第三十三話 アラクネが抱える闇②

 重苦しい沈黙が鉛のように店内の空気に溶け込んでいた。

 律子が語り終えた後、誰も言葉を発することができなかった。


 ただ、店の奥で単調に回り続ける換気扇の低いモーター音だけが、この場の息苦しさを助長させている。

 

 翔は、カウンターの下で握りしめた拳が、爪が食い込むほどに強張っているのを感じていた。

 何か言わなければ。

 友人のために、何か言葉をかけなければ。


 だが、どんな言葉が適切だというのか。


 「頑張れ」はあまりに無責任で、「大変だったな」では薄っぺらすぎる。


 怒りと、無力感と、そして今まで友人の苦境に気づけなかった罪悪感が、喉の奥で一つの塊となって、言葉の出口を塞いでいた。


 その息の詰まるような静寂を最初に破ったのは、律子自身だった。


「……ごめん、暗い話しちゃったね! でも、だからこそ、なのよ!」


 それは、無理矢理に絞り出したかのような、しかし確かな意志の力を感じさせる声だった。

 彼女は顔を上げると、自らを奮い立たせるように頬を軽く叩き、努めて明るい笑顔を作った。

 その痛々しいほどの健気さに、翔は胸が締め付けられる思いだった。

 

 律子はカウンターに置かれていた、翔が持ち込んだ魔石を、そっと両手で包み込むように持ち上げた。

 それはまるで、壊れやすい雛鳥を手のひらに乗せるかのような祈りにも似た手つきだった。


「翔ちゃんが持ってきてくれた、この高純度の魔石は、本当に、本当に助かったの。喉から手が出るほど欲しがってるお客さんがいてね。もちろん、明光を快く思ってない、骨のある人よ。これを元手に、少しだけ……ほんの少しだけだけど、反撃の狼煙を上げられる」


 魔石の放つ淡い光が、律子の瞳を内側から照らし出す。

 その光は、彼女の瞳に宿っていた深い疲労の影を払い、再び不屈の闘志を灯していた。

 彼女は心の底からの感謝を込めた真っ直ぐな視線で翔を射抜いた。

 

 そして、一度だけ逡巡するように唇を結んだ後、意を決したように口を開く。


「それで、もし……もしよかったらでいいんだけど。前に買い取れなかった分の、翔ちゃんが持ってる魔石も、ウチで買い取らせてくれないかな?」


 その提案に、翔は間髪入れずに頷いていた。

 迷いは一瞬たりともなかった。

 

「もちろん構わない。けど、本当に大丈夫なのか? 今の店の経営で……」

 

 金のことなど、どうでもよかった。

 妹の治療に使う分は確保してある。

 余っているこの石が、友人の力になるというのなら、ただで譲ってもいいとさえ思った。


 だが、律子の性格を考えれば、そんな申し出は彼女の誇りを傷つけるだけだろう。


 だからこそ、翔は純粋に友人として、彼女の台所事情を心配する言葉を口にした。


 その気遣いが伝わったのだろう。

 律子は「大丈夫!」と、今度は心の底から力強く笑って見せた。

 その笑顔には、先ほどまでの弱々しさは微塵もなかった。

 苦境のどん底にあっても決して折れない、彼女のしなやかで強靭な芯の力が表れていた。


「さっきも言ったでしょ? このレベルの高純度の魔石なら、いくらでも買い手がいるの。ミカドの締め付けを良く思ってない人たちも、あの企業の息のかかってない場所には沢山いるんだから。そういう人たちと、少しずつ繋がりを作ってるの。一気に全ては無理かもしれないけど、少しずつでも全部買い取らせてほしいぐらいよ」


 その言葉に嘘がないことを確信し、翔もまた覚悟を決めた。

 それは、律子だけの戦いではない。

 自分も、共に戦おう。


 巨大な敵に立ち向かう、この誇り高い友人の、一番の味方でいよう。

 

 彼は無言で頷くと、背負っていたバックパックを床に下ろし、その中を探った。

 そして、丁寧に布で包まれた、もう一つの塊を取り出す。


 布を解くと、夜空の最も深い青をそのまま凝縮したかのような人の魂を吸い込んでしまいそうなほどの深淵な輝きを放つ魔石が姿を現した。


「……分かった。これも頼む」


 カウンター越しに、律子へと差し出す。

 その魔石が放つ静かな光が、二人の間の薄暗がりをまるで聖域のように照らし出した。

 律子は息を飲んだ。


 差し出された魔石と、翔の真剣な顔を交互に見つめる。

 彼女は僅かに震える指先をゆっくりと伸ばし、翔の手の上にある魔石に触れた。

 

 ひんやりとした石の感触が、二人の間に確かな繋がりを生む。


 それはもはや、単なる金銭の取引ではなかった。

 巨大な力に屈せず抗う友人への、未来への投資。


 その一連のやり取りを、少し離れた場所から静かに見守っていたルナがふと慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 それはまるで、遥か高みから二人の子供たちの小さな誓いを見守り、その行く末を祝福しているかのような、穏やかで、どこまでも深い微笑みだった。


 しばらくして、壁にかけられた古びた振り子時計が、ぼーん、と低い音で7時を告げた。

 その音に、翔ははっと我に返る。

 

「やばい、もうこんな時間か。明日、一限から講義だったんだ……」


 現実が、一気に引き戻される。

 安堵と興奮で忘れていたが、自分はただの大学生で、明日もまた日常が待っているのだ。

 翔は慌てて立ち上がり、帰り支度を始めたが、そこで重大な問題に気づき、律子の方を向いた。


「律子、お言葉に甘えるようで本当に悪いんだけど、今晩一晩だけ、彼女をここに泊めてもらえないか?」


 翔が指さした先で、ルナは不思議そうな顔をして小首を傾げている。

 彼女の素性も、行く当ても、翔は何一つ知らない。

 このまま夜の街に一人で放り出すわけにはいかなかった。

 そして、自分が今、最も信頼できる人間は、目の前にいる友人をおいて他にない。


「え、もちろんよ! 大歓迎よ!」


 律子は翔の提案に、待ってましたとばかりにぱあっと顔を輝かせた。

 店の経営の悩みで沈んでいたのが嘘のように、その瞳は再び、好奇心と探究心に満ちた研究者のものに戻っている。

 どうやら、彼女にとってもルナは得難い存在らしい。


「やった! ルナさんと、さっきの『魔力コンバーター』の構造について、徹夜で語り明かせるじゃない!」


 その様子に苦笑しながら、翔はバックパックを背負い直した。

 ルナは少し不安そうな顔で翔を見ている。

 

「大丈夫だ。律子は俺の一番の親友だから。何かあったら、俺がすっ飛んでくる」

「……分かったわ、ショウ」

 

 ルナが小さく頷いたのを確認し、翔は二人に別れを告げた。


「それじゃ、また明日、講義が終わったら迎えに来る」


 古びた木製のドアに手をかける。

 カラン、と真鍮製のベルが、くぐもった懐かしい音色を響かせた。

 

 店を一歩出ると、ひんやりとした夜の路地の空気が翔の全身を包んだ。

 友との間に交わした静かな誓いが、翔の胸の中で、消えることのない確かな熱を帯びていた。


 明日から、世界の見え方が少しだけ変わる。

 そんな確信にも似た予感が、彼の胸を満たしていた。

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