EP19 前菜
真夏ちゃん、ご飯終わった〜?
――と、取り巻きたちが呼びに来た途端、真夏はぱっと現実に引き戻された。あの滲むような笑みは跡形もなく消え始め、いつもの明るい、美少女じみた真夏が姿を表す。
それから取り巻き三人衆とのやり取りを続けていくと、あの真夏は夢か、人格を乗っ取られていたかのようにしか思えないほど完全になりを潜めたのだった。
ひとまず場は収まった。やれやれ、と胸をなで下ろす。
隣でひよりが小刻みに震えていた。
「こ、こ、怖かったです……ひ、ひ、人の
「落ち着いてください。深呼吸」
「すー……はー……。はぁぁ、でも今の、聖典にも書いてない類の
「出典が相変わらず信用ならないですが……その感覚は正しいと思いますよ」
そう言いながら、ひよりの背中を摩る。
このひよりをもってしても恐怖を感じるほどの性癖――真夏の闇を改めて理解したような気がした。
* * *
昼食を終えると、クラス全体で東大寺・南大門へ向かう。近づくにつれて、門のスケールが視界の隅々まで満ちていく。
「…………大きい」
思わず呟いた私の横で、ひよりがもう早口になっていた。
「見てください、あの仁王像! 阿形の怒髪天、吽形の吸い込む静けさ! 筋肉は張りとしなりが――」
鼻息荒く語り倒すひよりを横目に、私は像の視線の抜けを追う。怒りの形相なのに、どこか人間を見透かした余裕がある。たしかに、ただの脅しではない美しさがあるのはわかる。
……そして、隣の解説が過剰なのも毎度のことだ。
ひと通り見学を終えると再び自由時間になった。
真夏は一緒に行動したそうな目でこちらを見ていたけれど、取り巻き三人衆の引力に加えて、磯貝くんを中心にした派手なグループに腕を引かれ、あっという間に連行されていった。
まさに、人気者の宿命である。
そんなわけで、私とひよりの2人散策が続行。
特にあてもなく、木陰を選んで歩く。鹿が芝を食む音、遠くの観光客の笑い声、風鈴みたいに鳴る葉擦れ。頭の中の雑音が少し静まる。
そんな時、ひよりが急に立ち止まった。
「い、今、視界の端で……鹿さんたちが、くんずほぐれつしているのが見えた気がします」
「……はい?」
「ちょ、ちょっと見てきます!!! すみませんが、ちょっとだけ待っていてください!!」
言うが早いか、彼女は茂みの方へ颯爽と駆け出した。普段のオドオドした様子からは想像できないほどの身のこなしだった。
一体なんだったんだろう。
……いや、悲しいけれどだいたい想像はつく。
そして、ああなってしまったひよりは、暫く戻ってこないだろう。
小さくため息を溢すと、ひよりが帰還してくるまでの時間を潰すために、公園内をあてもなく彷徨うことにした。
* * *
観光客のざわめきの中、ふと『胎内くぐり』と書かれた案内板が目にとまる。
――大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴をくぐると御利益がある、らしい。
ご利益はあまり信じていないけれど、他にすることもない。私は列の最後尾に加わった。並ぶ背中をぼんやり眺めていると、後ろから声が飛んでくる。
「お、お前!? なんでここに!?」
振り返ると、佐山くん。珍しく一人だ。
「同じクラスなんですから、観光場所も似たり寄ったりになりますよ」
努めていつも通りに返す。けれど、彼が私の服――いえ、その中まで透かして見るような視線を送ってくるのは、昨晩から変わらない。生地一枚の向こう側まで覗き込まれている感覚に、胸の奥で熱がまた灯る。
「それにしても、一人だなんて珍しいですね」
「……翔吾がさ、彼女とどっか行っちまってよ」
「ああ、二見くんが。なるほど、フラれたわけですね」
「フラれたって、そういうんじゃねぇよ!」
反射的に跳ねる声が可笑しくて、思わずくすりと笑ってしまう。彼の反応は予想から寸分の狂いもない。
……せっかくだから、軽く揺さぶっておこうかな。
そう思い、私は一歩近づいて顔を寄せる。
「もしかして、そのお二人が覗きの協力者だったりしますかね?」
「ち、ちげぇって!!」
声色と目の泳ぎ方が、正解を雄弁に物語っていた。
……まあ、二見くんは修学旅行前から、美島さんは昨日の件で黒が確定していたけれど。
ここまで顔に出る人も珍しい。私は頬の筋肉を緩めた。
「ふふっ、そういうことにしておきます」
そんなやり取りをしていると、順番が回ってくる。
「それではお先に失礼しますね」
ぺこりと頭を下げ、柱の基部に開いた四角い穴へ身を滑らせる。内側は見た目よりも木肌が近く、肩が触れそうで触れない距離。けれど引っかかることもなく、私はするりと潜り抜けた。
意外と狭い。
……私より大柄な佐山くん、通れるのかな。
たしかリュックも背負っていたはず――。
顔を上げると、案の定。穴の半ばでリュックが木端に引っかかり、彼は前にも後ろにも動けなくなっていた。
ふふ……本当に仕方のない人。
「お手伝いしましょうか?」
私は彼の前にしゃがみ込み、目線を合わせる。
「い、いや、大丈夫だから——」
「まあまあ、そう言わずに。後ろもつかえてますから、引っ張ってみますね」
そう言って、彼の手をぎゅっと握る。
大きくて、節の感触が頼もしい手だ。私の指の冷たさが際立つほど、掌はあたたかい。握り合った瞬間、そこに通う微かな鼓動と温度――どことなく、彼の不器用な優しさまで感じる。
ちら、と顔を上げると、彼は頬を赤らめ、結んだ手元を見つめていた。
……その繋いだ手から、何を感じているんですか?
冷たさですか?
小ささですか?
それとも――もっと別のこと?
――彼を転がす選択肢はいくつも頭に浮かぶ。けれど口には出さない。
……本番は、夜に取っておかないと。
「はい、力を抜いて」
囁いてから、私はぐっと引く。背後からは係りの人の「押しますよー」という声。前後の力が合わさって、佐山くんの体がするりと穴から抜け出した。
「……っ、あ、ありがとな……」
照れ混じりのお礼。耳まで赤くなるその表情が本当に可愛らしくて、私はつい口角を上げてしまう。
「いえいえ、どういたしまして」
名残惜しくないと言えば嘘になる。けれど、メインディッシュは夜。好物は最後まで取っておくタイプだから――前菜はほどほどにしておかないと。
「それでは、また夜にお会いできるといいですね」
踵を返し、彼の返事を聞く前に歩き出す。背中に、慌てて言葉を探す気配が追いかけてくる。
私はそれを聞かないふりで受け流し、混じり合う人波の方へ足を進めた。
風が頬を撫で、指先にはまだ、あの温度が残っていた。
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