EP22 仕掛けは上々

 片付けが一段落しはじめた頃合いを見計らって、私はトングと布巾を置き、佐山くんのもとへ歩いた。炭床の赤がまだ生きていて、風が吹くたびにぱち、と音を立てる。


「佐山くん、少しお時間いいですか?」


「ん? なんかあったのか?」


 一応、学校一の美少女――真夏に関する情報だ。できれば、彼以外の耳には入れたくない。

 私は人混みとざわめきから一歩外れた影へ誘い、彼の肩を指で示して屈んでもらう。ぐっと近づいた耳に、吐息が触れる距離で囁いた。


「……耳寄りな情報です。あのですね、小鳥遊さんのコテージは9番なんです」


 彼の喉がひゅ、と鳴る。驚きの声が出かかって、慌てて自分の口を手で押さえた。その仕草が可愛らしくて、私はさらに畳みかける。


「それから――小鳥遊さんの入浴順は最後。たぶん……22時半頃だと思います。ほら、他の子たちが先に済ませてから、ゆっくり入るタイプなので」


 近すぎる距離に混乱しているのが、表情と呼吸でわかる。私の言葉を疑う気配と、耳にかかる吐息の熱で平衡感覚を崩している気配――その両方が、手に取るようだ。胸の奥で、また小さな火が灯る。


「な、なんで知ってるんだよ……」


「なんでって……私も同じコテージですから、小鳥遊さんと」


 もう一歩。私はさらに唇を寄せる。どちらかが少しでも動けば、私の唇が彼の耳たぶに触れるほどの近さで。


「――あ、でも。もしかしたら、佐山くんには、あんまり必要のない情報だったかもしれませんが」


 ぱっと、弾かれたように彼が上体を起こした。目が合う。揺れる瞳。


 仕掛けは上々だ。暗に『あなたのターゲットは把握している』と伝えつつ、時刻という餌も置いた。

 おそらく彼は鵜呑みにせず、二見くんへ相談する。そこで、美島さん経由の情報源と符合する。

 信用するか、疑うかはわからない――けど、少なくともその時間に『動く』選択肢を外せなくなる。


 それに、今の可愛らしい顔も見られた。


 今この場で私がやるべきことは、早く彼を解放して、二見くんとの会合を実施させること。


「ふふっ。お話ししたかったのはそれだけです。では、また――」


 呆然と立ち尽くす彼を横目に、私は何事もなかったかのようにテーブルへ戻り、濡れ布巾で鉄板の縁を拭った。残った油が薄く光る。


 ――さぁ、いっぱい悩んでくださいね。



     * * *



 コテージに戻ると、真夏と取り巻き三人衆は宣言どおり、美島さん主催の花火へと連れ立って出ていった。

 玄関が閉まる音とともに、室内の空気がふっと軽くなる。残されたのは、ひよりと私だけ。

 

「先に入りますね……っ」

 

 ひよりはそう言って、タオルを抱えて浴室棟へと向かった。

 ほどなくして頬を上気させて戻ってくると、入れ替わりに私が扉を開いた。

 

 昨日の大浴場とは違って、ここの浴室はこぢんまりとしている。けれど、浴槽は檜でできていて、湯気に混じって柔らかな香りが立ちのぼっていた。

 鼻から喉へすとんと落ちていく、この落ち着く匂い――悪くない。

 

 かけ湯をして、足先からゆっくりと湯へ沈む。脛、膝、太もも、腰……肩まで浸かると、視線を上へ。

 

 そこには天窓――木枠の四角い暗がりが、夜の気配をそのまま切り取っている。

 

 ふふっ――佐山くんは、あんなところから覗こうとしているんですね。

 

 どう迎えてあげようか、と想像するだけで、お腹の底から熱いものがふつふつとこみ上げてくる。

 どうすれば昨日よりも悶えさせられるか。どうすれば、理性と本能の引き合いを、もっと近くで、はっきり見られるか。

 

 考えて、考えて、考え抜く。

 

 ――そうですね、今回は……距離を縮めてみましょうか。


 脳裏に浮かぶのは、至近で私の身体を視界に受け止めて、息を荒くしながら視線のやり場を失う彼の顔。想像だけで、身体の温度が一段上がった気がする。

 

 ……このままだと、のぼせてしまいそう。


 私はそっと浴槽から上がり、洗い場へ向かった。

 シャワーをひねると、静かな空間に一定のリズムで水音が満ちる。まるで儀式の前奏のように。

 

 まずは髪。掌にのばした泡を根元へ揉み込むと、指先が頭皮をゆっくりと撫でていく。

 

 円を描いてほぐすたび、こめかみから熱がぬけ、かわりに澄んだ高揚が戻ってくる。泡立つ香りが檜と混ざり合い、息も少しだけ甘くなる。

 

 次にうなじから肩。シャワーが斜めに落ちて、鎖骨の窪みに溜まり、そこからゆっくり胸元へすべっていく。

 手のひらで滑りをつくり、筋肉の流れに沿って撫で上げると、皮膚が微かに粟立つのがわかる。肋の起伏をなぞりながら、呼吸の上下と手の動きを合わせる。

 

 整えて、解いて、また整える――迎え入れるための所作として。

 

 みぞおちから下腹へ。泡をやわらかく転がし、腰骨のカーブを確かめる。内側に宿る熱を、ただ煽らず、静かに馴染ませるように。

 

 太ももは外側から内側へ、軽く圧をかけて撫でると、筋がほどけて、膝裏まで温度が伝わっていく。

 

 ふくらはぎは下から上へ、足首はくるぶしの周りを指で輪にして、最後に足の指の一本一本まで、丁寧に洗い分ける。

 

 昨日、身体を洗ったときと同じ動きなのに、心持ちはまるで真逆だ。

 

 あのときは、こびりついた何かを落とすように。

 今は、ひとつひとつを整えていくために。


 シャワーで泡を流すと、肌が湯気の薄衣に包まれたみたいに軽くなる。鏡にうつる自分が、ほんの少しだけ背筋を伸ばしていた。


 ――佐山くん。

 しっかりと、溺れさせてあげますからね。

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