第十七話
◇
三月先の新年を祝う儀式で使用する美しい着物が、下男の手によって次から次へと衣裳部屋に運びこまれる。それらを春狼は一つ一つに目を通していった。すべては俊麗が「めんどくさい」と投げだしたためである。正装から装飾品の選別から、春狼一人で決めなければならなかった。
「玉帯がないようですが?」
事前に注文していた品々の中に玉帯が納品されていない。それについて搬入担当に問うと、下男は恐縮しきった様子で深く頭をさげた。
「申し訳ございません。帝都の外から積荷を運ぶ際、賊に襲われたと聞いております。半分近くの品物が盗まれたため、その中に皇子様の依頼品が入っていたのだと。詳しい事柄は、現在も調査中とのことです」
「そう、ですか」
青ざめた顔で「別の物を用意させます」と怯えた声を出す下男に、春狼は極めた愛想笑いで「大丈夫です。問題ありません」と返した。おそらく、他の皇子の元に品物を運んだ際、大層な嫌味と罵倒を飛ばされたはずだ。
――悪いのは賊であって、こいつらじゃないのに。
声をかけられた下男は、春狼の上辺の笑みに惑わされて、赤い顔でほっと息を吐いた。
代用品を頼まずとも、玉帯くらい他の物でいくらでも代わりがきく。祝儀は毎年の恒例行事である。去年の物を使い回したとしても、俊麗はとやかく言わないだろう。気がかりなのは神経質なほど俊麗を下に見る他の皇子たち。ただ一度しか見ていない玉帯について言及してこないことを、春狼は祈った。
下男たちが殿舎から去ると、外で警備をしていた李が戻ってくる。
「随分とまた華やかな着物ですね」
「新年だし、あいつは元の顔が暗いから、少しは明るい色でいいと思ってな」
春狼は鴇色の袍を衣紋掛けに干しながら答えると、李は小さく口角をあげた。
「そういえば、帝都近郊で賊が現れたらしいけど、李殿知ってた?」
「聞き及んでおります。貴族の屋敷が狙われることが幾度かあったようです。未だに捕まえることはかなわぬとか」
春狼と李は後宮に潜入した帰りから、少しずつ会話が増えていた。どこかよそよそしかった春狼の態度が軟化したことが大きい。
金の刺繍が施された下衣や、細工のされた腰帯を畳み終え、春狼と李は衣裳部屋を出る。書室へと歩を進める中でも周囲の警戒を怠らない李を盗み見た。
二回り以上年上の男。春狼のような細い体と比べ、李は胸板が厚く、頑丈な四肢を持つ。
同じ男でもここまで違うのかと、春狼は幾分か消沈する。長い間、武を極めた結果が今の李の姿である。いまだに彼が誰かと争う場など見たことがないが、洗練された普段の身のこなしから、優れた武人であることがうかがえた。
自分とは全く異なる人生を歩んできたであろう壮年の男に対して、春狼は己の価値や立場について考える。なんてちっぽけで、ひ弱な存在だろうかと。
「俺、ここにいる意味あるかなぁ」
感傷めいた春狼の台詞に、表情の変化をあまり見せない李の瞳孔も大きくなる。
「春狼殿は後宮に潜入するという大業を成し遂げたではありませんか」
「いや、それは命令されたからだし。そもそも、情報のほとんどは李殿が盗ってこられるじゃないか。その情報を精査するのも、頭のいい奴が一人いれば十分だろ?」
李の本心を見抜けない春狼は、容易に言葉を否定する。優秀な頭脳を持つ俊麗さえいれば、おのずと実母を殺害した不届き者を探し当てられるだろう。
卑屈な感情は湧けば湧くほど、止めようとする蓋をも押し返してしまう。菫としての価値はない。春狼はそれを望まず、俊麗もまた望まないからだ。従者としても中途半端。有能な主と優秀な従者がすでにいる。
菫候補のときは、自身を理解してくれる火兎の存在があったことで、春狼は長く救われていたのだ。今の身に意味を持たせるのは、贅沢であると自覚していた。昔は生きるだけで十分であったにもかかわらず、いつの間にか強欲になっていることに気づく。
「俊麗様に、菫を登用されてはいかがかと、提言したのは私でございます」
「え、そうなの?」
慰めを期待していたわけでも、答えを求めていたわけでもなかった。李が何を言っても春狼の心に変化があるとは思っていなかった。そのため、李がかけてきた言葉に、春狼は間抜けにも口をぽかんと開け広げた。
「な、なんで?」
困惑して問うと、李は瞑想するように目を閉じた。
「ご存知の通り、俊麗様は優秀なお方。ご自分のことは、ほぼ一人でできてしまいます。そのように御母君から教えられていました」
いまだに呆けたままの春狼に、李は静かに語りかける。
「しかし、それには限度があります。加えて、俊麗様はご自身を追いこむのが得意でいらっしゃる。御母君の仇を取ると決めてからは特に。寝食は忘れ、身なりに気を遣う余裕もないご様子。私だけでは、止められなかった」
指示して集められた書物を、昼夜問わず片っ端から読み進め、課題に追われる日々。栄養が足りないためにぱさつく髪や荒れる肌。目の下には濃い隈ができ、唇はかさつきが目立っていった。
李は手先の細かな作業が不得意だ。今は従者のようなことをしているが、実際は武臣である。不器用な李は、衰えていく俊麗の世話を満足にこなすことができなかった。
菫でなくてもよかったのだろう。宦官の一人や二人、適当に見繕い、そばに置いて世話をさせる者が必要だと判断した。そして、選別をしていく中で、俊麗が選んだのは春狼だったのだ。
「私の意図を、俊麗様がどのように解釈されたかは存じません。俊麗様は、春狼殿を選んだ。演技をするのも面倒だったのでしょう。協力を条件にしていますが、春狼殿に強要するつもりは初めからなかったのです」
「じゃあ――」
――俺がここにいる意味って、余計にないんじゃ?
春狼の当惑を読み取ったかのように、李は首を振る。
「俊麗様は貴殿の有能さに気づいてしまった。菫となって最初のひと月ほど、俊麗様に試されていると感じた憶えがあるのではありませんか?」
記憶を振り返れば振り返るほど、思いだされる記憶の数々。
尋国の古代文字など序章に過ぎなかった。暗号化された文書を即刻読みとけという、無理難題を突然投げてきたことが数回。過去の財政について書かれた書物を見せられ、どこに欠点があるかと問われたときは、専門知識が皆無のため基本から覚えさせられた。
俊麗の暇潰しというような突発的な行為は、彼の中で春狼を見定める試験だったようだ。
春狼は今更ながら衝撃を受ける。もし落ちていれば、後宮に潜入するという無謀をしなくてもよかったのでは、という思いが頭をかすめた。
「私は、俊麗様の元に来たのが、春狼殿でよかったと心より思っております」
春狼は俯いていた顔を大きく上げた。
「夜が更ければ、春狼殿が俊麗様を寝所に連れていってくださるおかげで、随分と顔色がよくなりました。毒を恐れていた俊麗様が、安心して食事ができている。疎かになっていた髪や肌の世話を担ってくれるおかげで、俊麗様は今日もお美しい。――すべて、春狼殿のおかげでございます」
落ちこんでいた気持ちが、ぐんっと引きあげられていく。自由を感じた海の景色が一瞬よぎった。温かく、爽やかな気持ちがいっぱいになって心を豊かにする。
役目がある。そのことが途轍もなく嬉しかった。自由になることを縛るものでしかない役割が、今の春狼の気持ちを晴れやかにする。自由になることを諦めたわけでも、目標が変わったわけでもない。それでも求められていることを知った春狼は、自由ばかりを渇望していたときとは違うことを感じていた。
じわじわとした高揚感に言葉が出ない。
いつの間にか到着していた書室に二人が入ると、俊麗が顔を上げた。
「ちょうどいい。そなたに聞きたいことがある」
「え? な、何⁉」
「なぜ顔が赤い?」
「何でもないから! ほんと、何でもないから!」
比較的涼しい日であるため、ほてった顔で慌てる春狼は珍妙にちがいない。両頬に手を当て、気持ちを平静に保とうとする春狼を無視して、俊麗はてきぱきと話を進める。
「そなたが違和を感じたという食事内容についてだが」
「え? あれは一瞬だったし、どの辺が気になったかも分かってないけど」
「それでも報告してくるぐらいだ。何かが不可解に感じたのだろう?」
「そうだけどさぁ……」
芳妃が亡くなった日の食事会の献立を、春狼は容易に思いだすことができる。俊麗が書き留めた記録を見ずとも、頭の中から内容を呼び起こし諳んじた。
「主菜は尤江で採れた旬魚の甘酢あんかけ、豚肉と大蒜の炒め物、巻貝の煮込み。主食は栗粥、野菜餡の入った饅頭で――」
主菜、主食と続いて、ぴたりと言葉を止める。
「どうした?」
俊麗の声も聞こえないほど、春狼は深く考える。盗み見た当時は喉奥に引っかかりを覚えただけだった。口に出したことで、その小さな骨の正体に気づく。
「芳妃様が亡くなったのは春だったよな?」
「そうだが?」
「皇后との食事に、季節に合わない食材を出すか?」
春夏秋冬のある燈国の栗の旬は秋である。栗を輸入できる地域があるとしても、労力をかけて主要な料理に使っているのはおかしい。栗は保存が向かないとされるが、半年もの間保管されたとして、わざわざ皇后との食事会に出すような食材ではない。
俊麗は口元に手を当てて押し黙る。考えれば考えるほど、栗という食材が異質だった。
主導して料理を作った厨長は、食事会に起きた死亡案件により、すでに罷免されている。料理が原因とされていなくとも、責任を取らされた形だ。厨長が献立を考案するが、彼女も腕利きの後宮付きの厨仕えの女官である。季節外の食材を入れる意図を不思議に思わないはずがない。
「……母上を担当していた医官は行方不明だったな?」
思考を巡らせていた俊麗の確認のような呟きに、春狼は「ああ」と返答した。すぐさま俊麗は李を呼びよせる。
「担当医官を探しだせ。それと元厨長の所在も突きとめろ」
「承知いたしました」
李は身を翻して書室をあとにし、それから長いこと麗華殿を空けることが多くなった。
李が外に調査に出かけたため、必然と俊麗と春狼二人になる時間が多くなる。とはいっても俊麗が率先して話をする質でもないため、二人の間にあるのは微妙な空気感だけ。俊麗の書室の机には難解な書物や巻物が積みあげられ、それらを書庫に戻したり、整理したりするのが春狼の仕事だった。
殿舎の前には衛兵が立つようになり、李が麗華殿に常駐しなくなってから十日が過ぎる。一日置きに報告書を提出されるものの、手がかりらしい情報は掴めていない。
「母上はおそらく、拒絶体質の持ち主だった」
「拒絶体質? なんだ、それ?」
「卵、動物の乳、小麦、魚介類などを体が受けつけない者が、世の中には一定数いる。母上の場合、栗を食すと体が拒否反応を起こし、呼吸困難に陥る体質だったのだろう」
芳妃の死ぬ前の症状は、栗を食したことで体が拒否反応を起こしたもの。栗を練りあげ、ただの粥として提供したものを、芳妃は気づかずに口に入れてしまったのだ。
「栗を食べて死ぬことなんてあるのか?」
「症例としてはないな。大量に摂取していなければ、口内がかゆくなったり腫れたりする程度だ」
「じゃあ、なんで」
「母上は以前にも栗を食べて、自身の体質に合わないことを知ったのだろう。食べないよう医官からも指示を受けていたはずだ。それが――」
「なぜか食事に混ざっていた」
芳妃の死を看取った医官は、担当であるため、もちろん拒絶体質であることも知っていたはず。しかし、記録には芳妃の体質については書かれていなかった。担当医官が故意に記録を処分したのだろう。
よそに情報が漏れることを恐れ、どの食材が食べられないのかは作る側には教えられない。ゆえに献立が作られ、担当医官が確認するという手順がある。
元厨長と担当医官は手を組んでいた。そして、それを裏で指示した人間がいる。
李に足取りを探らせて分かったことは、元厨長はすでにこの世にいないということ。一年以上前に亡くなったことが、元厨長の娘の証言から得られた。
「都合よく使い捨てられたか」
不快さを隠さず、俊麗はこぼす。
芳妃の拒絶体質の食材を知り、実行した元厨長は、口封じのために殺された。おそらく、いまだに見つからない担当医官もこの世にはいないだろう。
犯人は用意周到に姿を隠し、依然と遠ざかるばかりだ。
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