第62話 課長のソロ活動と、解き放たれる本能

 金曜日の夜。

 佐藤健司(35)は、一週間の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、ようやく自らの聖域…西新宿のタワーマンションの、その広すぎるリビングへと帰還した。

 彼は、玄関で窮屈な革靴をまるで脱ぎ捨てるように蹴り飛ばし、首を締め付けていたネクタイを乱暴に引き抜いた。ソファへと、その疲弊しきった体を投げ出す。

 しん、と静まり返った部屋。

 聞こえてくるのは、高性能な空気清浄機の、静かな運転音だけ。


(…はぁ)

 彼は、深く、そして重い息を吐いた。

 今週も、地獄だった。月曜の朝イチに発生したサーバーダウン。火曜にねじ込まれた、クライアントからの無茶な仕様変更。水曜に開かれた、何一つ決まらない不毛な長時間会議。木曜には、部下の山田がやらかしたミスの尻拭いで、深夜まで残業。そして今日、金曜日。ようやく全ての火消しを終え、心身ともに燃え尽きた灰のような状態で、彼はここにいる。

 リビングのテーブルの上には、昨夜の少女たちとの夕食の痕跡が、まだ微かに残っていた。食べかけのスナック菓子の袋、飲み干されたジュースのペットボトル。その、あまりにも生活感に満ちた光景に、彼の心は不思議と、ほんの少しだけ和らいだ。


 だが、今は違う。

 今、彼が求めているのは、癒やしではない。

 解放だ。

 この、あまりにも理不尽な現実と、その現実を耐え忍ぶために被り続けてきた「佐藤課長」という名の、重すぎる鎧からの、完全なる解放。


 彼は、その疲弊しきった体を、むくりと起こした。

 そして、彼は決意した。

 今夜は、一人で「仕事」に行く、と。

 ギルドのためでも、金のためでもない。ただ、自らの魂を浄化するためだけの、聖なる残業に。


 ◇


 B級中位ダンジョン【疾風の回廊】。

 その名の通り、内部は常に荒れ狂う風が吹き荒れる、広大な洞窟型のダンジョンだ。足場は不安定な岩の橋や、風に削られた鋭い石柱が林立する危険地帯。並のB級パーティであれば、その風に体力を奪われ、そして風に乗って奇襲を仕掛けてくるモンスターの前に、苦戦を強いられる。

 だが、今の健司にとって、その全ては、ただの心地よいBGMでしかなかった。


 彼が、その身に纏っているのは、もはやC級の初心者装備ではない。

 ギルドの資産を投じて手に入れた、B級上位のユニーク装備の数々。

 そして、その右手には、あの【冬の慟哭】が、静かに、しかし絶対的な存在感を放って握られている。刀身から立ち上る絶対零度の冷気が、周囲の荒れ狂う風を、わずかに凪がせていた。


 彼の前に、最初の敵が現れた。

 風の精霊、エア・エレメンタル。その半透明の体を、竜巻のように回転させながら、突撃してくる。

 健司は、動じない。

 彼は、その突進を、最小限の動きでひらりとかわす。

 そして、そのすれ違いざまに。

 がら空きになった、その無防備な背中へと、【冬の慟哭】を、軽く一閃させた。

 ザシュッという、風が裂ける音。

 エア・エレメンタルは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その半透明の体を一瞬で氷の粒子へと変え、この世界から完全に消滅した。


 その、あまりにもあっけない勝利。

 そして、その敵をキルするごとに、彼の魂の奥深く。

 一つの、赤い炎が、静かに、しかし確かに灯った。

【狂乱チャージ】が、1つ溜まる。

 彼の、その疲弊しきっていたはずの体に、内側から、力がみなぎるのを感じた。

 心臓の鼓動が、わずかに速くなる。

 視界が、クリアになる。

 そうだ。

 これだ。

 これこそが、俺が求めていたものだ。


 彼は、その高揚感を、その魂の全てで味わうかのように、回廊の奥深くへと、その歩みを進めた。

 彼は、ダンジョンを疾走する。

 次の敵の群れ。ハーピーの五人姉妹が、その鋭い爪を煌めかせながら、空から襲いかかってきた。

 健司は、もはや避けない。

 彼は、その群れの、そのど真ん中へと、正面から突撃した。

 そして、彼は舞った。

【冬の慟哭】が、青白い軌跡を描く。

 その一閃が、一体目のハーピーを捉え、そしてその魂を喰らう。

【狂乱チャージ】が、2つ溜まる。

 攻撃速度が上がり、さらに移動速度が上がり、神速でダンジョンの敵を狩る。

 彼の、その剣を振るう速度が、明らかに上昇していた。

 二閃、三閃、四閃。

 その度に、彼の力は、加速していく。

 そして、最後の一体を切り伏せた、その瞬間。

 彼の【狂乱チャージ】は、4つに達していた。

 彼の全身を、赤い闘気のオーラが、まるで炎のように包み込む。

 彼の動きは、もはや人間のそれではない。

 一つの、完成された、殺戮機械。


 そこから、始まったのは、もはや戦闘ではなかった。

 ただ、一方的な、そしてどこまでも美しい「蹂躙」だった。

 彼は、その疾風の回廊を、一陣の風となって駆け抜けていく。

 彼の前に立ちはだかる、全てのモンスター。

 風のゴーレムも、ストーム・リザードも、その全てが、彼の、その神速の剣技の前に、ただの経験値となって消えていくだけだった。

 そして、彼のチャージが最大に達した時。

 彼の剣技は、一つの、究極の領域へと昇華された。


 モンスターを5連斬で瞬殺してダンジョンを周回する。

 それは、もはや剣を振るうという行為ですらなかった。

 彼が、敵の群れを認識した、その瞬間。

 彼の体は、瞬時に五つの残像へと分かれ、そしてその五つの残像が、同時に、五体のモンスターの、その心臓を貫いていた。

 そして、次の瞬間には、彼はすでに、その遥か前方へと、その姿を移動させている。

 後に残されたのは、時間差で崩れ落ちていく、モンスターたちの亡骸だけ。

 その、あまりにも壮絶な、そしてどこまでも美しい光景。

 それに、彼の魂は、これ以上ないほどの、歓喜に打ち震えていた。


(…ああ、気持ちいい…)

 彼の、その心の底からの、素直な感想。

 会社の、理不尽な上司。

 言うことを聞かない、部下。

 そして、自宅で彼を待ち受ける、三人の、あまりにも騒がしい少女たち。

 その、日常の、全てのストレスが。

 この、純粋な暴力の、その奔流の中で、浄化されていくのを感じていた。


 ◇


 彼が、そのダンジョンの、中間地点にある、わずかな安全地帯へとたどり着き、一息ついていた、その時だった。

 ポポンッ!という、間の抜けた効果音と共に。

 彼の視界の隅に、一体のピンク色のタコが、その姿を現した。


「ナイスランだッピ、健司!」

 フロンティア君の、そのあまりにも場違いな、そしてどこまでも元気いっぱいの声。

 それに、健司は、その高揚感に満ちた表情のまま、ふっと息を吐き出した。

「…ああ」

 彼は、その手に握られた【冬の慟哭】を、どこか愛おしそうに見つめながら、言った。

「ジョーカーのビルドだけあって、基本ソロ向けだよな、俺のビルドって」


 その、あまりにも的確な、そしてどこまでも本質を突いた、自己分析。

 彼は、パーティの中では、常に「壁」であり、「指揮官」であることを求められる。

 だが、このビルドの、その本当の真価は。

 全ての枷から解き放たれ、ただ一人、その暴力の奔流に、その身を委ねた時にこそ、発揮されるのだ。


「そうだッピ!」

 フロンティア君は、その言葉に、最高の笑顔で、応えた。

「君のビルドは、JOKERがかつて使っていたビルドをさらに攻撃的に発展させたものだッピ!【冬の慟哭】による火力とデバフ、【不死鳥の涙】による自己完結した回復能力、そして【狂乱】による圧倒的な速度!生存能力と、火力と、速度がある、良いビルドだッピ!」

 彼は、ARウィンドウに、健司の、現在の戦闘ログのデータを表示させた。

「現在の、君のモンスター討伐速度(キル・パー・ミニット)は、パーティで行動している時の、実に340%に達しているッピ!まさに、無双だッピよ!」


 その、あまりにも客観的な、そしてどこまでも彼の自尊心をくすぐるデータ。

 それに、健司は、満足げに頷いた。

 そして彼は、その日の、最後の「仕事」を終わらせるために、静かに立ち上がった。

 このダンジョンの、主。

 その、首を狩るために。


 ◇


 ボス部屋は、巨大な竜巻が常に渦巻く、円形の闘技場だった。

 その中央に、それはいた。

【風の古竜、エアリクシル】。

 その、あまりにも圧倒的な、プレッシャー。

 だが、健司の心に、もはや恐怖はない。

 あるのは、ただ、目の前の獲物を、いかにして美しく、そして効率的に狩るかという、冷徹な計算だけだった。


 戦いは、一瞬だった。

 古竜が、その巨大な口から、全てを切り裂く真空の刃を吐き出した、その瞬間。

 健司の体は、すでにそこにはなかった。

 彼は、その神速の動きで、古竜の、その巨大な懐へと、一瞬で潜り込んでいた。

 そして、彼は舞った。

【冬の慟哭】が、青白い、無数の残像を描く。

 その、あまりにも一方的な蹂躙劇。

 それに、古竜は、なすすべもなかった。

 その硬い鱗は、まるで紙のように切り裂かれ、その巨体は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在を、完全に消滅させた。


 静寂。

 後に残されたのは、おびただしい数のドロップ品と、そしてその中心で、荒い息をつきながら、しかし確かな勝利を噛みしめる、一人の男の姿だけだった。

 彼は、そのあまりにも大きな達成感を、その魂の全てで、噛みしめていた。

 そして彼は、呟いた。

 その声は、新たな、そしてより騒がしい日常へと、再びその身を投じる覚悟を決めた、一人の男の、それだった。


「…さて、と。帰るか」

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