『山梨県南巨摩郡羽角村における「羽化神信仰」に関する現地調査報告書』

火之元 ノヒト

『山梨県南巨摩郡羽角村における「羽化神信仰」に関する現地調査報告書』

​提出者: 桜庭 燈子(Tohko Sakuraba)

​所属: 磐座大学 文学部 比較文化研究科 民俗学研究室

​調査期間: 2008年8月11日~8月15日

​調査目的: 外部にほとんど伝わっていない羽角村の民間信仰「羽化神うかじん信仰」の実態を調査し、その祭祀儀礼と地域社会における役割を明らかにすること。


​1. はじめに

​ 本報告書は、山梨県南巨摩郡の山間部に位置する羽角村において、2008年8月11日から8月15日にかけて実施した現地調査の結果をまとめたものである。

 ​羽角村の名は、近世の古文書に散見されるものの、その信仰や習俗に関する具体的な記録は極めて少ない。私がこの村の存在を知ったのは、磐座大学図書館所蔵の古文書『甲斐国奇譚集』に「羽角村、夜盗の蛾に灯を奪わるるを吉兆とす。女、これを孕みて子宝を得る」という一節を発見したことに端を発する。この記述に強く惹かれた私は、比較文化研究の一環として、この「羽化神信仰」の実態を解明すべく、現地調査を計画した。

 村役場への調査申請は、意外にも速やかに許可された。担当の長峰氏から送られてきた許可証には、丁寧な歓迎の言葉と共に、「くれぐれも、夜間の外出、特に奥ノ宮へのお立ち入りはご遠慮ください。神域故、ご理解いただけますと幸いです」という一文が、手書きで添えられていた。


​2. 調査記録

​【8月11日(月) 天候:晴れのち曇り】

 ​同行者の高柳健司先輩と共に、昼過ぎに羽角村に到着。バスの終着点からさらに役場の車で送迎された村は、三方を険しい山々に囲まれた盆地にあり、時間が止まったかのような静寂に包まれていた。

 ​村役場で担当者の長峰氏と面会。氏は終始穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は私たちの真意を探るように鋭く、歓迎の言葉とは裏腹の冷たさを感じさせた。用意された宿は、村で唯一の宿泊施設だという古い公民館の一室だった。

 ​陽が落ちると、村の様相は一変した。どこからともなく現れた無数の蛾が、宿の窓という窓にびっしりと張り付き、外の景色を完全に覆い尽くした。翅にある青白い斑紋が、まるで燐光のように明滅し、異様な光景を創り出している。これが文献にあった灯盗蛾ひとりがだろう。高柳先輩は気味悪がっていたが、私は民俗学的な興奮を禁じ得なかった。


​【8月12日(火) 天候:曇り時々雨】

 ​午前中、村内の聞き取り調査を開始。しかし、村人たちの口は一様に重い。「羽化神様」について尋ねても、「ありがたい神様だ」と繰り返すばかりで、具体的な話になると俯き、そそくさと立ち去ってしまう。特に「出産」や「子宝」に関する話題は、明確な禁忌とされているようだった。

 ​村の人口構成に、明らかな歪みがあることに気づく。高齢者を除けば、若い女性と子供ばかりが目につき、成人男性の姿が極端に少ない。高柳先輩は「若者は皆、村を出てしまうんだろう」と推測したが、それだけでは説明がつかない違和感が残った。

 ​夕刻、路地で数人の少女たちが鞠つきをしながら、奇妙な歌を歌っているのを聞いた。


​「羽化神様、おいでませ

新しいお宿は どちらです

このお腹に おいでませ

あかいあかい お布団で

ねんねこ おころり おいでませ」


 ​その無邪気な声が、逆に私の背筋を凍らせた。


​【8月13日(水) 天候:雨】

 ​調査は停滞していた。長峰氏は「村人は皆、恥ずかしがり屋でして」と笑うが、明らかに何かを隠している。私たちは監視されている。その確信だけが強まっていた。

 ​午後、雨宿りのため軒先を借りた際、一人の若い女性と出会った。白川 繭。村の巫女だと名乗った彼女は、儚げな美しさの中に、全てを諦めたような深い憂いを湛えていた。

 ​私が羽化神信仰について調べていると話すと、彼女は私の目をじっと見つめ、ぽつりと言った。


​「この村の桑の葉は、人を喰ろうて肥えるのです」


「……それは、どういう意味ですか?」


「新しい巫女様がお見えになったのかと、思いました。貴女のお名前は、燈子……灯りを盗む蛾が、好む名前」


 ​それだけ言うと、彼女は深く頭を下げ、雨の中に消えていった。桑の木。村の裏山にあるという禁足地「奥ノ宮」の御神木も、桑だと聞いている。点と点が、おぞましい線で結ばれようとしていた。


​【8月14日(木) 天候:曇り】

 ​このままでは、何も解明できないまま帰ることになる。焦燥感に駆られた私は、禁忌を破る決意をした。高柳先輩は「危険すぎる」「村のルールを破るべきじゃない」と強く反対したが、私は聞く耳を持たなかった。私の名にある「燈」の字が、この村の闇に引き寄せられている運命なのだとしたら、それを見届ける義務がある。

 ​深夜、高柳先輩が寝入ったのを確認し、私は一人で宿を抜け出した。月明かりだけを頼りに、村人が決して近づかない裏山の小道を進む。奥ノ宮へと続く道だ。森は深く、濃い闇がまとわりついてくる。

 ​レポートの筆致が、ここから乱れ始めることをお許しいただきたい。この時の私は、冷静な研究者ではなく、ただ恐怖と好奇心に突き動かされる一人の人間に過ぎなかった。

 ​森の奥、突如として視界が開け、巨大な桑の木が姿を現した。樹齢数百年はあろうかという御神木。その根元には、大人が一人入れるほどの洞が、暗い口を開けている。

 ​そして、光景に息を呑んだ。

 ​おびただしい数の灯盗蛾が、御神木の周囲を乱舞していた。青白い燐光が闇夜を舞い、まるで星屑の銀河だ。幻想的、しかし、圧倒的に禍々しい。

 ​洞に近づくと、甘く、むせ返るような香りが鼻をついた。中を覗き込み、私は悲鳴を飲み込んだ。洞の壁一面に、人間の赤子ほどの大きさの蛹が、無数に、びっしりと張り付いていたのだ。それは、ゆっくりと、確かに、蠢いていた。

 ​その中央で、白装束の白川繭が、何かを厳かに唱えていた。彼女は私に気づくと、悲しげに微笑んだ。

​その瞬間、一匹の、ひときわ大きな灯盗蛾が私に向かって飛んできた。他の個体より一回りも大きく、翅の紋様が凶々しいほどに鮮やかだ。雄だ。あれが、羽化神様。

 ​逃げる間もなく、それは私の顔にまとわりつき、翅から甘い香りの鱗粉を振りまいた。意識が急速に朦朧としていく。身体の力が抜け、その場に崩れ落ちた。遠のく意識の中で、何かが私の衣服の隙間から、するりと体内に入り込んでくる感覚があった。冷たく、硬い何かが。


​3. 結び

​【8月15日(金)】

 ​異常なし。予定通り調査を終了し、帰路につく。村の方々の協力に感謝する。 


私の 中で なにかが うご

あたたかい これは わたしの あか ちゃ

さなぎ ちがう わたしが さなぎに

うか

​(以下、判読不能な線が数本引かれている)

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