EP10 彼との邂逅

 湯気に包まれた大浴場に、バスタオルを手にして足を踏み入れる。

 その瞬間、視線の先に広がるのは、当たり前のように完璧な姿をしている真夏の裸体だった。


 均整の取れた脚のライン。無駄な贅肉が一切見当たらない腰回り。胸は決して過剰ではないのに、しっかりとした存在感を主張している。――女の目から見ても、整いすぎていて不安になるほどだ。


 自分の身体と比較すると、胸は私の方が大きいものの、全体的なバランスは明らかに真夏の方が美しい。

 羨望がひとしずく胸の底に落ちる。けれどすぐに、諦念と同時に、わずかな同情も湧いてきた。


 ――あの完成された姿は、持ち主にとって重荷でしかないのではないか、と。


「真夏ちゃん、やっぱりスタイルやばいね! 何食べたらそんなに細くなれんの!?」


「え、うーんと……わかんない、かな」


「これが生まれ持ったモノの差ってやつかぁ」


 取り巻き三人衆がはしゃぐ声は、まるで賞賛のための合唱だ。真夏は照れ笑いを浮かべながら応じているが、その表情が本心かどうかはわからない。


 彼女たちが湯船に身を沈めるのを見届けると、私は「……露天風呂に行ってきます」と小さく告げた。


 彼女らの返事を聞くこともなく露天風呂へ出て、二重扉を閉めると、夜の空気が一気にまとわりつく。秋の風は冷たく、濡れた肌に触れれば鋭い刃のように感じるはずだった。


 けれど、不思議とその冷たさは心地よかった。体の芯で燃え続ける熱を、かえって際立たせるから。


 湯気越しにぼんやりとした星空を仰ぎ、ふと視線を横に流す。そこには『従業員以外立入禁止』と書かれた、場違いなほど無骨なドア。湯の花亭の見取り図を頭に思い浮かべる――ここがボイラー室へと繋がる扉だ。


 耳を澄ますと、夜の静寂を破るように「ぎぃ……」と軋む音が混じった。風でも羽音でもない。方向は――あの扉の奥。

 胸の奥で、静かな確信が広がっていく。


 ……これは、間違いない。


 同時に、もし真夏が、徹以外の男に裸を見られるようなことがあったら――と考える。


 ……背筋が冷たくなるほど悍ましいおぞましい。彼のことを思うのであれば――ここで止めてあげるべきだろう。


 まるで兜の緒でも締めるかのように、バスタオルをきゅっと体に巻き付ける。

 そして、躊躇いなく、露天風呂を後にして、立入禁止の扉を潜った。



     * * *



 通路に足を踏み入れると、寒さは和らいでいた。風が遮られているからか、それともボイラーの熱が近いからか。さっきまで肌を刺していた秋の夜風が嘘みたいに、温い空気が漂っている。


 ヒタヒタと素足が地面を擦る音が、妙に心地よく耳に残る。浴場とは違う、閉ざされた静けさの中だからこそ余計に。


 やがて、ボイラー室の入口へ辿り着いた。


 ――この先にいるのは、おそらく。


 胸が自然と高鳴っていた。

 自分の鼓動が、静寂の中に溶け込んでいくのがわかる。まるで推理小説の探偵が真実を暴く直前のような、舞台に上がる役者のような高揚感。

 私はそのドアノブに手をかけ、躊躇なく押し開けた。


 中は薄暗く、蒸気のせいか、視界は霞んでいた。だが確かに、誰かが息を呑む気配がした。

 私は気持ちを抑えながら、一歩、また一歩とその気配の方へ近づいていく。


 そして給湯設備の向こう側を覗き込むと――そこには想像通り、険しい表情を浮かべている佐山くんがいた。


 胸の奥から、言葉にならない喜びが込み上げる。テストで満点をとったときのような達成感。けれど同時に、披露したい衝動を必死に堪える。ここで浮かれるのは違う。


 だから私は努めて平静を装い、口を開いた。


「……あの、こんなところで、何してるんですか?」


「う、うわああああ!?」


 彼は飛び上がったように驚き、慌てて後ずさる。その拍子に足を滑らせそうになっている。


 あまりに大げさな反応に、つい小さく笑みが漏れた。


「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」


 けれど、彼はこちらをじっと見つめながら、首を傾げていた。

 私が誰だかわからない――その顔。

 わかっていたことだけど、胸の奥に小さな棘が刺さる。


 ……私は知っているのに。それでいて、ここ最近は毎日のように考えていたのに。


「……あの、もしかして私のこと、わからないんですか?」


「え、えーっと……」


 額に皺を寄せ、必死に思い出そうとしている。考えていることが全部顔に出る人なんだな、と冷静に思う自分がいる。


 仕方がないから、教えてあげることにした。


「鷹宮です。鷹宮葵。同じクラスの――」


「え!? 鷹宮?」


 ……そんなに驚くことかな?

 ああ……そうか。今は眼鏡をしていないから。


「普段は眼鏡をかけていますので、わからなくても仕方ありませんね」


 一歩、また一歩と彼に近づいた瞬間、胸元に視線を感じた。


 ……別に珍しいことじゃない。


 街でも、電車でも、女である以上、浴びせられることの多い眼差し。慣れているし、半ば諦めてもいる。ましてや今は、布一枚の姿。見られて当然だ。


 ――そう、思っていたのに。


 顔を上げて彼の表情を見た瞬間、息が詰まった。

 そこにあったのは、剥き出しの葛藤。理性が『見てはいけない』と叫び、本能が『見たい』と必死に抗っている。

 そのせめぎ合いが、彼の瞳にも、強張った頬にも、震える喉元にも、はっきりと浮かび上がっていた。


 ……私が、彼をこんなふうにしている。


 慣れたはずの視線なのに、いつもと違う。無遠慮に貪られるだけのものじゃない。必死に抗いながら、それでも抗い切れずに惹きつけられてしまっている――そんな視線を受けるのは、初めてだった。


 胸の奥が熱を帯びていく。肌に触れていないはずの彼の眼差しが、火照ったところをなぞっているように錯覚する。

 こんな感覚……私は今まで知らなかった。


 ――私の身体が、男の子を動揺させている。

 ――理性を削り取ってしまっている。


 その事実に、ほんのわずかに唇が震える。


 羞恥と、それを上回る奇妙な高揚とが絡み合って――体の奥でバチッと火花が散ったように感じた。

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