もう1人の貴女

テストが終わった放課後、私と水谷さんは二人で帰路へと着いていた。

テスト週間だから今日は午前で終わり。日向さんは部活があるらしく、一緒に帰ることは叶わなかった。


「ねぇ」


「………ねぇってば」


「……………………水谷さん?」


怖いくらいの沈黙が場を支配する。

彼女が嫌いなわけじゃない。だけど、あの日以来、直接話すどころかLINEすら送られてこなかった。一緒に帰るのだって久しぶりだ。


私の右手には彼女の温もりがあって。

水谷さんは力強く私の手を握っていた。


「ごめん……水谷さん」


日向さんに告白されてから、言いようもない満足感と水谷さんへと罪悪感が沸々と湧き上がっていた。


仮にも、恋人の水谷さんを放っておいて、他の女と遊んでいるなんて、しかも私からも告白しようとするなんて。


私の謝罪に水谷さんは応えない。

ただ、骨が浮き上がるほどに手を強く握ってる。


「美月の家、行くから」


「…なんで?」


「行くから」


水谷さんは有無を言わせずに言う。

本当は、まだ他人を家に入れる事には抵抗があった。でも、裏切った私にそんなこと言う権利ないと思った。







扉を開けて自室へと入る。

水谷さんが私の部屋に来るのは、あの日以来。

あの時の荒い息づかいと、ぐちゃぐちゃと鳴る汚い音。そんな断片的だけど、私を興奮させる記憶が想起されて。


水谷さんの身体から目が離せなくなる。

あの華奢ですべすべな腕に、私はこの前抱かれたんだ。そう思うと、心臓が歩き出しそうなくらいに動き始めた。


「疲れたから横になろうか」


水谷さんはベッドへと腰掛けて手招きをする。


「私は別に疲れてないし、客人の水谷さんが言う事じゃないでしょ」


「まあ、それもそうか」


冷たく突き放すと、覇気のない返事が返ってくる。いつもなら「そう言わずに、一緒にごろんってしよ?」くらい言いそうなのに。今の水谷さんは、心を置いてきてしまったみたいに静かだ。


私も、彼女も話さない。部屋に変な沈黙が走って。何か話そうと口を開く寸前、水谷さんの唇がぴちりと開いた。


「美月はさ、私のこと好き?」


「えっ」


どういうこと?そんな疑問をぶつけようとして踏みとどまる。

水谷さんの真っ暗な瞳。そこに映されている世界を私は知る由もなくて。

どうしてそんなこと聞くのか。そもそも私と付き合ってるのか。…本当に、私のことが好きなのか。

きっと、聞いてしまえば複雑に絡み合った関係が解けてしまうと、思った。


でも……何を思って、そんなこと言ったの?


「名前で、呼ばないでよ」


突き放すように言い放つ。だけど、水谷さんは濁り切った淀川のような瞳をしていて。


「吉田さん、どうなの?」


その質問だけを繰り返し問いかけてくる。


「……そんなの分かんないよ」


ずっと、水谷さんがほんとに私のこと好きなのか。そればっかり気にしてたけど。私だって、彼女を好いているかを決めかねていた。


水谷さんの夜から出てきたみたいな瞳。それが私を捉えて離さない。

水谷さんは小さくため息をつく。


「分かんない?じゃあ、質問変えるね」


何も映さない、見せようともしない笑顔が、私に向けられる。

水谷さんの手が伸びてきて。

腕を引っ張られて、そのまま水谷さんに体を預ける形になる。

目と鼻の距離に、水谷さんの赤い果実のような唇があった。


「日向が、好きなの?」


「……知らない」


「知らないじゃないでしょ。吉田さんのやってること、浮気だよ」


水谷さんの薄い指先が頬の輪郭を撫でる。


「なんで、かなぁ……」


彼女の口元が頬に触れる。

存在を確かめるようなキス。

いつもなら、無理矢理にでも押し倒して口元を奪っていたのに。

らしくもない、しおらしさだと思った。


「やめて」


彼女の手を振り払う。

目を細めた彼女は飾り気のない顔を向けた。


「嫌だった?」


「そう言うことじゃ、ない。分かんないの、水谷さんの考えてることが」


「嫌、なんだ」


「そうじゃ、ない……」


「やっぱり、吉田さんも他の人と変わらないね」


馬乗りになった私を押し退けて、水谷さんは立ち上がる。尻餅をついた私には目もくれず、ドアを開けて部屋を出て行こうとして。


水谷さんが居なくなる。

そう思ったら、急に目の前が真っ暗になった。


「わたし、どうすればいいの……?」


立ち上がって、急いで彼女の左手を握る。

都合の良いことだって分かってる。でも、それでも。水谷さんにだけは、私の全てを受け入れてくれるって。そう信じたい。


「言わないと分からない?」


水谷さんは顔を合わせないままに冷たい声を吐き出した。


「私言ったよね?日向と仲良くするなって。なのに今日二人ともすんごい楽しそうに話してたよね?あれ、どういうこと?」


「そ、それは」


「先に裏切ったの、そっちだよね?」


「うん………」


「裏切り者には、罰を与えないといけないよね」


「えっ」


何処までも現実を見下すような彼女の声。

振り返った水谷さんの瞳が、怖いくらいに生々しく見えて。


「っ………!?」


力強く押されて、ベットへと押し倒される。

馬乗りになる水谷さん。その眼には血管が浮きだっていた。


「水谷さん………」


水谷さんが戻ってきてくれた。私を見てくれる。それだけが何よりも嬉しい。

キスか、ハグか。それとも………。

身体から力を抜いて水谷さんが触れてくれるのを待つ。


優しい眼差しと、無条件の抱擁。

それを待ち望んでいたのに。


私の首に、何かが近づいてきて、首元を思いっきり絞められた。


「みずっ………くっ……」


熱い。首元が熱い。

痛みで視界の端がちらつく。

目を見開くと水谷さんの手が首元に伸びているのが見える。

なんで?おかしい今日の水谷さんは変だ。こんな首絞めたりなんてしてこないのに。


怖い。全部を受け止めてくれそうな彼女じゃない。今の水谷さんは、


「なに?言いたいことあるなら良いなよ」


「やめ…………ぁ………」


必死に水谷さんの腕を掴んで離そうとするけれど、力が抜けて意識が途切れて。


目を閉じる直前、瞼の裏に浮かんだのは


『みつき、怪我してない?』

『あの人、明日は朝早いみたいだからもう寝るみたい』

『大丈夫、お母さんがついてるからね』


真っ暗なリビング、割れたお皿の破片でキラキラと反射する光。それに当てられて、お母さんの笑顔が輝いて見えたのを今でも覚えている。

触れれば壊れてしまいそうな、そして、壊れてしまった笑顔。


思い出して、最期に縋りたくなった。


「……かぁ…さん……」


羽音みたいに掠れた声が出る。

水谷さん、ひどい顔。無表情なのに、泣いてるみたい。いつもの聖母みたいな笑顔じゃない。

私より大人びていた彼女が、今は小さな女の子に見えて。


お母さんの真似しようと思ったわけじゃない。

でも、気づけば彼女の頰をそっと撫でていて、そしたら水谷さんの顔が酷く歪んで、手が緩まった。


「っぁ………ごほっ」


「あの……わたし、ごめん………」


首元が解放されて、荒々しく呼吸をする。

喉から冷たい空気が流れ込んできて、強張った筋肉が緩まっていく。

水谷さんは両手を力無く垂れ下げて、少しばかり体を震わせた。


「さいあくだ。わたし」


空虚な声が部屋の中を独り歩きしたかと思えば、水谷さんは髪をくしゃっと握りしめて、自分で髪を引っ張った。


「水谷さん……?」


「……今日は、もう帰るね。急に押しかけてごめん」


そう言い残して立ち上がる水谷さんの人差し指を、辛うじて捕まえる。


「ちょっと、待ってよ」


「………水谷さん、何で急にこんなことしたの?」


「聞かないで」


「わたし、死にかけたんだけど」


「それは、ごめん」


「やっぱり、水谷さん…なんかおかしいよ」


日向さんと付き合いそうになったとはいえ、水谷さんはそれを知らないはずなのに。なのに、話してるだけで怒って首まで絞めてきて。


キスして肌に触れて。優しく、気持ち良くしてくれたあの時の水谷さんじゃない。


無表情で何を考えているか分かんない顔。


「そう?いつも通りだよ」


そう言った直後、お面を被ったみたいに水谷さんはニッコリと笑った。


「嘘つかないでよ。私の質問に答えて」


「ごめんって。大好きだから、キスで許して?」


「そう言うの、良いから」


冷たく突き放すと、水谷さんは困ったように眉尻を下げて部屋を出ていく。

私はベッドに腰掛けたまま、彼女の透明な足跡を目で追い続けた。

部屋には、最初から誰も居なかったかのような、季節はずれの冷たい体温が残っていた。


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