんは、彼女――いないんですか?」


「は、はあっ!?」


 深海の静けさには場違いなほど素直に跳ねる。その反応が可笑しくて、でも顔には出さないでおく。彼は慌てて視線を上に下に、右に左に忙しなく移動させる。


「い、いないに決まってるだろ! ほら、あれだ! その……勉強やら部活やらで忙しくてだな……!」


 言葉が互いにぶつかり、角が取れていく感じ。息が少し上ずっている。深海魚の発光が彼の頬に青白い縁取りをつけ、動揺の色を柔らかく塗り替えてしまう。


 私は頷いてみせるだけにとどめた。なのに胸の奥で、小さな波が音を立てて崩れた。


 ――いないに、決まっている。


 その返答に、思っていた以上の安堵が押し寄せる。肩に入っていた力が、知らないうちに抜けていくのがわかった。


 ……可笑しい。


 彼に特定の相手がいないと知って嬉しく思うなんて――そんな自分をいったん距離を置いて眺めようと水槽に目を向ける。


 ガラスの向こうで、深海の生き物たちは、ゆっくりだ。浮力に身をゆだね、最小限の動きで生きている。


 私の中の何かも、速度を落とす。真夏の言葉が、暗がりでまた光を取り戻した。


 ――あながち、間違いじゃないのかもしれない。


 からかい半分の、あの「好きな人ができたんだ」という言い草。正面から否定したはずなのに、今この瞬間の安堵と釣り合いが取れない。


 気づかれないように、指先だけで手すりをなぞる。ガラスは静かに冷たいけれど、そこに映る私の輪郭は、さっきより少しだけ柔らかいように思えた。



     * * *



 順路の矢印は出口方向を示し、通路の勾配は再び上がり始める。暗さの密度が少し薄れ、足音も人の声も戻ってくる兆し。


「行きましょうか。二見くんたちは、きっと先にショップのほうに行ってます」


「あ、ああ。そうだな――」


 そう言って歩き出すと、横を歩く彼の肩と、私の肩の影がガラスの手すりに並び、同じ速度で揺れた。出口へ向かうにつれて照明は明るく、色は浅くなる。


 ふたりの影は青から白へと色を変え、やがて観光客の雑踏に紛れて見分けがつかなくなった。


 それでも、胸のどこかにはさっきの暖かさが残っている。深海の温度で静かに灯る、小さな合図。


 私たちは順路に従って、緩やかな上りを抜け、出口の光へ歩を進めた。

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