第十一話:しあわせのかたち
あれから幾ばくかの月日が過ぎ、屋敷には新しい季節の風が吹き込んでおりました。
長い夜を越えて産声を聞いたあの瞬間――。
あのときの光景を、わたくしは決して忘れることはできません。
燭台の炎が揺れ、産声が夜の帳を破った刹那、部屋の空気がぱあっと緩むのを肌で感じました。
夫は両の目から涙をあふれさせ、わたくしの手を強く握りしめ、声にならぬ嗚咽をもらしました。
わたくしの胸に抱かれた小さな命は、まるで新しい時を告げる鐘のように泣き、わたくしの魂までも洗い流すようでございました。
赤子の頬のやわらかさ、かすかな温もり。
夫の掌に伝わる熱。
そのすべてが、わたくしに「生まれ直した幸福」を与えてくれたのでございます。
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それからの日々、屋敷はかつてないほど明るさを取り戻しました。
廊下には赤子の泣き声が響き、乳母が子守歌を口ずさめば、壁に掛けられた絵画すらも微笑んでいるように見える。
夫は仕事から帰ると真っ先に赤子を抱き、優しい声で
「今日も元気でいてくれてありがとう」
と言葉をこぼすのです。
わたくしはその横顔を見るたび、心の底からの充足を覚えました。
乳母は赤子をあやしながら、
「お健やかに育ちますように」
と幾度も口にし、その声が屋敷をさらに柔らかく満たしていきます。
かつて沈鬱な空気を纏っていたこの家は、今や花咲く園のようでございました。
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ある日の午後、わたくしは乳母と共に街へ買い物に出かけました。
街路には花々が飾られ、人々は春の陽気に浮き立つように行き交っております。
赤子を乳母車に乗せれば、通りすがる者たちは目を細め、祝福の言葉を惜しみなくかけてくれました。
「かわいらしいこと」
「健やかに」
「幸せそうなお顔ですね」
と、皆が微笑んでくださる。
わたくしも自然と頬をほころばせ、胸いっぱいに幸福を吸い込んだのでございます。
けれど――辻を曲がったその時でした。
ふいに背筋を冷たいものが伝い落ちました。
確かに、誰かの視線を感じたのです。
鋭く、執拗で、赤子ではなく、赤子を抱くわたくしを狙い定めるような……。
振り返れば、人々が笑い交わしながら行き交うばかりで、特別怪しい姿はありません。
それでも、焼き付けられるような視線の感覚だけは、どうしても拭い去ることができませんでした。
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また別の日のこと。
市場で果物を選んでいた折、わたくしは一人の女とすれ違いました。
その顔は人波に紛れ、すぐに見失ってしまいましたが
―― 一瞬、唇がわずかに動いたのを確かに見ました。
耳許に、かすれた声が忍び寄ってきたのです。
「……今いちばん幸せかい……?」
ほんの囁きにも満たぬ声。
けれど、その言葉は刃のように鋭く心に突き立ち、全身の血の気を奪ってゆきました。
幻だったのかもしれぬ。
空耳だったのかもしれぬ。
ですが、肩掛け乃襟元の手に力がこもり、胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされたのは確かでございました。
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祝福と平穏に包まれる日常。
けれどその片隅で、冷たい影がわたくしの足元にまとわりつき、誰にも見えぬ暗い穴が静かに口を開けている――。
その予感が、確かにわたくしの胸の奥で息づいていたのでございます。
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## 次回予告
「祝福の歌声に紛れるのは、呪いの囁き。
幸せの光に影を落とすのは、かつて捨てられし女の憎念。甘美なる復讐の最後の標的――それは小さき命。
墓穴はひとつでは足りぬ、と夜風が笑う。
人を呪わば、果たして誰が先に落ちるのでしょうね……?」
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