第51話 副団長、影を映す会議に出る
迎賓館の一室――
夜会が終わって程なく、帝国使節団の宿泊区画では重苦しい空気が流れていた。
黒い厚布で覆われた窓の向こうはまだ夜の帳に沈んでいるが、部屋の中心の卓上には燭台がいくつも灯され、真昼のような明るさを保っていた。
そこに集うのは、ユーフェミア・ラウレンツを中心に副官ルーデル、護衛騎士たち数名。
皆、礼装を着崩したままの姿で、夜会の熱を引きずっているはずなのに、誰一人として酒気を帯びてはいなかった。
「……間者、でしたね」
最初に口を開いたのは護衛の一人だった。低く抑えた声に、場の全員がうなずく。
「王国側の衛兵が取り押さえたあと、すぐに引き立てられましたが……」
ルーデルが続ける。
「副団長殿が“先に掴んでいた”のは確かです」
沈黙。
誰もが、あの光景を思い出していた。
人々の談笑と音楽に包まれた大広間。
誰一人気づかない影を――王国副団長レオン・アーディルは、まるで当然のことのように捕まえていた。
偶然に見えた。
だが、あれを偶然と呼ぶには正確すぎた。
ユーフェミアが杯を置き、視線を落としたまま呟く。
「……“見えていた”のよ。影が」
護衛の数人が思わず息を呑む。
彼らは暗殺や潜入の訓練を積み重ね、闇を歩くことに熟練している。だからこそ理解できた。
あれは気配察知や偶然ではない。
人の心拍、息遣い、目線の揺れ――それらを全て拾い、統合して、たった一瞬で結論に至る直感。
「暗殺も潜入も通じない」
ルーデルが額に汗を浮かべながら言った。
「影を歩く者にとって、最大の“天敵”です」
重苦しい沈黙。
護衛たちの喉がごくりと鳴った。
ユーフェミアは椅子の背に身を預け、瞳を閉じる。
「……皇帝陛下が言った“怒らせるな”という言葉。あれは比喩ではなかった。実際に、あの男を敵に回せば――帝国の影部隊すら壊滅しかねない」
ルーデルが恐る恐る口を開く。
「殿下……つまり、あの副団長は――」
「そう。噂の荒唐無稽さを裏付ける“何か”を持っている。……おそらく本人も自覚していないほどに」
卓の上の燭火が揺れ、沈黙が広がった。
護衛の誰もが言葉を失い、ただ無言で互いの顔を見合わせる。
やがてユーフェミアは静かに目を開け、声を低く落とした。
「この件、王国の警備だけでは説明がつかない。……間者はどこから来たのか」
護衛が答える。
「身なりからして王国人ではない。……おそらく“教国”の者です」
部屋の空気がさらに冷え込む。
帝国、王国、そして教国。
三国の緊張が今ここに重なっていた。
ユーフェミアは深く頷き、結論を告げる。
「いいわ。明日、王国側と改めて情報を突き合わせる。――ただし」
その瞳に、鋭い光が宿った。
「副団長については……“観察”を続ける。絶対に刺激せず、けれど一挙一動を見逃さない。……それが我々の最優先任務よ」
燭火がまた揺れた。
夜はまだ深い。
しかしその場にいた全員の胸中には、もはや眠気など欠片も残っていなかった。
−−−−
王城の作戦会議室。
壁に掲げられた大紋章の下、長卓を囲むのはクラリス王女、グラハム団長、そして数名の高官たち。
その傍らに、副団長レオンとシリルも控えていた。
夜会で捕らえられた間者は、すでに地下牢に収監されている。
だが、調べの前に――まずは「今回の件をどう捉えるか」各々の認識を揃える必要があった。
「……以上が、夜会での一部始終です」
報告を終えた衛兵隊長が一歩下がると、室内に静かな沈黙が落ちた。
クラリス王女は卓上に組んだ指を外さず、冷ややかに瞳を細める。
「間者が仕込んでいた道具は盗み取り用。……狙いは命ではなく、情報」
「うむ」
グラハム団長が低くうなずく。
「しかも仕草や動線の取り方は素人ではない。戦場を潜ってきた暗部の人間だ。……王国の者とは思えんな」
「他国の者と見て間違いないでしょう」
宰相補佐の一人が声を上げる。
「我が王国と帝国との外交を乱そうとした……」
言いかけた言葉を、クラリスが緩やかに首を振って遮った。
「断定は早計です。むしろ――帝国と王国、双方の疑念を煽ることが目的かもしれません」
会議室にざわめきが走る。
その視線が、一斉に副団長へ向かう。
レオンはといえば、背もたれに深く腰を下ろしたまま、無造作に頭をかいていた。
「いや、俺に振られてもな……。ただの酔っぱらいが騒ぎを起こしたって線じゃ駄目か?」
シリルが横で肩を落とす。
「副団長……さすがにそれは無理があるかと」
数名が思わず吹き出し、重苦しい空気が和らいだ。
グラハム団長が大きく咳払いし、場を整える。
「副団長。お前が捕えたのは偶然かもしれん。だが、奴の用意していた道具が“ただ事ではない”のも事実だ」
「……なるほどな」
レオンはぼりぼりと頬をかき、しばし考えるように視線を落とす。
「なら一つ。……あれ、気配が妙だった」
会議室の空気が揺れた。
「妙?」クラリスが問う。
レオンは言葉を選ぶように口を開いた。
「……なんていうか、王国の兵士や傭兵のそれじゃない。歩き方も呼吸も……祈るみたいに整えてた。……あれは、戦士じゃなくて“信徒”だ」
静寂。
その言葉が、全員の胸に突き刺さった。
「信徒……つまり――」
グラハムの低い声が室内を満たす。
「教国、か」
再びざわめき。
クラリスは瞳を細め、卓上に置いた指を静かに組み替えた。
「……やはり、そうですか。帝国の方々も同じ結論に至るでしょう」
彼女の声音は落ち着いていたが、その奥には鋭い緊張が走っていた。
教国――大陸の中枢で信仰によって力を広げる第三勢力。
王国と帝国のどちらとも対立と融和を繰り返してきた、もっとも不安定な隣人。
「意図は明白です」クラリスが告げる。
「我が国と帝国を疑心暗鬼に陥れ、交流を妨げる。……彼らにとって、二国が歩み寄るのは都合が悪いのでしょう」
「まったく……厄介なことを仕掛けてくれる」
グラハムが深いため息をついた。
レオンは黙ってそのやり取りを聞きながら、胸の奥で小さく呟く。
(……信徒、ね。あの目の動き……昔、山岳の戦地で似たのを見たことがある。けど、どこでだったか……)
記憶の奥に引っかかる違和感を振り払い、彼は頭を振った。
クラリスは全員を見渡し、結論を下す。
「明朝、改めて帝国側と合同で情報を精査します。教国の影を看過すれば、両国の安定は揺らぐ。……皆、準備を整えて」
「はっ!」
全員が立ち上がり、会議は閉じられた。
扉が閉じられたあと、レオンは肩を竦めながらシリルに向かって小声で言う。
「結局、俺は場を騒がせただけだったな」
「そんなことありません」
シリルは真剣な眼差しで首を振った。
「副団長の一言がなければ、教国という結論には至りませんでした。……やっぱり、あなたは――」
「いや、やめろ。褒め言葉は照れる」
レオンが慌てて遮ると、シリルは小さく微笑んで肩をすくめた。
会議室の外には、すでに薄明の光が差し込んでいた。
新たな一日が、再び動き出そうとしていた。
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