EP23 いらっしゃいませ

 お風呂から上がると、湯気と一緒に仄かに檜の香りが髪に絡みついていた。

 

 持参したパジャマを広げる。サメのパジャマも捨てがたいけれど――距離を縮めるなら、今日はこっち。

 

 モコモコのショートパンツに、同素材のフード付きパーカー。見た目の可愛らしさも、手のひらに吸い付くやわらかさも、そして露出のバランスも、全てとしてちょうどいい。

 

 肌の水気をよく拭き、髪を軽く乾かしてから着替える。布の内側で、さっきまでの熱がほんのりと蒸されている。袖口に指を通し、パーカーのジッパーを閉めると、胸元の窮屈さが際立った。

 

 ――うん。これでいい。

 

 浴室棟を出てコテージへ戻ると、ちょうど真夏と取り巻き三人衆が花火から帰ってきたところだった。

 頬に夜風の名残をのせたまま、順番にタオルを抱えて浴室へ向かっていく。

 

 私はキッチンのボトルから水を注ぎ、熱った身体を内側から冷ます。喉を落ちていく冷たさが気持ちいい。

 

 すると不意に、真夏が声をかけてくる。

 

「葵ちゃん、なんかいいことでもあった?」


「別に……何もないですよ」


 相変わらず、変なところで鋭い。付き合いが長すぎるというのも困りものだ。

 

「えー、そんなわけないよ」


「どうしてそんなことが言えるんですか」


「気づいてないの? 葵ちゃん、笑ってるから。いつもムスッとしてることが多いから、すぐにわかるよ」


 言われて、頬に両手を当てる。

 

 ……まさか、無意識に。

 

 顔を上げると、目の前にはニヤニヤと悪戯っぽい真夏。


「嘘だよ、嘘。でもこれで、葵ちゃんに、それも無意識に笑ってもおかしくないようないいことがあったってことだね」

 

 ……カマをかけられた。真夏なんかに。

 

 自分に向けた軽い怒りと羞恥に背中を押され、「……部屋でしおりを書いてきます」とだけ告げて、割り当てられた二階の寝室へ向かおうと足を踏み出す。

 

「葵ちゃん!」


 背後から飛んでくる真夏の声。


「昨日も言ったけどさ、何かあったらちゃんと話してよね」


「…………話すようなことは、何もないですから」


 話せば揶揄われるのは目に見えている。加えて、ないとは思うけれど、万が一――いや億が一でも、真夏が彼に興味を抱いたら……。

 

 そんな想像が絡みついて頭から離れない。

 私は振り返らずに一言だけ残して階上への歩みを進めるのだった。



     * * *



 しばらくして、階下から真夏の声。浴室棟へ行くらしい。壁の時計に目を遣ると、22時20分。

 

 ……予定より少し早い。でも、許容範囲。

 

 戸越にテラスを静かに見つめる。月明かりが床板を薄く洗って、欄干の影が二本、斜めに走る。

 喧騒とは切り離された、まさに――嵐の前の静けさという様相だった。

 

 ここまで来れば、段取りは整っている。

 雨樋、テラス、天窓、浴室棟――導線は一本に繋がった。

 

 ……きっと、もうすぐ。

 

 私はベッドに仰向けになりながら、夜空に浮かぶ月の輪郭を見上げる。

 指先には、まだ檜の香りと、湯の温度の残像。そして……胸の奥で、期待と意地悪な愉悦が並んで呼吸している。


 ――さあ、来て。

 こちらはもう、準備万端なんですから。



     * * *



 時計の長針が文字盤の8を指したころ――これまでの静寂を破るかのように、テラスに影が登ってきた。

 私は室内で息を潜めて、視線だけをテラスへ滑らせる。

 

「よし……これで第二関門もクリアだ」


 月明かりに縁取られた横顔が、得意げに呟く。私にずっと見ていたということなど露知らず。

 

 すると彼は手すりに片足をかけ、浴室棟の屋根へ飛び移る算段を建て始めた。

 

 ――今。


 私は音を立てないよう一歩踏み出し、テラスに躍り出た。


「あら、佐山くん。こんなところで何してるんですか?」


「うおぁぁぁぁ!?」


 勢いよく振り返った彼は、声だけでなく体までひっくり返った。大の字に仰向けになって、月と私を交互に見上げる。私は柵沿いに、ゆっくりと距離を詰めた。

 

「……マジ、かよ」


 吐息混じりのつぶやきと一緒に、彼の視線が、月に磨かれた刃物みたいに私の肌をゆっくりなぞる。

 

 素肌のふくらみを残した太ももの外側を縁取り、ショートパンツの裾で一拍置いてから、くびれに吸い寄せられるように腰へ沈む。


 その眼差しに、視線だけで留め具を外され、重ねた布を一枚ずつ剝がされていく幻覚に、背骨の内側から火が点く。

 喉の奥が甘く乾き、下腹の奥で小さな熱がぷつぷつと膨らむ。

 

 ――触れられていないのに、触れられ続けているみたいだった。


 けれど、ただ見られ続けるというのは芸がない。


「――あの。そんなにじろじろと、どこを見てるんですか?」

 

 穏やかに首を傾げる。あなたが何を見て、何を思っているかは、お見通しですよ――という合図も一緒に。


 彼は弾かれたように上体を起こし、目を泳がせた。

 

「ど、どうしてここに……」

 

 あなたを待っていたんですよ――は簡単すぎる答えだ。もっと、あなたの反応を味わってからにしよう。


「そうですね……お風呂上がりに涼みに来たっていうのは、どうですか?」


 即座に、眉間にしわ。目が『絶対に嘘をついているただろ』と訴えている。

 

 ……そこは鋭いのですね。


「――まぁ、嘘なんですけど」


「ほら見ろ!! やっぱり嘘じゃねぇか!」


「ここにいたのは、佐山くんがこの時間にここへ来るって予想してたからですよ。本当にまんまと来たので、逆に罠かもって疑っちゃったくらいです」

 

 彼は押し黙った。喉仏が小さく上下する。息が一拍、乱れる。


 私はその静けさの隙間に、そっと言葉を置いた。


「せっかくなので、答え合わせをさせてください」


 ――答え合わせ。

 それは、私がこの勝負の勝者になるための、ある種儀式のようなもの。

 

 月明かりの下で、私は一歩だけ彼に近づく。彼の瞳に、私の輪郭がくっきり映る距離。

 

 ――佐山くん……私が勝利した暁には、ご褒美をいただきますね。

 

 そんな思いを込めながら、私は小さく微笑んだ。

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