第3章 灰色の海

ラミアの食文化

 2025年7月27日(日) 晴れ

 菜調さんのプロデュースを始めて、およそ1ヵ月が経った。

 菜調さんが公演する地域を広げられないか模索するも、一度は道を見失い、中々成果を出すことができなかった。でも、菜調さんに登山に連れてもらって、思い切って飛び込んでみて、吹っ切れた。

 自分がやりたいことを最初から諦めて、いつの間にか迷走してしまう悪癖に気づくことができた!


 そして、菜調さんの水上パフォーマンスに道を見出して、プール施設での公演を実現!それを機に菜調さんは注目を浴びたのだ!


     ◇

 

 

 プール公演から数日後、とあるショッピングのフードコート。

 夏休みど真ん中だけあって、平日でありながらも家族連れで席はそこそこ埋まっていた。


 個性豊かな飲食店が「こっちに振り向いてくれ」とライブで団扇を振るかのように、それぞれの魅力を匂いに乗せてアピールする。

 落語で語られるように、白いご飯を片手に一帯を練り歩くだけで満足な食事ができてしまいそうなほどだ。


 その一角にある、肉料理店。1000円で満足度が高いランチが食べられる人気店だ。そこに、智歩は料理を受け取りに来ていた。

 

 びっしり埋まったポイントカードにスタンプを押してもらうと、あつあつのステーキが乗ったお盆を両手に持った。


 お盆を持ち上げた瞬間、白い煙が立ち込める。

 思わず目を瞑り、世界が真っ暗になった瞬間、じゅわじゅわという肉が焼ける音が畳みかける。視界が塞がった代わりに、脳内の映像で肉が踊る。


 その映像の臨場感を膨れ上がらせるのは、香ばしい肉の匂い。

 鼻孔を通して、空っぽな口内に旨味が満たされるような感覚。思わず舌を動して旨味の元に触れようとするも、当然ながら手ごたえは無い。舌が空振りを決めるたびに、手が届かないものへの欲望が腹の底から沸き立ってくる。

 匂いだけでご飯が食べられるなんてものじゃない、ご飯無しでこの匂いを嗅ぐのが苦痛なほどだ。

 

 油が小さく跳ねて手に当たり、驚いて腕を引っ込める。肉の活きの良さを肌で感じながら、油のように肉汁が口内で弾けることを夢想して、涎を垂らす。


 鉄板の底からはぶくぶくと泡が噴き出る。自分が口内に入れるはずの幸せが零れ落ちていってしまうように見えて、今すぐ自分が確保せねばという衝動に背中を押される。

 

 今すぐにでもかぶりつきたい……そう思い、食器の持ち方を変えようとした寸前、肉の内側が赤く染まっているのを認識する。

 『赤は危険を伝える色』……昆虫の世界でも通じる、大自然の絶対原則。それが、欲望をだらだら垂れ流す銀髪の獣を強引に抑止した。

 

 ぷるぷる震えそうになる2本の手で食器を持つと、小さいステージのような鉄板の上に肉片を置いて転がす。それが少し茶色を帯びるたびに、脳の信号が「早く喰わせろ」と手を伸ばす。

 

 まだそれは口に入っていないのに、味覚を除いた五感の全てがステーキの前に頭を垂れて、味覚だけが丸腰になる。

 まるで、HP0になったゲームのボスキャラがトドメを待つかのように、智歩の口が肉を求める。

 

――もう我慢できない!


 智歩、ナイフを持って、茶色くなった肉に手を伸ばす。


 ……が、正面からそれを制止する。


 滑らかで少し大きい手のひら。菜調だ。


「あと少し焼いた方が旨い。あと、右端の肉は中央に寄せた方が良いぞ」


 智歩は、すんでのところでナイフを止めると、「ぐぬぬ」とでも言いたげな顔をして、肉奉行のアドバイス通りに肉を動かす。

 

 圧切り肉の接地面が変わると、”じゅわぁ”という音が再び吹き上がる。油が鉄板に触れ、煙と飛沫が思い出したように噴火する。

 肉に白旗を振っていた聴覚嗅覚に追撃がかかり、智歩の頭の中に『肉』と書かれた旗が刺さりそうになる。

 

 智歩は肉を見つめる。その色の僅かな変化も見落とさない勢いだ。年越しのカウントダウンの時のように、一瞬一瞬に重みがかかる。


 そして、遂にその時が来た。


 赤みが消え、かつ黒く焦げてもいない、正にベストタイミングの肉。

 それでいて鉄板の底から湧く泡は未だ途切れておらず、旨さが十分に残っていることを主張する。


 向かいの席に鎮座する番人をちらりと見やる。問題ない、と菜調は小さくうなづく。


 それを視認した次の瞬間には、考えるより先に肉をナイフの上に乗せていた。


 脊髄に刻まれていた「いただきます」の宣言を急いで行うと、そのまま口を閉じるのを待たない勢いで、肉を口の中に放り込む。


 ――旨い!

 

 肉を噛んだ瞬間、幸せが口の中に吹き上がる。

 肉はかなり柔らかくて、包丁をすっと差し込むように歯が入る。それに応じて、肉汁が噴火する。


 でも、噛みちぎる過程だけは、簡単にはいかないので、顎に強い力を入れてみる。その過程を経て与えられる旨味が、ある種の”報酬”のように脳に作用するから、顎を動かすのが止まらない。

 

 噛んで、噛んで、その度に口角が上って、どんどん顔の形が歪んでいく。


 口内の肉はくたくたになったタイミングで、まるでプログラミングされているがごとく、ライスに手が伸びる。

 ご飯の優しさが、口内にこびりついた肉の爪痕を流し去って、再び肉を口に入れる準備を整える。


 そして、再び肉を焼き、食べる。


――旨いっ。

 智歩の地元にも規模や価格帯が近いステーキ店が展開されているが、そこで食べた肉と葉比べ物にならないほどだ。


 それに、菜調のアドバイスも的確であった。智歩が自分で肉を焼くと硬くなりすぎたり、肉の旨味が逃げすぎてしまうことがあったが、彼女の指示した通りに焼いた肉にはそれが無かった。

 焼肉などに比べると食べる側の技術が干渉する余地が狭いことを加味しても、確実な違いがそこには感じられた。

  

 「菜調さん、アドバイスありがとうございます!……それにしても凄いですね、ピット器官!」


 ピット器官……赤外線を認識することで、モノの温度を視認できる、一部の爬虫類の能力。

 蛇人の料理人はその能力を活かして、火を使う料理の質を磨き上げていった。


 結果、蛇人の食文化は研ぎ澄まされ、特に肉料理については他の追随を許さない領域に到達した。

 

 マムシの菜調もその能力に秀でており、肉を焼くのが上手いのもその賜物だ。


「私が代わりに焼いても良いんだぞ」

「わかってないですね、自分で焼くから美味しいんですよっ!」


 そう言いながら智歩は皿の両端をつまんで自分の胸元に引き寄せると、口いっぱいに肉を頬張る。

 

 菜調は不思議そうな表情をしながらも、智歩に反論したりはせず、彼女が頼んでいたソフトクリームに手をつけ始めた。

 


 落ち着きを取り戻した智歩は、冷えて硬くなった肉をガムのように噛みながら、その日の午前の出来事を反芻し始めた。


「菜調さん、今日の営業について、話したいことがあるんです」


 この日、智歩は営業で出かけていた。この施設は定期的に様々なタレントやパフォーマーを呼んでイベントを開催しており、そこでパフォーマンスさせてもらえないか智歩は交渉するべく、菜調と共に施設を訪れたのだ。


 プール公演の成果もあり、施設側の反応は悪くなかったが、智歩は決定的な手ごたえを感じることができなかった。

 先方から伝えられた、ある一言が気になっていたのだ。


「今日の営業の時に先方からの指摘で気付いたのですが……菜調さん……その……」


 ただ、それは当事者である菜調に言うには、少し勇気が必要な内容だった。

 彼女との活動には慣れつつあったが、それでも何でも気兼ねなく話せるという距離感ではなかったのだ。


 智歩は苦笑いをして、目線を横に泳がせる。

 片手に握った小さなグラスの側面に、水滴が垂れるのを手の表面で感じる。


 えー、うー、と再び意味のない音を漏らして時間を稼ぎながら、なんとか言葉を選ぶ。手元の鉄板が鳴らすじゅわじゅわという音が、まるで催促のように聞こえる。


 少し悩んだものの、私は菜調さんのプロデューサーなんだ、問題点を言わないでどうするんだ、と意気込んだ。

深呼吸の後、 どん、と両手をテーブルに突き立てながら、智歩は声を振り絞った。 

 

 「菜調さんには……ファンが少ないんですっ!」


 

     ◇

 


『なるほど、演技は良いですが……”それだけ”ですか?』

『……』

『聞き方を変えます。菜調さんに、ファンはいるんですか?……彼女個人に注目し、追いかけているファンはいますか?』

 

 昨今の菜調の注目度をプレゼンした際に、先方が返した言葉。智歩はそれに返答できなかった。

 

 菜調には、公演に何度も訪れるようなファンは多くない。

 いや、ファンをつけるためのブランディングに、今まで手を出せていなかったのだ。


『すみません……正直な所、自信をもってお答えできるものはありません』

『では、何かファン獲得のためにやっていることは?』

『……』


 智歩は黙り込み、相手の顔を見なければとわかっていながらも、小さくうつむいてしまった。


 施設にとって、パフォーマーのファンの数は重要だ。

 当然ながら、沢山のファンが施設を訪れれば、それだけ利益が見込める。いわば、広報的な役割だ。有名な芸人やパフォーマーを呼ぶのは専らそれが目的だ。


 その一方で、パフォーマンスの質でその場を通った来場者を楽しませて、施設での体験の満足度を底上げする、そういう役割を期待することもある。その場合は、ファンの数が絶対ではなく、パフォーマーの技術も重要視される。しかし、その場合でもファンはいるに越したことはない。

 

 さらに、ファンが付いていないどころか、ファン獲得に向けたブランディングをハナからしていないというのは問題だ。「人として魅力的であることを軽視している」と捉えられれば、施設のブランドを傷つけたりしないのかという懸念に発展するからだ。


 施設の担当者は、そのことをしっかりと説明してくれた。


 口には出さなかったが、彼らは個人的に智歩と菜調に肩入れしていた。何度も営業をかけてきて、その度にパフォーマーとしての成長を示しながら熱意の籠ったプレゼンをする彼らに惚れていた。

 

 一方で、私情だけで未熟な彼らをステージに立たせるわけにはいかないという線引きはしていた。


 『……答えが見つかったら、また来てください』


 落ち着いた、しかし冷たくはない担当者の一言で、交渉は幕を閉じた。

 

 

     ◇



 菜調はきょとんと首をかしげる。


「良いパフォーマンスをして、それを沢山の人に届けられれば良いんじゃないか?」


 菜調は質問をしながら、パフェで使う大きな容器に山盛りに盛られた、まっさらなソフトクリームを口に運んだ。

 

 智歩は肉の脇に置かれたフライドポテトをフォークで刺しながら、ファンやブランディングの必要性を説明し始めた。

 菜調もソフトクリームを突く手を止めて、その話に聞き入った。

 

 智歩が一通り説明を終えた時には、菜調がアイスに刺したスプーンが、崩れて倒れていた。

 菜調はそれを持ち上げると、アイスを口に運びながら、智歩に聞いた。


「……なるほど、よくわかった。それで、何か方針は立っているのか?」

「一生懸命今考えているのですが……」


 智歩とお揃いの……2人が出会った日に、智歩が菜調の家に置いてきたシャツを身を包んだ菜調の姿を眺めながら、智歩は言った。


「まずは、お洋服を買いましょう」

「……どういうことだ?」


 肉を刺したフォークを片手に、真剣な顔つきで話す智歩。


 その姿に困惑して、菜調は小さく口を開けた。

 

 

     ◇蛇足のコーナー◇


「マムシ等の一部の蛇は、”ピット器官”で赤外線を感知できるんだ。ピット器官のお陰で、モノの温度差を”視る”ことができる。0.01度レベルでも把握できる優れモノだ」

「凄い……凄すぎて、逆に凄さがわからない……」

「例えば、視力に依存せず世界を把握できるから、夜の活動が容易になる。ある種の夜目とも言えるな」

「なんだか、それってコウモリが超音波を飛ばすのに似てますね。何か違いはあるんですか?」

「ピット器官はモノの性質の違いを把握しやすいから、生き物の体温を察知することで獲物を見つけ出すことができる。一方で遠くのものは認識できないから、広範囲の地形を把握するのには向いていないんだ。智歩、良い質問だった」

「えへへ……。って、菜調さん、顔近いですっ!そこまで近づかなくても温度わかりますよねっ!」

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