続々編:『蛹の中の少女』
序章:異質な日常
あれから十年が過ぎた。
羽角村では、白川燈子という名の少女が、静かに十歳の誕生日を迎えていた。彼女は、先代巫女の白川繭が「奇跡の子」として授かった娘ということになっていた。
だが、燈子は自分が他の子供たちと違うことを、肌で感じていた。
月明かりのない夜でも、森の獣のように小道を見分けることができた。村人には聞こえない、桑の葉を食む虫の咀嚼音や、土の中で眠る蛹のかすかな脈動が、彼女の耳にはっきりと届いた。そして、背中には生まれつき、夜空に浮かぶ蛾の翅のような、青黒い痣が刻まれていた。
村の子供たちは、彼女を遠巻きにした。「蛾の子」と囁き、その痣を指差しては逃げていく。燈子にとって、孤独は当たり前の日常だった。
彼女を最も悩ませたのは、夜ごと見る夢だった。
知らない都会の喧騒。埃っぽい書庫の匂い。そして、おびただしい数の青白い光が乱舞する森の奥で、甘い香りの鱗粉を浴び、歓喜と恐怖に身を震わせる、見知らぬ女の記憶。
夢から覚めると、枕はいつも涙で濡れていた。
第一章:母と巫女
「燈子、今日は祝詞を覚えなさい。貴女は、次の巫女になるのですから」
育ての母である白川繭は、燈子に複雑な視線を向けていた。その眼差しには、娘への愛情と、村の因習を継がせることへの罪悪感、そして得体の知れない存在への畏れが入り混じっている。繭は燈子に巫女としての全てを教え込んだが、決して「奥ノ宮」の最奥へは近づけず、儀式の核心についても語ろうとはしなかった。
「お母様」
ある日、燈子は思い切って尋ねた。
「私には……お父様はいないのですか?」
繭の顔から、すっと表情が消えた。
「……羽化神様が、貴女を私に授けてくださいました。貴女は神の子なのです」
それは、何度も聞かされてきた答えだった。だがその日、燈子は繭の瞳の奥に、深い悲しみが揺らめいたのを見逃さなかった。
この村は、何かを隠している。お母様も、村の大人たちも。そしてその秘密は、きっと私自身に関わることなのだ。
第二章:禁忌の探求
村の実質的な指導者である長峰は、燈子を次代の礎として丁重に扱った。彼は燈子に村の歴史を教え、その「特別な力」を褒めそやしたが、彼の目はいつも、 高価な道具を検分するかのように冷たかった。
「燈子様は、この村の希望です。いずれ、貴女様の力で、この村は更なる繁栄を遂げるでしょう」
長峰の言葉は、燈子の疑念をさらに深いものにした。
彼女は、自らの持つ異能を使い、村の秘密を探り始めた。夜、全ての者が寝静まった後、鳥のように気配を消して家を抜け出し、大人たちの会話に耳を澄ませ、禁じられた場所へと足を向けた。
そしてある晩、彼女は村の記録が保管されている古い土蔵に、吸い寄せられるように忍び込んだ。超常的な嗅覚が、蔵の奥から漂う、懐かしい匂いを嗅ぎつけたからだ。それは、彼女が夜ごと夢で嗅ぐ、あの甘い鱗粉の香りだった。
匂いを辿った先、桐の箱に収められていたのは、一枚の古びたレポート用紙の束。そして、色褪せた大学の学生証。
そこに写っていたのは、夢で見るあの女だった。快活そうな笑顔を浮かべた、自分とは似ても似つかない女性。
名前の欄には、こう記されていた。
『桜庭 燈子』
心臓を鷲掴みにされるような衝撃。それは、自分と同じ名前だった。レポートの最後のページには、乱れた筆跡で、おぞましい言葉が走り書きされていた。
『私の 中で なにかが うご 』
第三章:母の記憶
「このひとは、だれなの!」
燈子は、見つけ出した資料を繭の前に突きつけた。繭は血の気が引いた顔で立ち尽くし、やがて堰を切ったように泣き崩れた。
彼女の口から語られたのは、絶望的な真実だった。
東京から来た研究者、桜庭燈子。彼女が「羽化神」の正体を探るうちに儀式の贄となり、その命と引き換えに、新たな「神の子」を産み落としたこと。そして、その赤子こそが、今ここにいる白川燈子であること。
「貴女は……貴女を産んだお母様を喰らって、生まれてきたのです……!」
繭の慟哭が、燈子の胸に突き刺さった。
その夜、燈子は生涯で最も鮮明な夢を見た。
それは、母・桜庭燈子の最期の記憶だった。アパートの一室で、自らの腹が内側から引き裂かれる激痛。闇の中で、生まれいずる“何か”に向けられた、恐怖と、そして歪んだ母性。死の間際に彼女が感じた無念と愛情が、奔流となって十年後の娘に流れ込んでくる。
「ああ……あ……」
燈子は絶叫と共に目覚めた。自分は、母を殺した寄生虫。自分は、この村のおぞましい因習が生み出した、怪物。
背中の痣が、まるで意志を持ったように、じくじくと熱く痛んだ。
エピローグ:選択の時
さらに数年が経ち、燈子は巫女として儀式を執り行う年齢に達した。
村は、新たな「苗床」として、隣町から来たという身寄りのない若い女を一人、用意した。何も知らないその女は、村人たちの丁重なもてなしに、ただ感謝の笑みを浮かべていた。
月が満ち、灯盗蛾が乱舞する夜。
奥ノ宮の御神木の前で、燈子は巫女の白装束を纏い、静かに佇んでいた。目の前には、これから贄となる女が、長峰たちに促されて立っている。背後では、白川繭が祈るように目を伏せている。
ひときわ大きな雄の灯盗蛾――羽化神が、甘い香りを振りまきながら、新たな宿主へと近づいていく。
燈子は、選択を迫られていた。
このまま儀式を執り行い、母が辿った悲劇を繰り返させるのか。自らがその手で、この村の歪んだ繁栄を存続させるのか。
それとも―――。
燈子は、ゆっくりと一歩、前へ踏み出した。贄となる女と、羽化神の間に、自らの体を割り込ませるように。
彼女は静かに両腕を広げ、月光と、無数の灯盗蛾の燐光に、その身を晒した。
「神様」
彼女の声は、森の静寂に凛と響いた。
「もし、私が本当に貴方の“子”であるならば、終わりにしてください。このおぞましい連鎖は、私で……母の娘である、この私で」
背中の痣が、まるで共鳴するかのように、青白い光を激しく放ち始める。
母の無念を晴らすためか、あるいは自らの宿命を全うするためか。彼女が下す最後の選択を、森の闇と、おびただしい数の虫たちだけが見つめていた。
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