第十八話
俊麗は李によって集められた情報と、貴族の系図が載った巻物を見比べる。春狼は邪魔しないよう気を遣いながら、脇に寄せられた書物から、書庫にしまっても構わないものを判別する。場所を取るだけの書物を腕に抱えて書室を出た。
廊下に面する窓の外は真っ暗だった。最低限に廊下を照らす吊り灯篭の点々とした明かりだけが、暗闇の中を照らしている。
――そうか。今日は新月か。
そのとき、春狼はちりりと肌が焼けるような気を感じた。実際、火の気は遠く、肌に痛みはない。言葉に形容できない嫌な感覚が、春狼の脳裏を点滅して走っていく。
突き当たりがぼんやりと暗い廊下に視線を向けてから、再び窓の外を見た。変わらず夜闇の黒しかない世界が広がっている。ぞわぞわと春狼の肌を逆撫でる、敏感な危険信号は鳴り響いたままだ。
耳を澄ます。風が木の葉をそよぐ音が聞こえる。春狼以外の息遣いも、足音もない。目を凝らした先に、春狼はきらめく光と目が合った。
抱えていた書物を投げだして、応接間を通り抜け、春狼は書室へと戻る。乱暴に戸を開け放ち、急いで木の棒を立てかける。
顔をあげた先で、俊麗が顔をしかめていた。「何事だ」という目の俊麗を無視し、強引にその場から立たせると、奥の寝所へ押しこんだ。
戸を閉めた向こうから、俊麗が疑問の声を上げる。
「おい、何をする⁉」
「うるさい! 鍵をかけろ。絶対に開けるなよ‼」
そう叫んだ途端、後方からばんっという音が弾ける。殿舎にいるはずのない、第三者。全身を黒で覆った怪しい影が、書室の中へと飛びこんでくる。黒い影の手には先が細長い暗器があった。顔は頭巾で目元しか見えず、男か女かも分からない。
――刺客っ!
刺客は静かに春狼を見つめてくる。春狼も相手を注視して、微動もできない。焦燥を煽る鼓動だけがばくばくと激しく音を立てている。
――呼笛さえ鳴らせれば!
緊急事態を知らせる呼笛の存在を服の上から確認する。
緊張で額から汗がしたたり落ちる。不思議なことに春狼の体は震えていなかった。どのような手を使っても後ろには通さないという、興奮に似た気が張りつめていた。
瞬きさえ許さない、刺客と視線が交じり合う。
すると、頭の上を一気に駆け抜けていくような鋭い笛の音が鳴り響いた。その音の出処は背後の部屋からで、春狼の慌てた様子から俊麗が察して行動を起こしたのだ。笛は春狼の持っているものよりも大きな音で、殿舎の外にも十分に届く音量をしている。
時間がないことは刺客も承知の上だ。春狼はこのまま退散してほしいと、甘いことを考えていた。
刺客は春狼に息を吐く暇も与えず、一瞬にして距離を詰めてくる。人間離れした動きに、春狼は反応さえできない。後ろ戸に体を叩きつけられ、縫い留められるように暗器を腹に打たれる。
「ぐっ!」
衝撃のあとに、全身に痛みが電撃となって駆けていく。歯を食いしばってもなお出る苦痛と同時に、額に嫌な脂汗が集中する。押しこまれる腹への異物が、弾けるような熱を発していた。
刺客は春狼から初めて目線を外した。寝所の戸に伸ばされた手首を、反射的に掴む。春狼の体は縫いつけられたままで力を入れることもできない。これ以上先にはいかせないという意思が、春狼の体を無理やりに動かしていた。
刺客は隠し持っていた二つ目の暗器を取りだし、春狼へ構える。頭上に高く振りあげられた暗器が灯に反射して、春狼は耐えられず目を瞑った。
どじゃ、という固い物がぶつかる音が聞こえた。いくら待っても第二撃が来ないため、春狼は恐る恐る目を開ける。
自身の腹を貫通した暗器の柄から、春狼の真っ赤な血がぽたりぽたりと地面に落ちている。足元には小さな水溜まりができて、綺麗な波紋を作っていた。
顔をあげて書室の全体を見ると、刺客はまだ部屋にいた。
破壊された壁に頭がめりこんだ刺客らしき者の姿は、今まさに春狼を殺そうとしていた者に間違いなかった。
「春狼殿!」
いるはずのない李が春狼に駆け寄ってくる。その背後から重なり合う笛の音が響き、大勢の衛兵が続いて入ってきた。衛兵たちは血だらけの春狼を見て顔をぎょっとさせ、少し外れた場所の壁の中に食いこみ、気を失う不審人物に目を剥いた。
「李殿……あれ、李殿がやったの?」
瞬間的に痛みを忘れて問うと、李はそんなことは些細なことだというように、春狼の患部に視線をやる。
「春狼殿、俊麗様はどちらに」
「寝所、に閉じこめた。大丈夫、だったら、出してやってくれ」
「分かりました。あとは私がやりますから、あなたは少し休んでください」
李は戸に縫いつけられた春狼を、戸ごと外して床に寝かせる。頑丈に造られているはずの戸を紙のように剥ぎ取った李の腕力を、春狼は足りない血のせいで見た幻覚と思うことにする。
衛兵の一人に春狼の応急手当を頼み、李は寝所の中へと入っていった。
衛兵は壁に埋もれた刺客を数人がかりで抜こうとしている。書室に押し寄せた多くの衛兵たちが立ち回るさまを、春狼は力の抜けきった状態で見つめる。
患部が激しい痛みを持つ。窮地に陥っていたことで昂っていた感覚が、次第に冷静さを取り戻し、痛みとともに帰ってきた。春狼は段々気が遠くなりながら、どこからともなくやってきた睡魔を享受しようとした。
「おい、意識を保て。寝るな。目を開けていろ!」
俊麗の声が聞こえた気がした。目尻はびくつくものの、完全に開くことができない。
――ああ、おまえ。こんなところで大きな声を。たくさん人がいるのに……。
春狼の心配は声にならず、暗闇の中に溶けこんでいく。
「おい! 起きろ! おい、――春狼‼」
春狼の意識は痛みを通り越し、そのまま奈落へと遠退いていった。
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