EP20 名探偵

 佐山くんと別れて、広場の端を抜けると、茂みの影からひよりが戻ってきた。

 頬は上気し、前髪の隙間から覗く目は、どこか恍惚。


 ……触れたくないけれど、顔に『聞いてほしい』と大書きしてある。


「…………その、どうだったんですか?」


 私が観念して切り出すと、ひよりは胸の前で両手を組み、魂を抜かれたみたいにうっとりと語り始めた。


「はぁぁ……尊い自然。鹿さんたち、まずは距離を測るんです。真正面からではなく、半身で、そっと近づく。その時の首筋の角度、耳の向き――拒絶されても崩れない礼節! あれは求愛における最高の所作と言っても過言ではありません!!」


 …………過言だと思います。


「そこからの、くんずほぐれつ! 一方的ではなく、合意のダンス! 前脚の添え方ひとつで、相手の緊張が解けるのが見て取れて……あぁぁぁ、重なり合う呼吸、合図の交換、まだ? 今? ――っていう微細な駆け引き!」


 ダンス……なんていう生優しいものなんでしょうか?


「さらに! 決定的だったのは離れ方! 終わり際にトンと離れて、互いに首を振って整えるんです。あれは――私たちは個だが、今この瞬間だけは一つだったという宣言! 尊っ……!」


 そう言ってひよりは昇天したようなポーズと表情をとる。


「……あの、大丈――」


「まとめるとですね!」


 急に復活した。

 ……心臓に悪いから本当にやめてほしい。


「愛や性癖って、鹿も人間も大差ないです! アプローチ、合図、最中の呼吸、そしてケアまで――合意と尊重とちょっとした悪戯心で構成されている! 生き物の普遍!!」


「……悪戯心も普遍なんですか」


「普遍です!」


 即答だった。目がキラキラしている。


「さぁ、葵さんも――新しい官能という扉の向こうへ、一緒に行きませんか!?」


「……何かを持っていかれそうなので遠慮しておきます」


「そ、そんなぁぁぁぁ!!! そろそろいけると思ったのにぃぃぃ!」


 ひよりは膝から崩れ落ち、芝の上で小さくのたうった。

 私はため息をひとつ。けれど、彼女の言葉のうち、『ちょっとした悪戯心』だけは、胸のどこかにひっかかったままだ。


「……とりあえず、水でも飲みます?」


「の、飲みます……少し語りすぎたので……」


 ペットボトルを渡すと、ひよりはこくこくと飲み、ようやく人心地ついたらしい。

 秋の風が木の葉を揺らす。私は腕時計で時間を確認して、彼女の肩を軽く叩いた。


「もうすぐ集合時間ですね。そろそろ歩きましょうか」


「は、はい!!」


 足音が2つ、芝生にやわらかく沈む。ひよりの奇妙な熱と、奈良の空の澄んだ青さが、どこかちぐはぐに混ざって、悪くない午後だった。



     * * *



 自由時間が終わりを告げるとともに、私たちはバスへ戻り、若草山麓コテージ村へと向かった。

 窓の外は一面の緑。草木が鬱蒼と茂り、風が通るたび、葉擦れの音が幾層にも折り重なる。


 どんな虫や獣が潜んでいるかもわからない――平素なら顔をしかめるところだけれど、今日は違う。


 佐山くんとの勝負が、ここから本番を迎えるからだ。


 さて……今日はどうやってくるつもりだろう。まずは推理の段から楽しませていただきましょうか。


 そんなふうに胸の内で手をすり合わせながら、先生に指示された通り、自分たちの泊まるコテージへと向かった。



     * * *



 9番コテージに到着。荷物を置くや否や、皆が「わぁ広い」「ロフトあるんだ」などと室内を探検し始める勢いに便乗して、私はさりげなく敷地の配置と導線を見て回った。


 目的はひとつ――彼がどうやって覗きに来るか、その可能性を洗い出すため。


 まずは浴室棟。出入り口は1箇所。仮に見つかったとき、退路が1本しかないのは致命的だ。あの成績優秀な二見くんが、そんなリスクの高い策を推すとは思えない。となると、正面突破ではない。


 では窓から――と、浴室棟の周りをぐるりと回る。壁面は板張り、視線の高さに窓は見当たらない。


 採光が必要なはず……なら、上だろうか。


 私はコテージの2階へ上がり、テラスに出た。夕方の光が木立の隙間から斜めに差し込み、床板に葉の影を落としている。視線をすべらせると、浴室棟の屋根に小さな天窓――あった。

 ここなら、内部を覗くことができる上、屋根伝いに複数の逃走経路を確保できる。


 ……狙うとしたら、こっち? でも、どうやって登るのか。


 私はテラスの手すりに沿ってゆっくり歩き、角度を変えて眺める。浴室棟の外壁には、ハシゴや足がかりになりそうな出っ張りは見当たらない。防犯の観点から当然だ。


 ……ならば、このテラスを経由する?

 だとしても、どうやってここまで上がる?


 思考をまとめるように、テラスをぐるりと一周――そのとき、視界の端を茶色い何かが掠めた。


 ――雨樋だ。


 真新しく、しっかりと固定されている。縦に伸びる管は、地面からテラスの床面へすとんと通っていた。


 ……これなら、彼くらいの身体能力があれば、登ってこられるかもしれない。

 しかも、まさかそんなところから――という意表が突ける。


 どうしてだかわからないけれど、胸の奥でこれが正解と鐘が鳴った気がした。


 だとすれば、残るピースは時間――実行のタイミングだけだ。


 その鍵を握るのは……おそらく、彼女たち。私はテラスから視線を落とし、下の芝の上でまたしても寝床の取り合いを始めている取り巻き三人衆へ目を向けた。


 ふふ。待っていてくださいね、佐山くん。

 しっかりと絡め取ってあげますから。


 胸の内側で、小さな火がぽっと灯る。それは期待や興奮などという生易しいものではなく、もっと性質の悪い、甘い熱。


 私は指先で手すりを軽く叩き、深く息を吸いこむのだった。

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