第6節 8ミリフィルムとベッコウ飴


 風が抜けた。

 昼下がりの坂本家の縁側は、夏の湿気のせいか畳がじっとりと肌にまとわりつく。

蝉の鳴き声と、遠くで聞こえる草刈り機のモーター音。

どこにでもある、夏の午後の風景。


 誠一は、茶をすする手を止め、なんとなく目の前の帳簿を見つめていた。


 アパート経営は、まあまあ順調だった。

築年数が経っている割には住人の入れ替わりも少なく、家賃の滞納もない。

学生から社会人になってもなお住み続けてくれる人。

ちょっと事情を抱えた大人達も何も問題など起こすことなく、なんならお裾分けが行き交っているほどだ。

妻のみゆきが定期的に共有スペースの掃除をしてくれているおかげもあって、「住みやすい」という声もよく届いてくる。


 一方、駄菓子屋「たんぽぽ屋」はといえば、

晴れた日に家族や学校の愚痴を言いにくる学生や、祭りの計画を話すことを口実にたばこをねだりに来る悪友を除けば、客足がゼロの日も少なくない。

売上は、月にして数万円。お釣りに用意した小銭の方が重い日もある。

商品の仕入れは、もはや“気分”と“勘”。

冷静に考えれば、いつ閉めてもおかしくない店だった。


「どうせ自己満足だろ、って言われりゃそれまでか……」


誰に聞かせるでもなく、つぶやく。


それでもやめられない。

孫の為に「懐かしい」と言いながら駄菓子を買いにくる老人。

飴玉をじっと見つめながら、たった一つを選ぶ、五十円玉を握りしめて「どれがいちばんおいしい?」と聞いてくる子。


たったそれだけのことに、妙に心を動かされる。


アパートの帳簿には「安心」があるけど、駄菓子屋には、なんというか——

「うまく言えないけど、捨てがたい何か」がある。





「父さん、物置の整理するんでしょ。この間言ってたじゃん」


部屋の奥から娘の麻衣が声をかけてきた。

最近、看護師を目指し始めた麻衣は、勉強の合間を縫って家の手伝いもよくしてくれる。

目線を戻すと、縁側に立てかけたダンボールと古道具の山が視界に入る。


「……ああ、そうだった」


立ち上がり、目の前の現実を忘れたいかのようにして物置へと向かう。



物置の中は、まるで時間が止まっているようだった。

昭和の香りが染みついた段ボール、使わなくなった電気ストーブ、こたつ布団、正体不明の木箱。

そして、棚の隙間にぽつんと置かれた、丸い金属の缶が目に入った。


「ん?」


缶には、かすれたマジックで文字が書いてあった。


「坂本家」


誠一は缶を手に取り、埃をぬぐった。

中には、小さく巻かれた8ミリフィルムが一巻。


「……懐かしいな。まだ残ってたのか」


誠一の父が、やたらと家族の映像を撮っていたのを思い出す。

子どもの頃はそれが面倒で、「またかよ」なんて思っていた。

でも、今になってそれがどれほど貴重なことだったのか、ようやく分かってきた気がする。




ホコリをかぶっていたが、状態は悪くない。

誠一は箱ごと抱えて、居間へと戻った。




 その夜、誠一は夕食を終えた後、風呂も済ませ、久しぶりに少し早めの余白を持て余していた。太一は風呂上がりのまま座布団を枕に寝転び、麻衣は食卓の上にノートを広げて勉強をしている。みゆきは台所で洗い物をしていたが、ふと、思い出したように言った。


「ねえ、さっきのフィルム。昔の8ミリなんでしょ?」


誠一は「ん?」と声を漏らしながら、棚の上に無造作に置いた缶の中身を思い出した。


「……たぶん、そうだろう」


「だったら、ほら。押し入れか倉庫だか。映写機、あったんじゃない?」


映写機——確かにあれもどこかにあったはずだ。


「ちょっと見てくるわ」


 思い出したかのように、風呂を済ませたにも関わらず物置の奥を探ると、木の箱に収まった映写機が出てきた。



 骨董品の山から戻った誠一は、縁側でその機械の埃を丁寧に払って居間の真ん中に優しく置いた。コンセントは古びているが、差し込むと、低い音とともに機械はゆっくりと回り始めた。




「おお……すげぇな、まだ動く」

隣の太一からは眩しいほどの視線を感じる。


 思い出しながら8ミリフィルムをそっと巻き取り、映写機に通す。壁には、これまた倉庫から出してきた白い模造紙を貼り、家族を呼び集めると、さながら映画の始まりのように、部屋の明かりを落とした。


フィルムがカタカタと音を立てながら進む。


 最初に映ったのは、色あせた昭和の風景。小さな木造の駄菓子屋「高橋商店」の前で、誠一の父が子どもたちに囲まれて笑っている。その手には、ベッコウ飴を乗せた木の板。器用な手つきで型に流し込んでいる。

 その隣であたかも自分がベッコウ飴を作ってるような、自信満々な、作っている本人と同じ顔が画面の中央に映り込んでいる。

 おそらくフィルムを回しているのは誠一の母だろう。


「あっ……」


麻衣が小さく声を上げる。その横顔は、真剣そのものだった。


 画面が切り替わり、今度は若かりし頃の母、つまり麻衣と太一の祖母と、まだ小さな自分――誠一が、父の肩に乗って笑っている姿が映る。背景にはまだ工事中だった当時の坂本アパート、今の月光荘の基礎が見える。


「この時期か……」


 誠一は思わず呟いた。父が大工を引退を考え始め、子どものためにアパートを建て始めた頃だ。あの時、父は『これでお前らが困らねぇようにしてやる』と、照れくさそうに笑っていた。誠一には、その言葉の重みが、今やっとわかるようになっていた。


 映像の中の父は、場面が変わるたびに町の子どもや住人たちの笑顔に囲まれている。誰かの壊れた傘を直したり、壊れた自転車に手を入れていたり。たまに町の人にからかわれて撮られたのか昔にしては珍しいほど仲睦まじい夫婦の姿も。映像の端に、まるで風景の一部のように、そういう姿が何度も映り込んでいる。


「ほんと、おじいちゃんとおばあちゃん、誰にでも親切だったんだね……」


と麻衣が呟いた。麻衣が小学校1年生か2年生になる頃だったか、麻衣の祖母は旅立った。

役目を終えたと感じたのか、その数ヶ月後に祖父も後を追った。


「そうだなー。たまに家のドアが直ってるのに、誰がやったのかわかんねぇなんて話があってな。だいたい親父が直してたらしい」


誠一は思い出しながら笑った。


「母さんなんか、食うのに困ってるって人がいれば、家にあげて風呂は浴びさせるわ、握り飯食わせるわで。俺も何回か知らない人と夕飯食ったことあるよ。」


太一が、そっと言った。


「なんかさ……おじいちゃん達、ヒーローみたいだね」


 太一は祖父母の周り近所からの評判を聞くのが好きらしい。記憶がない寂しさはないようだ。

その言葉に、部屋の空気が少しやわらいだ。誰もがうなずくような、静かな時間が流れる。


 映像の最後、父が建設途中のアパートを背に縁石に腰掛けながらカメラの方を見て、少しだけ照れ臭そうに笑っていた。右手にはたばこ。アパートの前で煙を細く吐き出している。


みゆきが思わず言った。


「あなたに、そっくりね」


「……そうか?」


と、誠一も小さく頷いた。


 映像が終わり、部屋に静寂が戻る。わずかな機械音だけが、名残惜しそうに響いていた。


 父は、大工という手仕事で町に貢献し、引退してもなお、家族の未来のためにアパートを残し、さらには映像の中にまでその優しさを残していた。

 母は大きな優しさで町と触れ合い、それ以上の優しさで自分を育ててくれたと。

 そんなこと、この体の骨の髄まで知っていたはずなのに、8ミリフィルムを見るまで忘れていた。




自分はどうだろうか。





 大工ではないけれど、町の中に、小さな居場所を残せているのかもしれない。自己満足かもしれないが、それでも子どもたちが大切な50円を考えて使ってくれる場所、100円玉を預けたままの老婦人とのふれあいが残る場所が、自分を、たんぽぽ屋を前へ進ませている。


フィルムの光が消え、家族がそっと明かりを戻す。


 部屋の明かりと同時に誠一の胸の奥にあった小さな灯りが、ほんの少し燃え上がったような気がした。


「…ちょっとたばこ吸ってくる」


「いってらっしゃい」


いつもは周りなど気にせず居間の真ん中で吸っていた誠一だが、今はアパートとたんぽぽ屋の方まで歩いて行った。



※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。

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