第20話 小悪魔との密着

 葵の手が、俺の肩にそっと置かれた。


 小さくて柔らかい手だが、なぜかずっしりとした重みを感じる。逃げ場のない状況に追い込まれたことを、改めて実感した。


「それじゃあ、まずは前屈から始めましょうか」


「前屈って……普通の前屈だよな?」


「もちろんです」


 葵はそう言いながら、例の猫のような笑顔を浮かべる。もう何度も見ているその表情だが、今回は特に意味深に見えた。


 俺は体育座りの姿勢から、足を投げ出して前屈をするための姿勢をとる。目の前には、自分のつま先――だが、そのさらに後ろから、吐息とともに、葵の声が降ってきた。


「お手伝いしますね――背中を押させてもらいます」


 葵の柔らかい手のひらが、俺の背中の肩甲骨あたりに触れる。ほんの一瞬だったけど、それだけで背筋がびくっと反応した。

 次の瞬間、ぐい、と上体を押される。


「うぐっ……いてて」


 でも、俺の体は硬くて、全然前に進まない。

 くそっ、こんなことならもっと部活の柔軟をちゃんとやっとくべきだったか……。


「ふふっ、思った以上に硬いですね。ちゃんと普段からストレッチしないといけませんよ」


 葵が嗜めるようにそう話す。

 全くその通りだ――と返事しようと思ったところで、何やら葵の雰囲気が変わったような気がした。


 後ろにいるため表情は伺えないものの、なんとなく、いつものニンマリ笑顔になっているんじゃないだろうか。


 そのとき、葵の表情が変わった。いつものニンマリとした笑顔に戻る。


「もう少し強く押しますね」


「え? 強くって、ちょっと待っ――」


 返事も終わらないうちに、後ろから葵が覆いかぶさるようにして、俺の背中にぐぐっと乗っかってきた。


 ただ押すんじゃない。完全に背中と胸がぴたりと密着してる。両腕は俺の脇の下から回され、手は前でがっちりとホールドされている。


「どうですか? しっかりと伸びてますか?」


「の、伸びてるけど!! そうじゃない、無理無理無理、角度やばい、てか距離やばい!!」


「ふふっ、伸びているならよかったです」


「よ、よくない!!」


 彼女の体温が、じわっと背中越しに伝わってくる。


 息が耳元をかすめて、髪が首筋に触れて、なにより──背中に押し当てられている、柔らかくて弾力のある、二つの膨らみ。


 薄いモコモコのパジャマ越しに伝わってくる、葵の胸の感触。想像していた以上に大きくて、柔らかくて——


(だめだ、意識したら葵の思う壺だ……)


 俺は必死に他のことを考えようとした。でも、背中に押し当てられた双丘の感触は、あまりにも鮮明で——


「いい感じですね。あと10秒くらいにしましょうか」


 葵の声が、俺の耳元で響く。息がかかるほど近い距離だ。


「わ、わかった!! わかったからちょっと離れて――」


 おそらくこの10秒間は、これまでの人生で一番至福で、そして一番過酷な時間だった。



     * * *



「次はさっきもやった引っ張り合いをやりましょう」


「……ま、まだやるのか?」


 色々な意味で困憊気味な俺を尻目に、彼女はひょいっと目の前に座った。開脚して、両足を俺の内側へ向けて。俺も真似して、似たように開脚。自然と、足が触れ合うくらい近くなる。


「はい、佐山くんの体は硬いようなのでもう少し。手をこちらに」


 彼女が前へ差し出した両手は、細くて白くて、ちょっと指が冷たい。俺がそっとその手を握ると、不意に彼女がニンマリと笑った。


「それでは、今回は私が引っ張りますね」


 まぁ、引っ張られるだけなら、さっきよりも楽だろう。


「それじゃあ、いきますよ」


 葵が俺の手を自分の方に引っ張り始めた。

 それにつられて、俺の上半身が前へ、ずるずると吸い寄せられていく。


「もう少しいきますよ」


 そう言うとさらに引っ張る力を強くしたため、さらに前へ吸い寄せられていく。


 そのとき、気づいた。


 俺の顔が、だんだん葵の胸部に近づいていることに。


「え……ち、ちょっと待て!」


「大丈夫ですよ、もう少しです」


 葵は構わず引っ張り続ける。


 俺の視界に、葵の胸の谷間が入ってきた。


 パーカーのジッパーが少し下がっているせいで、普段は見えない部分が——


(このまま行ったら……顔が……)


 このまま胸に顔を埋めてしまいたい。そんな衝動が湧き上がってくる。


 でも、だめだ。そんなことをしたら——


「だめだ、だめだ……」


 俺は内心で必死に抵抗した。理性と欲望が激しく戦っている。


 葵の胸がすぐ目の前にある。あと数センチで——


「うおおおお!」


 俺は慌てて体を起こした。勢いよく飛び起きて、葵から距離を取る。


「はぁ……はぁ……」


 息が荒い。汗もでている。


「どうしたんですか?」


 葵は涼しい顔でそう聞いた。まるで何事もなかったかのように。


「ただのストレッチなのに」


 そう言いながら、葵の目にはいつものニンマリとした笑顔が浮かんでいる。


 完全に計算済みだ。この女、わざとやってる。


「こんのぉ、わざとじゃ——」


 俺が抗議しようとしたその瞬間だった。


「葵ちゃーん、どこにいるの?」


 階下から、聞き覚えのある声が響いてきた。


 小鳥遊の声だ。


 俺と葵は同時に動きを止めた。


「お、おい! なんで小鳥遊が? というか、ここには誰も来ないって言ってたじゃねぇか!」


「……おそらく、お風呂から戻ってきた彼女が、私が見当たらないことに気づいて探し始めた、というところでしょうか。他のメンバーはともかく彼女は、その……目ざといので」


「いや、冷静に分析している場合かよ!!」


 小声でそんなことを言い合っていると、階段を上がってくる足音が聞こえる。


「葵ちゃん、2階にいる?」


 小鳥遊の声がどんどん近づいてくる。


「ど、どうすんだよ!?」


 俺は慌てふためいた。こんなところを見つかったら、それはそれで問題になる。


「とりあえず、ここに隠れましょう。幸い電気も付けていないので、やり過ごせるかもしれません」


 葵は冷静に、ベッドの布団を指差した。


「はぁ!? いや、そんな――」


「早くしないと見つかりますよ」


「――っ! ええぃ!! もう知らねぇ! どうにでもなれ!!!」


 小声で叫ぶという高等テクニックを駆使しながら、俺は布団の中に潜り込むのだった。

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