前日譚:『招魂の灯火』
調査開始 三ヶ月前:磐座大学 文学部研究棟
黴と古い紙の匂いが充満する書庫の奥で、桜庭燈子は一人、古文書の頁を繰っていた。埃で黒ずんだ指先が、虫食いだらけの和紙の上を滑る。指導教官からは「もっと評価に繋がりやすいテーマを選んだらどうだ」と呆れられている、忘れ去られた伝承の採集。しかし燈子にとって、歴史の闇に埋もれた声なき声に耳を澄ますことこそが、何よりの愉悦だった。
彼女の視線が、一冊の古びた写本に吸い寄せられる。『甲斐国奇譚集』。ほとんど研究者の目に留まることのない、信憑性の低い奇談を集めただけの書物。だが、その中の一節に、燈子の心臓は鷲掴みにされた。
――山梨の奥、羽角という村あり。其の村、
「……女を、宿とする蛾……」
呟きは、誰に聞かれることもなく静寂に溶けた。ほとんどの人間が見過ごすであろう、荒唐無稽な一文。だが、燈子の直感が警鐘を鳴らしていた。これはただの作り話ではない。忘れられた信仰の、おぞましい残滓だ。彼女の頬が興奮に紅潮し、その瞳は書物の闇の向こう、存在しないはずの村を見据えていた。
調査開始 一ヶ月半前:同大学 研究室
「本気か、桜庭? 地図にもまともに載ってないような村だぞ」
高柳健司は、燈子が作り上げた調査計画書を前に、眉をひそめた。資料は完璧だった。現在の羽角村が、南巨摩郡の山中に実在すること。国勢調査のデータから読み取れる、極端に歪んだ人口構成。そして、外部との交流を意図的に絶っているかのような閉鎖性。
「だからこそ、行く価値があるんです、先輩。これは生きた民間信仰を調査できる、またとない機会ですよ」
「生きてるって……本気で信じてるのか? 蛾が人に子供を産ませるなんて話を」
「信じる、信じないじゃありません。かつて人々がそう信じたという『事実』がある。その信仰が、どう変容し、どう社会を維持してきたのか。それを記録するのが私たちの仕事でしょう?」
燈子の瞳は、狂信的とも言えるほどの熱を帯びていた。高柳は知っていた。彼女が一度こうなると、もう誰にも止められないことを。彼女の名前にある「燈」の字は、まるで光に集まる虫のように、怪異や奇譚の類を呼び寄せる呪いなのではないか。高柳はため息をつき、結局、保護者役として同行することを承諾してしまった。その決断が、逃れられない運命の始まりだとも知らずに。
調査開始 一ヶ月前:山梨県南巨摩郡 羽角村役場
古い木造の村役場。その二階の薄暗い一室で、長峰は東京の大学から届いた一通の封書を、指でゆっくりと撫でていた。差出人は、磐座大学大学院、桜庭燈子。丁寧な言葉で綴られた調査依頼書。
彼は静かに立ち上がると、村の奥にある長老たちの屋敷へ向かった。
囲炉裏を囲む皺だらけの老人たちを前に、長峰は依頼書を読み上げる。
「……東京の、学者だと?」
「余所者など、村に入れるわけにはいかん。羽化神様のことを嗅ぎ回られたらどうする」
長老たちの声は硬い。村の秘密は、数百年もの間、こうして守られてきた。だが、長峰は落ち着き払っていた。
「皆様、お静まりに。これもまた、羽化神様のお導きやもしれませぬ」
彼は依頼書の差出人名を、指でなぞって見せる。
「この研究者の名は、桜庭 燈子。ろ…『燈』の子、と書きます」
その言葉に、長老たちの間にどよめきが走った。灯りを求め、神聖な宿り木へと集う灯盗蛾。その名を冠した女が、自ら村へ来ようとしている。それは偶然か、それとも。
長峰は続けた。
「それに、近年、村の娘たちの間で、神の子を宿せぬ者が増えております。我々の血が、濃くなりすぎたのかもしれない。新しい血を、外から迎え入れる好機かと」
彼の目は笑っていなかった。それは村の未来を憂う者の目ではなく、新しい贄を見つけた狩人の目だった。彼の本当の目的は、村の存続――そのために、最も「適した」苗床を確保すること。長峰は、この桜庭燈子という女が、そのための供物として完璧だと直感していた。
「歓迎し、丁重にお迎えいたしましょう。ただし……決して『奥ノ宮』の真実には触れさせぬよう。彼女が自ら、その身を以て知ることになるまでは」
長峰の提案に、もはや反対する者はいなかった。歪んだ共生の儀式は、新しい宿主を静かに待ち望んでいた。
調査開始 一週間前:桜庭燈子のアパート
ポストに、羽角村役場からの封筒が届いていた。中には、調査を許可する旨が記された書類と、担当者・長峰氏からの手紙。高柳は「案外、普通の村なのかもな」と胸を撫で下ろした。
しかし、燈子の目は、手紙の末尾に手書きで添えられた一文に釘付けになっていた。
『くれぐれも、夜間の外出、特に奥ノ宮へのお立ち入りはご遠慮ください。神域故、ご理解いただけますと幸いです』
丁寧な警告。だが、燈子の唇には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。
警告は、裏を返せば誘いであった。
禁忌は、その先にこそ真実が隠されているという、何よりの証拠だった。
「……奥ノ宮」
その名を呟いた瞬間、部屋の窓ガラスに、一匹の蛾がこつんとぶつかる音がした。外はまだ明るいというのに。
それは幻聴だったのかもしれない。だが燈子には、遠い山の村から、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
彼女はまだ知らない。自らの探求心が、研究対象を暴くための鋭いメスではなく、自らの腹を裂くための祭祀刀になるということを。
運命の歯車は、静かに、そして確かに回り始めていた。
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