第二話 AI、JUPITER①

 じりじりとはだくようだった昼間ひるま熱気ねっきは、よるとばりりるころには、まとわりつくような湿気しっけともなった生温なまぬるさへと姿すがたえていた。


 午後七時ごごしちじ


 鈴木家すずきけのリビングダイニングは、食卓しょくたくならんだハンバーグとポテトサラダがはなつささやかな湯気ゆげとは裏腹うらはらに、氷点下ひょうてんかのようにっていた。


 翔太しょうた母親ははおやかいにすわり、ただひたすらにハンバーグを、フォークとナイフでつづけていた。

 小分こわけされたハンバーグがさらうええていく。


 それは、意味いみのない時間稼じかんかせぎだった。

 テレビからは、脳天気のうてんきなクイズ番組ばんぐみ派手はで効果音こうかおんと、タレントたちのつくったようなわらごえむなしくながれている。

 しかし、このいえだれも、その番組ばんぐみ視線しせんおくってはいない。


 沈黙ちんもくやぶったのは、母親ははおやだった。

 ふかく、おもいためいきが、食卓しょくたくうえのよどんだ空気くうきをわずかにらす。

 

翔太しょうた

 

 そのこえには、昼間ひるま苛立いらだちとはちがう、ねばりつくようなあつがあった。

 

「おひるから、どれくらいすすんだの? あの『夏休なつやすみのとも』、10ページくらいはわったんでしょうね?」

 

 母親ははおや翔太しょうたかおではなく、ほとんど手付てつかずのかれさらにらみつけていた。

 その視線しせんが、まるでXエックスせんのように自分じぶんはらなかまで見透みすかしているようで、翔太しょうたちぢこまるのをかんじた。


 返事へんじは、できない。


 正直しょうじきに「いちページもすすんでいない」とえば、この食卓しょくたく本当ほんとう戦場せんじょうになることだけはわかっていた。

 

 かれはただ、ハンバーグの解体作業かいたいさぎょうつづける。

 もはやそれは、ミンチにくもど作業さぎょうちかいものになっていた。


 そのときだった。

 まるで、この息詰いきづまる空間くうかん救済きゅうさいするかのように、玄関げんかんのドアがき、底抜そこぬけにあかるいこえひびいた。

 

「ただいまー! いやあ、今日きょうあつかったな!」

 

 父親ちちおやの、陽気ようきこえだった。

 大手おおてIT企業きぎょうつとめる父親ちちおや洋介ようすけは、あたらしいガジェットや未来的みらいてきなサービスのはなしを、まるで少年しょうねん秘密基地ひみつきちはなしでもするようにかたるのがきなおとこだった。


 かれは、「ただいま」から三十秒後さんじゅうびょうごには、すでにあらい、食卓しょくたく自分じぶんせきこしろしていた。

 母親ははおやしたかんビールをると、ぷしり、と小気味こきみよいおとててプルタブをけ、のどらしながら一気いっきあおる。

 

「ぷはーっ! ああ、うまい! かえる!」

 

 そして、満足まんぞくげにひといきをつくと、ってましたとばかりにした。

 

「いやあ、今日きょうもJUPITER様々さまさまだったよ! 本当ほんとうに、あいつはすごい」


 その名前なまえに、翔太しょうたはハンバーグをきざんでいたをぴたりとめた。

 母親ははおやは、あきれたように、しかしどこか興味深きょうみぶかそうに相槌あいづちつ。

 

「あら、またそのAIのはなし? そんなにすごいの?」

 

「すごいなんてもんじゃないさ」

 

 父親ちちおやは、まるで自分じぶん手柄てがらのようにむねった。

 

いてくれよ! 来月らいげつ大事だいじなプレゼンがあるんだが、そのための競合他社きょうごうたしゃ市場分析しじょうぶんせきレポートが必要ひつようだったんだ。普通ふつうなら若手わかてまかせても、資料集しりょうあつめからグラフ作成さくせい分析ぶんせきまでふくめたら、最低さいていでも三日みっかはかかる。それがどうだ? JUPITERに『AしゃとBしゃ直近ちょっきん3年間ねんかん製品販売動向せいひんはんばいどうこう市場しじょうシェアを分析ぶんせきして、将来予測しょうらいよそくふくめたグラフきのレポートを作成さくせいして』ってたのんだら、どうなったとおもう?」

 

 父親ちちおや芝居しばいがかったをとり、翔太しょうた母親ははおやかお交互こうごた。


 「たったの三十分さんじゅっぷんだ。三十分さんじゅっぷんで、おれもとめていた以上いじょうのクオリティのドラフトをげてきやがった。魔法まほうだよ、まるで。おれたちの仕事しごと、そのうち全部ぜんぶなくなるんじゃないか?」

 

 そうって、父親ちちおやはからからとわらった。


 翔太しょうたは、いきむようにしてちちはなしっていた。


 「レポート……グラフ……将来予測しょうらいよそく……」


 その単語たんごひとひとつが、かれあたまなかで、昼間ひるま絶望ぜつぼうやまむすびついていく。

 算数さんすう文章問題ぶんしょうもんだい

 理科りか観察記録かんさつきろく

 そして、あのしろ模造紙もぞうし


 父親ちちおやは、ビール《びーる》のあわくちひげのようにつけながら、さらにねっっぽくかたつづける。

 

「もちろん、AIがつくったものをひゃくパーセント鵜呑うのみにするわけじゃないぞ。そこがミソだ。データ《でーた》の裏取うらどり、つまりファクトチェックは絶対ぜったい人間にんげんがやらなきゃいけない。それに、AIがはじした分析結果ぶんせきけっかをどう解釈かいしゃくして、どういう言葉ことばでクライアントにつたえるか、その最終的さいしゅうてき考察こうさつは、俺自身おれじしん言葉ことばなおす。AIはあくまで、超優秀ちょうゆうしゅうなアシスタントなんだ」


結局けっきょく使つか人間次第にんげんしだいなんだよな。おれたちもサボってるとAIに仕事しごとられちまうよ、ガハハ!」


 父親ちちおやのその言葉ことばは、まるでどこかの偉人いじん名言めいげんのように、リビングの空気くうきひびいた。


 だが、翔太しょうたみみには、その言葉ことば半分はんぶんしかとどいていなかった。

 「ファクトチェック」や「最終的さいしゅうてき考察こうさつ」といった、むずかしい言葉ことば部分ぶぶんは、都合つごうよくかれのうをすりけていく。

 

 かれこころふかく、そしてつよきざまれたのは、「超優秀ちょうゆうしゅうなアシスタント」という、みつのようにあまひびきだけだった。


 父親ちちおやはなしきながら、翔太しょうたあたまなかでは、おそろしくも魅力的みりょくてきかんがえが、次々つぎつぎてられていった。

 

市場分析しじょうぶんせきレポート』イコール、『自由研究じゆうけんきゅうのレポート』。

 

『プレゼン資料しりょう草案そうあん』イコール、『読書感想文どくしょかんそうぶん下書したがき』。

 

過去かこのデータにもとづ分析ぶんせき』イコール、『絵日記えにっき記事きじ』。

 

 不可能ふかのうおもえたエベレストのような宿題しゅくだいやまが、まるで攻略こうりゃくルートがしめされたダンジョンのようにはじめていた。


 絶望ぜつぼうくろりつぶされていた翔太しょうたこころに、くろく、しかしあらがいがたいほど甘美かんび希望きぼうひかりむのを、かれははっきりとかんじていた。




 午後十時半ごごじゅうじはん

 自室じしつのベッドのなか翔太しょうたじていたが、意識いしきはかつてないほどにえわたっていた。


 部屋へや完全かんぜん暗闇くらやみつつまれ、昼間ひるま喧騒けんそううそのようにしずまりかえっている。

 しかし、かれあたまなかだけは、はげしいあらしれていた。

 

 暗闇くらやみれたが、ぼんやりと天井てんじょう木目もくめとらえる。

 それはまるで、出口でぐちのない巨大きょだい迷路めいろのようにえた。


とうさんのPC……書斎しょさいにある、あのパソコン……JUPITER……」

 

 その名前なまえこころなかつぶやくだけで、心臓しんぞうがどくん、とおおきく脈打みゃくうつ。

 悪魔あくまささやきのように、その言葉ことば思考しこうにこびりついてはなれない。


 罪悪感ざいあくかんが、つめたいかれ心臓しんぞうつかむ。

 

(ダメだ、絶対ぜったいにダメだ。そんなの、ただのズルだ。カンニングとおなじじゃないか。もしバレたら……。先生せんせいにも、とうさんにもかあさんにも、なんてえばいい? 健太けんたにも、もう顔向かおむけできない)


 しかし、その罪悪感ざいあくかん嘲笑あざわらうかのように、もう一人ひとり自分じぶん即座そくざ反論はんろんする。

 

(でも、このままじゃどうするんだ? 徹夜てつやしたって、あと五日いつかわるりょうじゃない。100パーセントわらない。ズルをしておこられる未来みらいと、宿題しゅくだいわらなくておこられる未来みらい、どっちがマシなんだ? 結果けっかおなじじゃないか。いや、むしろわらせさえすれば、おこられない可能性かのうせいだってある)


 天秤てんびんが、ギシリとおとててれる。


(それに、とうさんもってたじゃないか。「道具どうぐ」だって。おれたちが学校がっこうで、鉛筆えんぴつやコンパス、分度器ぶんどき使つかうのとおなじじゃないか? むかしはそろばんだったけど、いま電卓でんたく使つかう。それとおなじで、時代じだいすすんだだけだ。AIを使つかうのも、あたらしい文房具ぶんぼうぐ使つかうのと、きっとおなじなんだ……)


 そこまでかんがえて、翔太しょうた自分じぶん理屈りくつが、うすっぺらいガラスのようにもろいことにづいていた。


 鉛筆えんぴつは、こたえをおしえてはくれない。

 電卓でんたくは、しきててはくれない。


 AIは、それらとは根本的こんぽんてきちがう。


 わかっている。

 わかっているのに、一度いちど芽生めばえた誘惑ゆうわくは、かれこころなかでみるみるうちにり、おおきくそだっていく。


 罪悪感ざいあくかんと、「らくをしたい」という強烈きょうれつ欲望よくぼう


 ふたつのおもりがせられた天秤てんびんは、もはや均衡きんこうたもつことなく、ゆっくりと、しかし確実かくじつに、誘惑ゆうわくほうへとかたむいていった。


 そのときだった。

 翔太しょうたは、ばね仕掛じかけのようにベッドからむくりとからだこした。


 まどそとしずまりかえり、とおくでいぬごえが、まるで世界せかいわりをげるように、くぐもってこえてくる。


 つくえをやると、げられた宿題しゅくだいやまが、暗闇くらやみなか巨大きょだいくろかげとなって、かれ威圧いあつしていた。


 ごくり、とのどる。

 翔太しょうたいきみ、ついに決意けついかためた。


「……すこし、るだけだ。とうさんがってたみたいに、どんなにすごいものか、このるだけなら……べつに、わるいことじゃない」


 そのわけは、これからおかそうとしているつみたいする、彼自身かれじしんへの最後さいご気休きやすめだった。

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