第2話 瀬島朝日は宇宙人
恩田詩音にとって読書は深呼吸だった。
それは息を整えるための、例えばラジオ体操に組み込まれているような、ゆったりとしたものではなく、水に深く潜るときにある、これから先、闇や死に対抗するための、緊張感を孕んだ深呼吸だった。つまり詩音は緊張感をもって文章をなぞった。文章を、詩音の視線がなぞるたび、彼女の心は強靭なものとなった。
「来た」
「始まるよ」
女の子二人組の声が聞こえて、詩音は本を閉じた。
声の方に視線を向けると、女の子二人組以外にも、たくさんの生徒が教室の窓際に集まっているのが見えた。詩音は椅子から立ち上がり、窓の近くまで歩いた。窓の外を見ると、グラウンドが広がっていた。そこではクラスメイトの男子がサッカーをしていた。サッカーで遊ぶ男子を見ながら、女の子二人組は雑談に興じるのだ。
「朝日さんって、ハーフらしいよ」
「だから金髪なんだ?」
「なんか、英語できてたよね」
「日本語はカタコトだった」
「帰国子女って聞いたよ?」
「キコク?」
「シジョ?」
姦しいなと詩音は思った。
クラスメイトの注目を集めていたのは、男子のなかでも、一際目立つ金髪の男の子だった。朝日さんと呼ばれていたので、苗字か名前のどちらかが朝日なのだろうと考える。朝日が雑談の話題として取り立たされるのは、彼が転校生だからである。女の子二人組の会話に曖昧な情報が多かったのも、彼と知り合ってまだ日が経っていないからだった。
グラウンドでは朝日が味方からのパスでボールを受け取り、ゆったりとドリブルを開始した。するとスピードではなく、技術によって相手の男子たちを抜き去り、足を振り抜いてシュートする。ボールはキーパーの手をすり抜け、ゴールに吸い込まれた。詩音の隣、女の子二人組のさらに向こう側で、「きゃー」とか「わー」とかクラスメイトが盛り上がっていた。
「子女って、朝日さん男の子でしょ?」
「えー、でも帰国子女っていうよね?」
微笑ましいやり取りだなと詩音は思う。言葉に対して疑問を持つのは良いことだった。雑談にいきなり入ってしまう形になるが、二人の疑問に答えるように、詩音は窓の外を眺めながら口を開く。
「帰国子女というのは、日本に帰ってきた息子、娘の総称だ。昔は、息子のことを『産す
「そーなんだ」
「詩音さん詳しいんだね」
詩音はニコッと笑いながら、視線を女の子二人組に移す。
その笑顔を見た女の子二人組は、ドキッと心臓が跳ねる。
詩音の容姿は小学生にしては妖艶だった。
腰まで伸びた長い黒髪に、華やかなカチューシャを着けている。瞳は大きく、眼光は柔らかく、口元を見れば感情の機微を読み取れるほど敏感に動く。ニコッと笑っている今も、口角が上がっていて笑顔だと分かりやすかった。つまり詩音は、表情が豊かな女の子だった。
「質問があるんだ」
詩音は窓の外を指さして、聞く。
「あんな子、うちの学校にいたかな?」
あんな子というのは、朝日のことである。
女の子二人組は驚いたように顔を見合わせた。
「転校生の瀬島朝日さんだよ!」
「詩音さん、初日休んだから分からないんだ」
なるほど、と詩音は思った。
詩音は朝日が転校生であることを知らなかった。詩音が知らなかったのも無理はない。夏休み明け最初の授業日を欠席したのだが、ちょうどそのときに紹介があったのだ。数日間、朝日の存在を疑問に思いながら過ごしていたのだが、解消されて満足した。やっぱり転校生だった。
詩音は満足したけど、二人は朝日の紹介を続ける。
「親の都合で転校して来たって言ってたよ」
「ここはお母さんの地元なんだって」
詩音は二人のやりとりを、ニコニコとしながら黙って聞いた。
男子が大人になってようやく好きになる噂や情報というものを、女子というのは小学生のうちから好きになる。ゴシップというのは、女子小学生にとって最も楽しい娯楽だった。生きるための情報を集めるのが苦手な種族は絶滅し、逆に得意な種族が繁栄するであろうことを考えたら、栄華を極める現代人がゴシップ好きなのは当たり前のことだった。
「大学生の彼女がいるらしいよ」
「えー、まじ? 小学生で」
「朝日さんは非の打ちどころがなくて、完璧だからね。大学生もイチコロ」
「あと、天然」
「そうそう。ドジっこ要素もある」
それって矛盾していないだろうか、と詩音は思う。天然とは、非の打ちどころのことを言うのだ。というわけで、女の子二人組の情報には信ぴょう性が足りなかったのだが、次の言葉だけは詩音の心に強く残ることになる。
「つまりね、朝日さんは宇宙人なんだよ」
二人のうち、どちらの言葉だったか。
どちらの言葉でも大差はない。二人とも朝日は宇宙人だ思っている。
詩音が窓の外に視線を移すと、朝日がちょうど二ゴール目を上げているところだった。詩音の視線に気づいたのか、朝日はパッと上を向く。二人の目が合ったのは、偶然だ。朝日は詩音に向かってピースをした。詩音はグーを出してじゃんけんに勝利した。
「でもね」
詩音の背後から声が聞こえてくる。会話を聞いていた、クラスメイトの一人が呟いたのだ。
詩音が声の方を振り返ると、そこには大人びた表情の女の子がいた。いつも机に向かって絵を描いている女の子だ。憂いた表情で、浮世のことには興味ないですよといった態度で、真っすぐ前を見て、口を開いた。
「朝日さんの両親って亡くなってるんだって」
◇◇◇
朝日は国語の教科書を持って、一人で席を立っていた。
苦い顔をしながら、視線を文字に落とす。詩音にとって読書が深呼吸であるならば、朝日にとって読書は、無呼吸だった。文字を目線で追っていく行為はまるで、宇宙空間に放り出された感覚がある。空気がないのはもちろん、フワフワしていて気持ち悪い。そして、美しいものではない。スペースデブリが浮いている。朝日にとって宇宙は暗闇で、息苦しいものだった。
朝日は汗をかきながら、思考が空白のまま口を開く。成功する目途は立っていなかったが、走り出してしまえば、自転車のように転ばないでなんとかなると知っていた。この方法で何度も乗り越えた経験がある。
「えー、『日本では、話し合いの、目的として、みんなが、ひとつに、なる、ことを、求め、がちな、きが、します』」
朝日は音読が上手にできない。
日本語話者ではあるし、時間をかけたら読むことはできる。しかし、人前で音読をするときには、どうしても拙さがでる。みんなは、ハーフだからとか、帰国子女だからとか、できない理由を勝手に作り出してくれた。都合は良かったが、後ろめたさがあった。
実際のところ、朝日はハーフでも帰国子女でもなかった。
母親はたしかにハーフだったので、朝日はクォーターにあたる。海外から帰国したのではなく、もちろん宇宙から来訪したわけでもなく、栃木からやって来た転校生だ。姉は日本語も英語もペラペラだったのに、朝日はどちらも中途半端だった。それでもニコニコしておけば相手が都合良く解釈してくれるし、朝日に対して悪意を持ったり、攻撃する人はいない。
「はい。次」
朝日は息を吐きながら、着席する。やり切ったとしても、達成感はない。朝日のなかに残る文章はなく、心は空虚なままだった。心地の悪い安心を背にしていると、隣の席に座る女の子が湿度を持った目で見つめてくるのに気づいた。
「朝日さんってカタコトだよね。かわいい」
「……うん」
カタコトなのは事実だったけど、かわいいと言われても朝日は困った。
ガタとわざとらしく椅子が擦れる音が鳴り、後ろの席の詩音が教科書を持って立ち上がった。朝日の次に音読するのは、詩音だった。
「『でも僕は、大事なのは、私とあなたはどのくらい違うかを明確にすることだと思っています』」
句点まで到達したのに、先生からの次に進む合図がない。
続きも読めということだろうかと詩音は音読を続けた。
「『それが、話し合い、つまりコミュニケーションの目的なんです』」
「はい。次」
詩音は静かに着席する。
誰の耳にも心地よい、とても綺麗な音読だった。文字を目視して、脳内で処理し、口に出すまでが滑らかだった。しかしそれは詩音だけの特別な能力ではなかった。詩音の後ろの席の男の子も、上手にハキハキと音読をした。
そして朝日は耳を塞ぐ。
(かわいいって、なんだ?)
隣の席の女の子の言葉が気になった。
(あかちゃんみたいってこと? 悪口? 良い言葉?)
音読が終われば、あとは時間を潰すだけだ。日本語の聞き取りも苦手な朝日は、小学校の授業についていけていなかった。そして小学校六年生にもなれば、自分の心を軽くする方法も多少は知っていた。
(なんでもいいや)
◇◇◇
「朝日さんって宇宙人みたいだよね」
昼休みのサッカーで尻もちをついた男の子が言った。家庭科の授業中おたまを持った女の子も言っていた。みんなは、朝日が宇宙人であるということに納得した表情だった。そしてこれは、転校生だからということではなく、宇宙人という言葉を使わないだけで、どの学校でもそうだった。だとしたら、本当にみんなには朝日が宇宙人に見えているのだろう。
みんなは宇宙人という言葉を、朝日の褒める言葉として使っていた。しかし、鏡を見ても、水面を見ても、そこに映った自分の姿を見て、宇宙人を自覚することができなかった朝日は、宇宙人というあだ名に対して、どこか馬鹿にされているか、もしくは疎外感のようなものを感じるしかできなかった。
(にんげんになりたいな)
学校から西に歩くと、朝日の家がある。
朝日は二階建ての古民家に、祖母と姉と三人で暮らしていた。姉は現役大学生の宇宙飛行士だった。一度宇宙に行って、最近帰ってきた。姉が宇宙に行っている間に、両親は死んだ。あの情報は正しかったのだ。
祖母が育てている朝顔を通り過ぎ、朝日は玄関を開けた。明かりを点けていないから、夕焼けになっている外よりも、玄関の方が暗かった。朝日は立ちすくんで、眉をひそめた。頭のなかに挨拶を思い浮かべようとするが、絶妙に出てこない。
(あー、なんて言うんだっけ)
朝日が挨拶に迷っていると、ふと、背後に気配を感じる。
「ただいまー!」
朝日は後ろから抱きしめられる。
気配の正体は、姉の夜月だった。大学から帰ってきたのだろう。こうして帰宅のタイミングが被ることは珍しかった。手首に香水をつけているのか、香りが残っていて心地よかった。
「ただいま」
朝日は夜月の挨拶をマネて家に入る。
夜月はニマニマしながら、朝日に続く。美形の姉弟であり、二人とも感情が表情に漏れたときには変顔になるのは同じだった。似ているのは容姿くらいであり、宇宙飛行士になるほど優秀な夜月に対して、朝日は勉強ができなかった。
「学校どうなのよ?」
「楽しいこともある」
嫌なことも多い人生だが、友達とサッカーをして遊ぶのは楽しかったし、自信のある得意なことだって多かった。ボディーランゲージのようなものは得意だったので、スポーツをしているときの朝日は、コミュニケーション能力がそれなりに高かった。
「前と一緒だね。ま、無理せずね」
朝日はランドセルを置いて、テレビがある居間に入った。
テレビを点け、お気に入りの座布団の上に身体を重ねる。言葉を聞き取るのが苦手だった朝日だが、音がある状態を好んだ。うるさいのが好きというより、静かな環境が嫌いだった。
(最初からやり直せたらいいのに)
朝日はこのような考えになることが多かった。
テレビではテレフォンショッピングの合間に、深夜アニメの番組宣伝が行われていた。アニメは、転生がうんぬんというタイトルだった。テレビから出てくる言葉もあまり耳に入らなかったけど、単語くらいなら頭に入った。
(……てんせい)
転生。
その言葉が何となく気になった。タイトルはすごく長かった気がするけど、朝日の脳内に居残ったのはこの四音だけだった。朝日は本棚の方を見る。音、というかひらがなさえ分かれば、言葉を調べることができる。
朝日は本棚からしわくちゃな国語辞書を取り出した。ちゃぶ台の上に国語辞書を置き、転生を引く。そこには『生まれ変わること。一度死んで、次の世で別の形に生まれ変わること』あった。転生という言葉の意味に驚いた朝日は、慌てて辞書を閉じた。
(死ぬ……?)
朝日は困って変顔になる。
最初からやり直す方法を知ってしまった。死んで、次の自分に期待することを考えてみた。死ねば両親に会えるかもしれないとも考えた。しかし、死の都合の良さが、妙に気持ち悪くて、朝日は考えるのを放棄し、また座布団に身体を重ねた。
「はい。ぎゅー」
おちゃらけた声を出しながら、夜月は朝日の上に覆いかぶさって、体重をかけた。その重たさが気持ちよかった。夜月のサラサラの金髪が、朝日の頬にあたる。姉弟で同じような髪質だった。
「俺、宇宙人に見える?」
「かわいい弟にしか見えないけど」
この、かわいいという言葉にも、朝日はムッとする。
「宇宙に宇宙人いた?」
夜月は朝日を潰すのをやめ、ゆっくりと起き上がる。それから、うーんと考えるが、これは宇宙のことを思い出しているわけではない。夜月は宇宙へ行ったが、そこに宇宙人はいなかった。
「宇宙にはいなかったけど、地球にはいるよ」
「え?」
夜月の言葉に、朝日は驚いた表情をする。
「ほんとに?」
「うん。ほんと」
地球には朝日の他にも宇宙人がいる。
(どこかにいるのかな)
宇宙人に思いを馳せる。
地球にいる宇宙人は、きっと肩身の狭い思いをしている。
(同じ思いをしているのかな)
いつもと変わらない夜のこと。
人は明日になるのが憂鬱だと、ぐっすりと眠ることはできない。だから、明日になってほしくない朝日は、上手に寝るのが不得意だ。両親が死んでから、ぐっすり眠れたことがない。身体は夜の闇に溶けそうになるのに、精神だけが今日にしがみつく。
朝日は布団に潜りながら、窓の外に見える、夜空に浮かんだ月を見ていた。
サンタクロースを信じているのに、月にいる兎は見えなかった。
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