第21話 小悪魔からの敗走

 暗闇に包まれた布団の中は、思った以上に狭い。体を丸めてなんとか隠れることはできたが、窮屈で息苦しい。綿の匂いと、かすかに残る洗剤の香りが鼻をつく。


 外では小鳥遊の足音が階段を上がってくる音が聞こえる。一歩、また一歩と、確実に俺たちのいる2階に近づいてくる。


「葵ちゃん? どこ行っちゃったんだろう?」


 小鳥遊の声がだんだん近づいてくる。俺は息を殺して、心臓の鼓動まで抑えようと必死になった。このまま見つからずにやり過ごせるだろうか。


 そのとき——


「失礼します」


 なんと、葵まで布団の中に潜り込んできた。


(……は? え? なんでお前も?)


 俺はこの困惑を声を大にして伝えたかったのだが、ここで声を出してしまえば小鳥遊に気づかれてしまうかもしれない――そう思い押し黙るしかなかった。

 

 当然、布団の中はさらに狭くなる。俺と葵の体が密着するほど近い距離だ。肩が触れ合い、足が絡み合いそうになる。


 そのため、葵の体温がじんわりと伝わってくる。彼女の柔らかな曲線が俺の体に触れて、思わずドキッとしてしまう。シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐり、彼女の細かい息遣いまで聞こえてくる。時々、葵の髪が俺の顔に触れて、さらに心拍数が上がる。


 これは……やばい。物理的にも精神的にも。


「こっちにいたりするかな?」


 小鳥遊の声が部屋の中で響いた。足音が床を歩き回っている。


 俺は緊張のあまり、つい身じろぎしてしまった。狭い空間で身動きを取ろうとして、無意識に手を動かす。


 その瞬間——


 俺の手が、何か柔らかくて弾力のあるものに触れた。


 包み込むような温かさ――確実にそれだと分かる感触。


「!?!?!?」


 心の中で叫んだ。これは間違いなく、葵の——


 血の気が一気に頭に上った。手のひらに伝わってくる柔らかさと温かさが、脳裏に強烈に焼き付く。パジャマ越しでもはっきりと分かる、それの形状と大きさ。


 やばい、やばすぎる。これは完全にアウトだ。


「……こんな事態なのに、ずいぶん積極的なんですね」


 葵の声が耳元でささやかれた。小声だが、明らかに揶揄いの色が含まれている。


「ち、ちげえって! わざとじゃ……」


 俺は慌てて手を引っ込めようとしたが、狭い布団の中では身動きが取れない。どこに手を置いても葵の体に触れてしまいそうで、パニック状態になる。


「ふふっ、慌てなくても大丈夫ですよ」


 葵は余裕の表情を浮かべているのが、暗闇の中でもなんとなくわかった。彼女の声には笑いを堪えているような響きがある。


 俺は色々な意味で汗だくになりながら、必死に弁明を続けた。額に汗がにじみ、喉が乾いてくる。


「本当にわざとじゃないんだ! 狭いから、手の置き場が……」


「わかってますよ。ほら、あんまり声を出すと気づかれますから」


 この状況でも葵は俺の反応を楽しんでいる。この女は一体何を考えているんだ。どこまで計算しているんだろうか。


 そのとき、小鳥遊の足音が俺たちの隠れているベッドに近づいてきた。


「この布団…………」


 小鳥遊が布団に気づいた様子だ。俺の心臓が激しく鼓動する。


 まずい、これは本当にまずい。


「真夏ちゃーん!」


 その瞬間、階下から小鳥遊を呼ぶ声が響いた。


「あ、呼ばれてる」


 小鳥遊の声が少し遠のいた。


「……うん、ここには葵ちゃんはいないみたいだし――後でと、ね」


 足音が部屋から遠ざかり、階段を降りていく音が聞こえた。


 しばらくして、完全に静寂が戻った。


 葵が先に顔を出して、部屋の様子を確認する。


「……もう大丈夫ですよ」


 葵の報告を聞いて、俺も布団から這い出した。


「はぁ……はぁ……」


 緊張で息が荒くなっている。


「お前まで入る必要はなかっただろ!?」


 俺は葵に詰め寄った。


「……たしかに、そうですね」


 葵は珍しくキョトンとした表情を浮かべながら、素直に認めた。でも、その表情にはどこか満足そうな色が浮かんでいる。


「でも、役得でしたよね?」


 葵はいつものニンマリ笑顔を浮かべた。


「や、役得って……それより、見つかんなくてよかったな。あんな場面見られてたらお前も大変なことになるだろうし」

 

「……そう、ですね。本当にそうだと、いいんですが……」

 

 葵の声がだんだんと尻すぼみになっていく。

 

「ん? どういうことだ?」

 

「いえ、こちらの話です。――さて、またいつ来るかわからないので、そろそろ戻った方がよさそうですね」


 葵はお茶を濁すようにして、現実的な判断を下した。


「たしかに、それもそうだな」


 俺は同意して、テラスに向かった。


 月明かりの下で、俺たちは向かい合った。


「それでは、また明日。おやすみなさい、佐山くん」


 葵はそう言うと、軽く頭を下げた。


「あ、ああ……おやすみ」


 俺は複雑な気持ちで答えた。


 葵との別れを告げた後、俺は来た道を戻り始めた。


 雨樋を慎重に伝って地面に降りる。月明かりを頼りに、一歩一歩確実に降下していく。上りよりも下りの方が怖いが、なんとか無事に地面に足をつけることができた。


 そして森を抜けて自分のコテージに向かう。行きよりも慣れた道だが、それでも油断は禁物だ。木の根に躓かないよう、慎重に歩を進める。


 来た道と同じはずなのに、まるで違う道を通っているかのような、そんな不思議な感覚を抱いたけれど、きっと気のせいだろう。


「やっと帰れる……」


 自分のコテージが見えた時、心底安堵した。無事に任務完了——いや、任務は失敗だったが、とにかく無事に帰ってこれたことが何よりだ。


 コテージに入ると、翔吾が俺を待っていた。


「お帰り、お疲れ様」


 翔吾は心配そうな表情で俺を迎えた。


「どうだった?」


「色々あったんだ……こっちで話そうぜ」


 俺は翔吾を自分たちのコテージのテラスに誘った。


 今夜起こったことを、どう説明すればいいのか——俺の長い夜は、まだ終わらない。

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