第59話 課長の衝動買いと、3500万円の輝き

 その週末。

 ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の一行は、再び上野、アメヤ横丁の喧騒の中にいた。目的は、前回見送った各メンバーの装備更新と、そして何よりも、この新しい時代の熱気を肌で感じること。B級ダンジョンでの死闘、そしてギルド運営という名の面倒な雑務から解放された、束の間の休日だった。


「いやー、やっぱアメ横は最高だね!この、胡散臭い感じがたまんない!」

 星野輝は、そのサイドポニーを揺らしながら、まるで自分の庭を歩くかのように、自信に満ちた足取りで闊歩している。その手には、先ほど屋台で買ったばかりの、巨大なモンスターの串焼きが握られていた。

「はい…!活気があって、すごいです…!」

 天野陽奈もまた、その隣で、目をキラキラと輝かせながら、その混沌とした光景に、感嘆の声を上げていた。

 兎月りんごは、いつものように、世界の理から少しだけズレた視点で、この祭りを楽しんでいた。

 その、あまりにも平和で、そしてどこまでも彼女たちらしい光景。

 それを、佐藤健司(35)は、少しだけ離れた場所から、その口元に穏やかな笑みを浮かべて、見守っていた。

 彼の、サラリーマンとしてのHPは、この数週間の激務で完全にゼロだったが、ギルドマスターとしての、そしてこの少女たちの保護者としての魂は、不思議なほどの充実感に満ちされていた。


 彼らが、武器屋や防具屋が軒を連ねる、ひときわ熱気のある一角へと足を踏み入れた、まさにその時だった。

 輝の、その大きな瞳が、ある一点で、ぴたりと止まった。

 それは、古びた、しかし確かな品揃えを誇る、一軒の武器屋の、そのショーウィンドウだった。

 そこに、一つの、あまりにも異質な輝きを放つ長剣が、静かに、しかし絶対的な存在感を放って、鎮座していた。


「…ボス」

 輝の声は、震えていた。

 それは、いつものようなふざけた響きではない。

 本物の「お宝」を前にした、プロの盗賊の、そして商人の、畏敬の念に満ちていた。

「あれ…見てよ…」

 彼女が指し示した先。

 そこに飾られていたのは、一本の、あまりにも美しく、そしてどこまでも冷たいオーラを放つ、ウォーソードだった。刀身には、まるで氷の結晶そのものを封じ込めたかのような、青白い紋様が走り、その切っ先からは、常に絶対零度の冷気が、陽炎のように立ち上っている。

 そして、その横に添えられた、一枚の値札。

 そこに記された、あまりにも暴力的な数字。


『35,000,000円』


「――ボス、あれ、ボスが使ってる剣の上位互換だよ!買おうよ!!!」

 輝の、その歓喜の絶叫。

 それに、健司は、はっとしたように我に返った。

 彼は、そのショーウィンドウへと、吸い寄せられるように近づいていく。そして、彼のARコンタクトレンズが、その神々の遺産の、その全てを、彼の視界へと映し出した。


 名前:

 冬の慟哭(ふゆのどうこく)

(Winter's Lament)


 種別:

 ウォーソード(War Sword)


 レアリティ:

 ユニーク


 装備要件:

 レベル 46, 筋力 78, 器用さ 78


 効果:


 この剣に、**Lv18の【憎悪のオーラ】**スキルが付与される。


 スキル【憎悪のオーラ】のMP予約コストを、100%削減する。


 自身が展開する【憎悪のオーラ】の効果が15%増加する。


 付近の敵は、冷気耐性 -10%。


 この武器による攻撃は、回避されない。


 フレーバーテキスト:


 憎悪の残響は、静寂に消えた。

 その代わりに訪れたのは、音もなく、全てを凍てつかせる、永遠の冬。


 吹雪は、もはや復讐を叫ばない。

 ただ、そこに在るだけ。

 そして、その中心で、他の全ての温もりは、死に絶える。


「うお、何だこれ…強いな…。欲しいなー」

 健司の口から、素直な、そしてどこまでも純粋な感嘆の声が漏れた。【憎悪の残響】の完全な上位互換。それも、ただの上位互換ではない。オーラの効果を増幅させ、敵の耐性を下げ、そして必中効果まで付与される。これ一本で、彼の、そしてパーティ全体の火力が、別次元へと跳ね上がる。

 彼の、ゲーマーとしての魂が、そのあまりにも甘美な響きに、これ以上ないほど、震えていた。

 だが、その彼の、純粋な欲望。

 それを、あまりにも無慈悲な、そしてどこまでも現実的な数字が、打ち砕いた。


「…3500万円か…」

 彼の声には、深い、深い諦観の色が滲んでいた。

「今の、ギルドの予算で、買えるな…。買って、良いのか…?」

 その、あまりにも人間的な、そしてどこまでも哀れな、リーダーの葛藤。

 それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

 そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で、その最高のボスへと、力強く頷いた。


「良いよ、良いよ!」

 輝が、そのサイドポニーを揺らしながら、言った。

「ボスが強くなるのが、一番の近道だって!あたしたちの装備なんて、後でいいんだから!」

「そうです、健司さん!」

 陽奈もまた、その大きな瞳をキラキラと輝かせながら、続く。

「健司さんが、私達を守ってくれる壁なんですから!その壁が、もっと強くなってくれたら、私達も、もっと安心して戦えます!」

「うんうん!」

 りんごが、その会話に、どこまでもマイペースに、そしてどこまでも力強い、とどめの一撃を、付け加えた。

「ボスが、欲しいなら、買えばいいじゃん?」


 その、あまりにも温かい、そしてどこまでも無責任な(?)、後押し。

 それに、健司は、もはや何も言うことはできなかった。

 彼は、その三人の、あまりにも眩しい笑顔を、一人一人、その目に焼き付けた。

 そして、彼は決断した。

 彼は、その店の、古びた引き戸を、ギシリと音を立てて開けた。


「――じゃあ、買おうかな」

 彼の、そのあまりにも静かな、しかしどこまでも重い一言。

 それに、輝は、ニヤリと笑った。

「そうでなくっちゃ!」

「そうでね。憎悪のオーラが強くなるのは、パーティーにもメリットあるし、買おうか」

 陽奈と、りんごもまた、自分のことのように嬉しそうに、頷いていた。


 店主の、無愛想な親父は、健司が差し出した【冬の慟哭】を一瞥すると、その傷だらけの顔に、わずかな驚きと、そしてそれ以上に大きな、商人の獰猛な笑みを浮かべた。

「…へっ。兄ちゃん、良い目してんじゃねえか。こいつは、掘り出し物だぜ?」

「ああ。分かってる」

 健司は、短く答えた。

 そして彼は、そのあまりにも大きな買い物の、その最後の儀式を、執り行った。

「じゃあ、これ下さい。支払いは、ブラックカードで!」

 彼が、インベントリから取り出した、ギルド発行の、漆黒のカード。

 それが、端末の上を滑る。

 3500万円という、金額が、一瞬で、決済された。

 彼は、その神々の遺産を、まるで壊れ物を扱うかのように、慎重に、しかし確かな手つきで受け取った。

 そして、その剣を、自らのインベントリへと、装備した。

 その瞬間だった。

 彼の、その魂の奥深く。

 一つの、冷たい、しかしどこまでも力強い、絶対零度の奔流が、駆け巡った。


「うお、すげー!持つだけで、力が溢れてくる!」

 彼の口から、これまでにないほどの、純粋な、そしてどこまでも子供っぽい、歓喜の声が漏れた。

 彼は、その場で、剣を数度、振るってみた。

 その、あまりにも軽やかな、そしてどこまでも吸い付くような感触。

「――試し切りしてー!」

 彼の、その魂の叫び。

 それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

 そして、彼女たちは、この日一番の、そしてどこまでも温かい笑い声を、上げた。


「ボスが、そんなに喜ぶなんて、珍しいね」

 輝が、その横顔を、どこか眩しそうに見つめながら、言った。

「買って、良かったね」

「ああ、ありがとう、みんな!」

 健司は、そのあまりにも素直な、そしてどこまでも心からの感謝の言葉を、口にした。

 その、あまりにも温かい、そしてどこまでも尊い光景。

 それに、輝は、少しだけ呆れたように、しかしどこまでも誇らしげに、その結論を、述べた。


「ボスは、高級時計にも、車にも興味ないからね」

「まあ、冒険者は大体、装備に使う人が多いけどさ」

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