第60話 エリートの表敬訪問と、仁義なきお茶会

 土曜日の昼下がり。

 東京湾岸エリアに聳え立つ、無機質なコンクリートの壁。ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』が、そのなけなしのギルド資産をはたいて契約した、巨大な倉庫。その内部は、いつものように、穏やかな混沌に包まれていた。

 部屋の隅には、星野輝がハイストで稼いできた「不良資産」の山が、もはや小さな丘を形成している。その反対側では、天野陽奈が持ち込んだポーションの調合キットが、甘いハーブの香りを漂わせていた。そして、中央に置かれた折り畳み式のテーブルでは、兎月りんごが、自らのスキルで生成したトランプを使い、一人で「奇跡のババ抜き」に興じている。


「――だから、違うと言っているだろう!」


 その、あまりにも平和な光景の中心で。

 佐藤健司(35)の、中間管理職としての魂の叫びが、がらんとした倉庫に虚しく響き渡った。

 彼の目の前のARウィンドウには、彼が会社の昼休みに、なけなしの時間を削って作成した、完璧なインベントリ管理用のスプレッドシートが表示されている。アイテム名、等級、取得日、市場価格、そして担当者。その、あまりにも美しく、そしてどこまでも合理的なデータベース。

 だが、その完璧なシステムを、彼の自由奔放すぎる部下たちは、全く理解しようとはしなかった。


「だーかーらー、ボス!」

 輝が、その口の周りについたポテトチップスの粉を拭いもせず、反論する。

「いちいちこんな面倒くさいシートに入力するより、あたしが感覚でマーケットに出した方が、100倍早くて儲かるんだって!」

「その『感覚』で経営するから、いつまで経っても赤字なんだろうが、うちの営業部は!」

 健司の、そのあまりにも切実な、そしてどこまでもサラリーマン的なツッコミ。それに、輝は頬をぷくりと膨らませた。


 その、あまりにも不毛な、しかしどこまでも日常的な口論。

 それが、唐突に、一つのあまりにも場違いな音によって、断ち切られた。

 ブウウウウン…という、静かだが、どこまでも力強い、高性能な魔石エンジンの駆動音。

 その音は、倉庫の巨大なシャッターの、すぐ外で止まった。


「…ん?」

 輝が、不思議そうに首を傾げる。

「なんか、来たっぽくない?」

「宅配便でも頼んだのか、お前ら」

 健司が、呆れたように言う。

 だが、その彼の、あまりにも平和な予測。

 それを、フロンティア君の、けたたましいアラート音が、無慈悲に打ち砕いた。


「健司!大変だッピ!」

 彼の視界の隅で、ピンク色のタコが、警告色である赤色と黄色に、激しく点滅していた。

「倉庫の前に、未確認の、高レベル探索者パーティを、複数名確認したッピ!識別コード…【アストライア】!間違いないッピ!剣崎達也だッピ!」


 その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも面倒くさい名前。

 それに、健司の顔が、サッと青ざめた。

(…なんで、あいつらが、ここに…!?)


 彼が、そのあまりにも巨大な謎と、そしてこれから始まるであろう地獄を前にして、思考を停止させていた、まさにその時だった。

 倉庫の、巨大なシャッターが、コンコン、と。

 あまりにも丁寧な、しかしどこまでも威圧的なノックの音を、立てた。

 そして、そのノックの音に続いて、一つの、どこまでも涼やかで、そしてどこまでも好青年な声が、響き渡った。


「――ごめんください!ギルド『アストライア』の、剣崎と申しますが!『アフターファイブ・プロジェクト』の、佐藤マスターに、ご挨拶に伺いました!」


 静寂。

 数秒間の、絶対的な沈黙。

 その、あまりにも礼儀正しく、そしてどこまでも逃げ場のない、宣戦布告。

 それに、健司は、ただ天を仰ぐことしかできなかった。


 数分後。

 倉庫の中央に置かれた、折り畳み式のテーブル。

 その、あまりにも貧相な応接セットを挟んで、二つの、あまりにも対照的なギルドが、奇妙な沈黙の中、向かい合っていた。

 片や、『アフターファイブ・プロジェクト』。

 よれたTシャツ姿の中年男性と、その周りで、どこか楽しそうに、しかしどこまでもマイペースに座る、三人の女子高生。

 そして、その向かい。

 ギルド『アストライア』。

 リーダーの剣崎達也を筆頭に、全員が寸分の狂いもなく揃えられた、白銀のギルドユニフォームに身を包んだ、男女四人。その立ち姿には、一切の隙がない。彼らは、まるで異文化を観察する人類学者のように、このあまりにも混沌とした空間と、その住人たちを、冷静な、しかしどこまでも興味深そうな瞳で、見つめていた。


「――いやはや、素晴らしい」

 最初に、その重い沈黙を破ったのは、剣崎だった。

 彼の、その爽やかな笑顔。それは、もはやただの好青年のものではない。

 一つの、巨大な組織を率いる、若きリーダーの、それだった。

「これが、あのグランプリを制したギルドの本部ですか。無駄な装飾を一切排し、ただ機能性のみを追求した、実に合理的な空間だ。感服いたしました」


 その、あまりにも完璧な、そしてどこまでも皮肉の効いた、外交辞令。

 それに、健司は、その顔をひきつらせながらも、なんとか、その中間管理職としての、完璧な営業スマイルで、応えた。

「は、はは…。お褒めに預かり、光栄です。まあ、我々はまだ、駆け出しの弱小ギルドですので。お見苦しいところばかりで、お恥ずかしい限りですが」


 その、あまりにも謙虚な、そしてどこまでも卑屈な、社交辞令。

 それに、輝が、そのテーブルの下で、健司の足を、思いっきり蹴り上げた。

(痛っ…!)

 健司が、その無言の抗議に、内心で悲鳴を上げた、その時だった。

 輝が、その完璧な人たらしの笑顔で、会話に割り込んできた。


「いやー、剣崎さんこそ、わざわざこんな場末の倉庫まで、ご足労いただいちゃって、サーセン!」

 彼女の、そのあまりにもギャル的な、しかしどこまでも堂々とした挨拶。

「で?今日は、何の用?まさかとは思うけど、この前のナイトプールでの、あたしとのデートの約束、果たしに来てくれたとか?」

 その、あまりにもぶっ飛んだ、そしてどこまでも挑発的な一言。

 それに、剣崎の、その完璧だったはずの笑顔が、わずかに、ひきつった。

 そして、彼の背後に控えていた、生真面目そうな女性ヒーラーの眉が、ピクリと動いたのを、健司は見逃さなかった。


 その、一触即発の、あまりにも面倒くさい空気。

 それを、救ったのは、一つの、あまりにも純粋な、そしてどこまでも天使のような声だった。

「あ、あの!」

 陽奈が、おずおずと、その小さな手を上げた。

「せっかく、お客様が来てくださったんですから…!お茶、淹れますね!」

 彼女は、そう言うと、その場から立ち上がり、倉庫の隅に無理やり設置された、小さな簡易キッチンの元へと、ぱたぱたと駆け寄っていった。

 その、あまりにも家庭的で、そしてどこまでも場違いな、もてなしの心。

 それに、剣崎たちの、その鉄壁だったはずの表情が、わずかに、しかし確実に、緩んだ。


 そこから、始まったのは、歴史上、最も奇妙で、そして最も不毛な「ギルド間交流会」だった。

 陽奈が淹れてくれた、最高級の玉露(彼女の自腹だ)と、コンビニで買ってきたポテトチップスを囲んで。

 二つのギルドは、そのあまりにも大きな文化の違いを、まざまざと見せつけられることになった。


 アストライアの、戦術分析官を名乗る、眼鏡の青年が、健司に尋ねる。

「…失礼ですが、佐藤マスター。あなたの、あのグランプリでの、あまりにも常識外れの戦術。あれは、どのような理論に基づいているのでしょうか。我々のシミュレーションでは、あの成功確率は、0.001%以下と算出されたのですが」

「はあ…」

 健司は、そのあまりにも的確な質問に、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。

(知るか、そんなもん。全部、こいつらのせいだ)

 彼は、その心の中だけで、悪態をついた。


 その、健司の苦悩を、見透かしたかのように。

 りんごが、その会話に、割り込んできた。

 彼女は、その眼鏡の青年の前に、自らのスキルで生成した、一枚のトランプを、差し出した。

「ねえ、お兄さん。これ、引いてみてよ」

「…は?」

「いいから、いいから!」

 青年は、そのあまりにも無邪気な圧力に負け、おそるおそる、そのカードを引いた。

 その瞬間。

 彼の頭上に、ぽん、と。

 一輪の、可愛らしいタンポポの花が、咲いた。

「…大ハズレだねー」

 りんごの、そのあまりにも無慈悲な一言。

 それに、そのエリートの青年は、ただ呆然と、その頭に咲いた花を、見つめることしかできなかった。


 その、あまりにもシュールな光景。

 それに、輝は腹を抱えて笑い転げ、陽奈は「まあ、綺麗なお花…!」と、その大きな瞳を輝かせている。

 そして、健司。

 彼は、そのあまりにもカオスな光景を前にして、ただ、そのキリキリと痛む胃を、さすることしかできなかった。


 やがて、その奇妙な「お茶会」が、終わりを告げる頃。

 剣崎は、その完璧な笑顔を取り戻し、立ち上がった。

「…いやはや、今日は、本当に有意義な時間でした」

 彼の声は、どこまでも爽やかだった。だが、その瞳の奥には、これまで一度も浮かべたことのない、純粋な「困惑」の色が、宿っていた。

「佐藤マスター。あなたのギルドは、実に…興味深い。我々の、全ての常識が、ここでは通用しないようだ」

 彼は、そう言うと、健司へと、その手を差し出した。

「また、近いうちに、お会いしたい。今度は、もっと、ゆっくりと」

 その、あまりにも意味深な、そしてどこまでもライバルとしての、宣戦布告。

 それに、健司は、ただ深いため息と共に、その手を握り返すことしかできなかった。


 アストライアの一行が、その嵐のような、しかしどこか楽しげな余韻を残して、去っていった後。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、完全に燃え尽きた、一人の哀れな中間管理職の姿だけだった。

 彼は、その場に崩れ落ちるように、椅子に深く身を沈めた。

 そして、その震える声で、呟いた。

「…もう、帰ってくれ…」

 彼の、そのあまりにも切実な、そしてどこまでも人間的な魂の叫び。

 それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

 そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で、その最高のボスへと、言った。

「「「お疲れ様でしたー!」」」

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