最終章:『灯火の行方』
「何をする、燈子! 儀式を乱す気か! そこを退け!」
長峰の怒声が森に響くが、もはや誰一人として燈子に近づける者はいなかった。彼女の華奢な身体から放たれる気迫は、まるで古の神のように威厳に満ち、老獪な村の指導者をすら圧倒していた。
ひときわ大きな灯盗蛾――羽化神は、新たな贄ではなく、自らの前に立ちはだかる少女に戸惑っていた。彼女から発せられる気配は、これまで宿主としてきた数多の女たちとは異質だった。それは、同族の、それも遥かに純粋で強大な「女王」の気配。羽化神は警戒するように燈子の周りを旋回し、その鱗粉は不安げに揺らめいていた。
燈子は、ゆっくりと羽化神に向かって手を伸ばした。
その指先が、神の翅に触れた瞬間――。
奔流だった。
数百年分の記憶が、燈子の脳内へと凄まじい勢いで流れ込んできた。
飢饉に喘ぎ、赤子の亡骸を埋めるしかなかった母親たちの絶望。どこからか現れた不思議な蛾に、最後の望みを託した最初の巫女の祈り。子孫を残したいという、ただ純粋で根源的な生物の本能。そして、幾世代にもわたって繰り返されてきた、名もなき「母」たちの、我が身を喰らう子への一瞬の愛情と、耐えがたいほどの苦痛。
このおぞましい信仰は、純粋な悪意から生まれたものではなかった。
生きること、繋ぐことへの、あまりに必死な願いが生み出した、歪んだ共生の形だったのだ。
「……そうだったのね」
全てを理解した燈子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、自分を産んだ母・桜庭燈子への哀悼であり、この地に縛られ続けた全ての魂への慈悲だった。
「もう、いいの」
彼女の声は、子守唄のように優しく響いた。
「もう、眠りなさい。あなたたちも、この村も」
燈子は、自らの魂を解放した。彼女の存在そのものが、強力な磁場となり、森に乱舞する全ての灯盗蛾を引き寄せ始める。一匹、また一匹と、蛾たちは何かに導かれるように燈子の体へと吸い込まれていく。
彼女の身体から放たれる青白い光は、次第に輝きを増し、やがて森全体を真昼のように照らし出した。
「燈子……!」
白川繭の悲痛な叫びが響く。
光の中で、燈子の輪郭が溶けていく。背中の痣が皮膚を突き破り、本物の翅となって広がっていく。それは蝶のように優美で、蛾のように妖艶な、誰も見たことのない美しい光の翅だった。彼女の体はもはや人の形を留めておらず、巨大で荘厳な光の蛾へと変貌を遂げていた。
真の「羽化」だった。
光の蛾となった燈子は、最後に一度だけ、地上を振り返った。その視線は、泣き崩れる育ての母、白川繭を捉えていた。
――さようなら、お母様。
声にはならなかったが、その想いは確かに白川繭の心に届いた。
次の瞬間、光の蛾は一声高く鳴くと、夜空の彼方へと舞い上がった。その軌跡を追うように、村にいた最後の灯盗蛾までが、一匹残らず彼女に付き従っていく。
まるで、数百年にわたってこの土地に溜まっていた呪詛の全てを、その身に引き受けて飛び去っていくかのように。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす村人たちと、虫一匹の羽音すらない、完全な静寂を取り戻した森だけだった。
エピローグ
あれから、十年が過ぎた。
羽角村に、灯盗蛾が現れることは二度となかった。羽化神信仰は遠い過去の言い伝えとなり、子宝を授けてくれる神を失った村は、日本のどこにでもある過疎の村と同じように、ただ静かに小さくなっていく道を歩んでいた。
白川繭は、かつて贄にされかけたあの女性と共に、小さな畑を耕して暮らしている。彼女は時折、農作業の手を休め、空を見上げた。燈子が飛び去っていった、あの日の空を。後悔も悲しみも、今は穏やかな風の中に溶けていくようだった。
村では、いつからか子供たちの間で、新しい童歌が歌われるようになっていた。
「とおこ蛾様 見てるかな
お空のうえから 見てるかな
今夜のご飯は なあにかな
あしたも晴れると いいな」
それは、神に何かを願う儀式の歌ではない。
遠い空にいる誰かを、家族のように思う、素朴で穏やかな祈りの歌だった。
羽角村は、奇跡の繁栄を失った。
だが、人々は、おぞましい因習と引き換えに、人として当たり前の生と、静かな死を取り戻した。
一人の少女の自己犠牲によってもたらされた、あまりに優しく、そして、あまりに物悲しい結末。
夜空には、ただ美しい月が、静かに村を照らしているだけだった。
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