EP9 小さな引っかかり

 全員が浴衣に着替えたところで、夕食の会場である大広間へと移動することになった。


 廊下を歩く浴衣の裾が畳を撫でる音、下駄の音が木の廊下に響く。普段とは違う装いに、なんだか特別な気分になる。


 広間にずらりと並んだ長机には、すでに席札が置かれている。ひと席四人掛け。

 

 その結果、真夏と取り巻き三人衆は当然同じ席を確保し、私とひよりは、別の班の余った二人とともに、少し離れた席に腰を下ろすことになった。


 ……正直、ホッとした。取り巻きたちの冷たい視線から解放される。


 間もなく、仲居さんによって京の豪華な会席料理が運ばれてきた。


 先附として運ばれてきたのは、柿と白和え。柿の橙、ほうれん草の緑、胡桃の薄茶――秋の色合いが小鉢の中に収まっていた。

 

「「……いただきます」」

 

 2人揃ってそう言うと、箸を手に取りひと口――

 

 ……美味しい。

 

 色合いだけでなく、味からも秋を感じられるようだった。

 すると、隣のひよりが小声で呻いた。


「っ……なにこれ……やさしい甘さと……胡桃のコク……! そして最後に舌の上に残る白くて濃厚な――」

 

「……それ以上は、ダメです」


 次に運ばれてきたのは、土瓶蒸し。蓋を開けると、松茸の香りがふわりと立ち上る。中には松茸、鱧、海老、銀杏、三つ葉が美しく配され、澄んだ出汁が秋の訪れを告げていた。


「あぁ……この松茸……たとえ細かく刻まれていようとも、私にはわかる……元々の立派な御姿が……!!」

 

「…………」


 ひよりがまた悶絶している。料理に対してもこうだなんて……感受性が豊かなんてものじゃない。


 向附の鯛の薄造りは透けるほど薄く、戻り鰹のたたきは香ばしく炙られている。焼物の鰆の西京焼きは味噌の甘みが上品で、炊合せの聖護院かぶら含め煮は出汁がしっかりと染み込んでいる。

 

「んっ……ほわぁぁ……! かぶらが……やさしく包み込んでくるぅぅ……っ」


「…………」


「天ぷらのサクッ……じゅわぁ……! あ、熱い……っ、でも……この熱さが、たまらないぃ!」


「……落ち着いて食べてください。周りの人が引いてます」


 八寸の栗と菊菜の胡麻和え、揚物の鱧と松茸の天ぷら、酢物の菊花酢和えと、季節感溢れる料理が次々と運ばれてくる。


 極めつけは水物の黒豆ゼリーだった。

 

「ぷるぷる……黒豆の深い甘みが……ゼリーに閉じ込められて……っ! わ、私、閉じ込められるのも……嫌いじゃない……っ!」


「…………もう、何も言うことはないです」


 隣で一口ごとに悶絶するひよりを横目に、ただ淡々と箸を進めるしかなかった。



     * * *



 部屋に戻ると、真夏と取り巻き三人衆はすでに女子トークの真っ最中だった。

 

「やっぱ男子は私服センス大事だよねー」


「わかる! ブランドごちゃまぜは無理~」


「もし誘われたらどうする? っていうか、真夏ちゃんなら絶対あるでしょ?」


 笑い声が畳に跳ね返り、空気が柔らかく揺れる。

 葵はその喧噪をBGMに、机にノートを広げた。修学旅行を『修学』たらしめるために出された、歴史に触れた感想文。清水寺や金閣、銀閣――今日一日で見てきたものを思い出しながら、淡々とペンを走らせる。


 しばらくそうしていると、不意に取り巻きの一人が声を上げた。


「やばっ、もうすぐ21時じゃん!」


「ホントだ! 行こっ、真夏ちゃん!」


 慌ただしく風呂道具をまとめ始める三人。真夏も「そっか、じゃあ準備しよっか」と立ち上がる。


「ほら葵ちゃんも、ひよりちゃんも行くよ!」


 真夏が声をかけてくる。


 私はもとよりついていくつもりだったため、タオルや着替えの準備を始めた。


 一方で、ひよりはというと――。

 

「わ、わたしは……っ!」

 

 浴衣の裾を必死に押さえ込みながら、顔を真っ赤にしている。

 

「ん? どうかした? もしかして行かないの?」

 

 真夏が首を傾げながら尋ねる。


「そ、そうです! 行きません!」


「どこか具合でも悪いの?」

 

「いえ、その……この貧相なボディをお見せするわけには……! 世の目にさらすなど、あってはならぬこと……っ!」

 

 ……どんな理由なんだ、それは。

 

「別に誰も、あなたのボディを評価しに来るわけじゃないですよ?」

 

 思わず口をついて言葉が出てしまう。

 

「ち、違うんです! そういう問題じゃなくて……!」


 ひよりは両手を広げ、まるで演説するかのように力説する。

 

「女の裸身とは、時に万物を狂わせる魔性の神器! それを軽々しく晒すなど……わたしの矜持が許さない!」

 

「ふふっ、矜持って――ひよりちゃんって面白いんだね」

 

 真夏が肩を震わせて笑い出す。

 

 結局、ひよりの矜持とやらを尊重する結果となり、真夏、取り巻き三人衆、それから私の5人で大浴場へ向かった。



     * * *



 大浴場の脱衣所へ到着すると、入浴時間も終わりに近いせいか、広い空間には誰の姿もない。籐の籠が並び、かすかな湯気と石鹸の香りだけが漂っている。

 

 そこで、真夏が取り巻きに尋ねた。


「そういえば、なんでさっき急いでたの?」


「えっとね、C組の藍ちゃんが、一緒に入ろうって言ってたから、その時間に間に合わない! って思って」


「へぇ、そうなんだ。でも……藍ちゃんいないよね?」


「え? おかしいなぁ……修学旅行始まる前から約束してたんだけど……」


 そんな他愛のないやりとり。

 けれど、葵の胸には小さなひっかかりが残った。


 ……どうして美島さんが?

 

 たしかに、仲が悪いわけではない。けれど、修学旅行前からお風呂に一緒に入る約束をするほど親密だっただろうか。


 それに……たしか美島さんは、例の二見くんの彼女。


 二見くん、佐山くんの行動と、美島さんの行動。

 2つの妙な行動——それらは関連していると考えるのが自然だろう。


 けれど、考えを巡らせても答えが出るものではない。どうせ、この後すべて明らかになる――

 

 そう自分に言い聞かせる。


 指先で帯に触れる。さらりとした木綿の感触が伝わってくる。ゆるめるかのように軽く引くと、帯は思ったよりも素直にするするとほどけていった。胸元の圧がふっと軽くなる。


 浴衣の襟をつまみ、肩をそっと揺らす。

 すると布は、長い間そこにあったものが役目を終えるかのように、静かに滑り落ちていく。首筋から鎖骨、そして肩へ。

 空気が直接触れる場所が広がるにつれて、自分でも説明できない熱が身体の奥にこみ上げてくる。

 

 そして浴衣が畳の上に落ちたとき、葵は一瞬、胸の鼓動が速くなっていることに気づいた。

 自分の中の冷静さと、抗いがたい高揚感――その二つが、同じ速度で歩み寄ってくる。


 いよいよ、の時間だ。

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