第53話 黄昏の港と、ハイストという名の業務改善提案

異空間【黄昏の港町アジール】。

その、三つの月が常に空に浮かび、永遠の夕暮れ時が続く港町の空気は、佐藤健司(35)の荒みきったサラリーマンとしての魂に、ほんのわずかな安らぎと、それ以上に大きな、場違いな感覚をもたらしていた。

酒場『彷徨える魂の停泊所』での、あまりにも豪華で、そしてどこまでも非現実的な無料の食事と、神々の遺産のお披露目会から一夜。ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の四人と一匹は、再びこの世界の最前線へと、その足を踏み入れていた。


「…本当に、やるのか」

健司は、その手に握られた一枚の、古びた羊皮紙を、まるで人生で最も重要な稟議書でも見るかのように、真剣な、そしてどこまでも不安げな表情で見つめていた。

【計画書:忘れられた貴族の宝物庫(難易度:D)】。

星野輝が、昨夜のうちにアジールの情報屋から50万円で仕入れてきた、彼らの最初の「ハイスト」への挑戦権だった。


「当たり前じゃん、ボス!」

輝は、そのサイドポニーを揺らしながら、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「初期投資60万(アジールへの渡航証10万+計画書50万)で、リターンは最低でも150万!こんなに割りのいいビジネス、他にないって!」

彼女の、そのあまりにも楽観的な、そしてどこまでも商魂たくましい言葉。それに、健司は深いため息をついた。

(…成功すれば、な)

彼の、中間管理職として長年培ってきたリスク管理能力が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。失敗すれば、60万円が、一瞬で消し飛ぶ。彼の、数ヶ月分の手取りに匹敵する金額だ。


「大丈夫ですよ、健司さん!」

陽奈が、その大きな瞳で、心配そうに彼の顔を覗き込んできた。

「みんなで力を合わせれば、きっと成功します!」

「うんうん!なんとかなるって!」

りんごもまた、その隣で、どこまでもマイペースに、しかし力強く頷いた。

その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも無責任な、少女たちの信頼。

それに、健司はもはや、何も言うことはできなかった。

彼は、観念したように、その羊皮紙をインベントリへとしまい込んだ。

そして、彼はその三人の、あまりにも手のかかる「部下」たちへと、そのリーダーとしての、最初の、そして最も重要な指示を、下した。


「――いいか、お前ら」

彼の声は、低く、そしてどこまでも真剣だった。

「ハイストは、隠密行動が基本だ。だから、これより先、私語は一切禁止する。全てのコミュニケーションは、パーティチャットで行う。いいな?」

彼は、そのあまりにも騒がしい少女たちが、作戦中に「見て見てー!キラキラした宝石ー!」などと叫び出し、全ての警備を呼び寄せる未来を、完璧に予測していた。

「おいお前ら、おしゃべりし過ぎて見つかるのはアホだから、静かにチャットするぞ」

「「「了解!」」」

三人の少女たちの、そのあまりにも元気な返事(チャットで)が、彼のARウィンドウに、同時に表示された。

その光景に、健司は再び、深いため息をつくしかなかった。



彼らが、アジールの中心部にあるハイスト専用の転移ステーションへとたどり着き、その計画書をコンソールにセットすると、目の前に緑色の、どこか不安定に揺らめくポータルが開かれた。

四人と一匹は、顔を見合わせ、そして頷き合うと、その未知なるテーブルへと、その一歩を踏み出した。


ぐにゃり。

視界が、空間が、そして時間そのものが歪む。

ゼリー状の冷たい膜を通り抜けるような、不快な感覚。

そして、次の瞬間。

彼らの五感を支配したのは、ひんやりとした石と、乾いた土の匂い、そしてどこまでも続く静寂だった。

そこは、古びた石造りの地下へと続く、長い、長い階段だった。


彼らが、その階段を降りきった、その先に。

一人の男が、その姿を現した。

無精髭を生やし、使い古された革鎧に身を包んだ、屈強な男。その目つきは鋭いが、どこか人の良さそうな光を宿している。

ギデオン。

ハイストミッションに同行する、NPCの錠前師だった。


「おう。お前らが、今回の冒険者か。よろしくな」

その、あまりにもフランクな挨拶。

それに、健司は軽く会釈を返した。

ギデオンは、その健司たちの、あまりにもちぐはぐな(中年男性一人と、女子高生三人という)パーティ構成を一瞥すると、その眉をひそめた。

「…おいおい、マジかよ。今回は、ピクニックの引率でもあるのか?」

その、あまりにも失礼な、しかしどこまでも的を射た一言。

それに、輝が即座に噛みついた。

『はぁ!?誰に向かって言ってんのよ、このオッサン!』

パーティチャットに、怒りのメッセージが流れる。

だが、健司はそれを手で制した。

『輝、やめろ。今は、集中しろ』

彼は、ギデオンへと向き直ると、そのビジネスマンとしての、完璧な営業スマイルで言った。

「ええ、まあ。少し、変わった構成かもしれませんが、腕は確かですよ。ご心配なく」


その、あまりにも落ち着き払った、そしてどこまでも自信に満ちた(ように見える)態度。

それに、ギデオンはふんと鼻を鳴らした。

「…まあ、いい。だが、足手まといになるなよ」

彼は、そう吐き捨てると、その強盗NPCの案内で、どんどん進んでいく。

「ついて来な」と、その背中を向けた。

彼の、そのあまりにもプロフェッショナルな、そしてどこまでも無駄のない動き。それに、健司たちは、息を殺してついていった。


そこは、ひんやりとした石と、乾いた土の匂いに満ちた、地下回廊だった。

壁には、等間隔に松明が掲げられ、その頼りない炎が、どこまでも続く通路の闇を、ぼんやりと照らし出している。空気は重く、淀み、彼らの耳に届くのは、自らの心臓の鼓動と、先導するギデオンの革鎧が擦れる音だけだった。

彼らが、最初の角を曲がった、その時だった。

通路の先に、一つの木製の扉が見えた。

その扉の前には、二体の屈強な警備兵が、巨大な戦斧を手に、微動だにせず立っている。


『ボス、どうする?』

輝からの、チャット。

『正面から、突っ込む?』

『馬鹿を言え』

健司が、即座に返す。

『セオリー通り、迂回する。ギデオンさん、何かルートは?』

『…ほう。話の分かる奴で、助かるぜ』

ギデオンは、そのチャットでのやり取りに、少しだけ感心したように、壁のわずかな窪みを指し示した。

『あそこに、通気口がある。あれを使えば、あの部屋を迂回できる』

彼らは、音を殺しながら、その暗く埃っぽいダクトの中を、這うようにして進んでいった。


数分後。

彼らが、別の通気口から顔を出すと、そこは警備兵がいた部屋のすぐ隣の、小さな倉庫だった。

そして、その倉庫の中央。

そこに、それは静かに置かれていた。

古びた、木製の宝箱。


『…ボス!お宝!』

輝の、その欲望に満ちたチャット。

それに、健司は、その中間管理職としての、完璧なリスク分析能力で、答えた。

『ダメだ。開けるな』

『なんでだよ!』

『今回の目的は、あくまでミッションの完遂だ。道中の宝箱は、警戒レベルを上げるだけのリスク要因でしかない。無視する』

その、あまりにも冷静で、そしてどこまでも正しい判断。

それに、輝は不満そうに、しかしどこまでも渋々と、従った。

そのやり取りを、ギデオンは、その鋭い瞳で、静かに観察していた。

そして、彼の口元に、初めて、わずかな笑みが浮かんだ。

(…ほう。面白いな、この中年)

(ただの、ひよっこの引率じゃねえらしい)


そうこうして、会話してるうちに。

彼らは、ついにこの施設の最深部へとたどり着いた。

そこは、広大な宝物庫だった。

金銀財宝が山のように積まれ、その中央には、ひときわ豪華な装飾が施された、巨大な一番奥の宝箱が鎮座していた。


「…着いたな」

ギデオンが、言った。

「こいつが、本日のメインターゲットだ」

『よし、開けてくれ』

健司が、チャットで指示を出す。

ギデオンは、その錠前師としての本領を発揮し始めた。彼は、宝箱に仕掛けられたいくつもの複雑な罠を、まるで楽器でも奏でるかのように、滑らかな指使いで、次々と解除していく。

そして、数分後。

カチリという小さな音と共に、宝箱の重い蓋が開かれた。

その瞬間。

まばゆい黄金の光が溢れ出し、大量のドロップ品が落ちる。

おびただしい数のB級、A級の魔石。

そして、いくつかの高価なクラフト用オーブと、スキルジェム。

それは、まさに宝の山だった。

健司が、それらを夢中でインベントリへと収納していく。


「よし、回収完了」

その彼の一言を、合図にしたかのように。

宝物庫全体に、けたたましい警報音が鳴り響いた。

ウウウウウウウウウウウウッ!

部屋の全ての扉が、ガシャンという重い音を立てて、閉ざされていく。

強制的な、ロックダウンモード。

そして、その閉ざされた扉の向こう側から。

おびただしい数の警備兵たちが、なだれ込むように出現し始めた。

敵が、どんどん湧いてくる。

だが、その光景に、健司はもはや何の動揺も見せなかった。

彼は、そのARウィンドウで、先ほど回収したアイテムの市場価格を、瞬時に計算していたのだ。

そして、その表示された数字に、彼の、サラリーマンとしての魂が、歓喜の絶叫を上げた。

(…150万…!)

彼の脳内で、そろばんが弾かれる音がした。

(いや、待てよ…)

彼の視界の隅で、輝の、その小さな体が、淡い、しかし確かな幸運の光に包まれている。

複製。

【幸運は二度ベルを鳴らす】が、発動していた。

ドロップしたアイテムの、一部…価値にして約30万円分の魔石が、もう一つ、彼のインベントリに、追加されていたのだ。

ボス複製スキルで180万円の収入だよ、と喜ぶ3人。


『やったー!複製成功!』

輝の、歓喜のチャット。

『これで、180万円!投資回収、余裕じゃん!』

『すごい!』

陽奈と、りんごの、祝福の言葉。

その、あまりにも平和な、そしてどこまでも金に汚れた会話。

それを、ギデオンは、呆れたように、そしてどこか楽しそうに、聞いていた。

そして、健司。

彼は、その180万円という、あまりにも美しい数字に、一瞬だけ、恍惚とした表情を浮かべた。

だが、彼はすぐに、その中間管理職としての、厳しい現実へと、その意識を引き戻した。


「よし、脱出だ!行くぞ!」

「「「おー!」」」

と言いながら、早く逃げろ!とみんなで脱出する。

二人は、慌てて逃げ始めた。

来た道を、全力で引き返していく。

彼らの後ろから、無限に湧いてくる警備兵たち。

その数は、あまりにも多い。

敵が湧いてくるが、無視して突っ切る。

彼らは、ただひたすらに出口を目指して、駆け抜けていく。

そして、ついに彼らは、地上へと続く最後の階段の前に、たどり着いた。

だが、そこはすでに十数体の屈強な警備兵たちによって、封鎖されていた。


「…チッ、面倒くせえ」

健司は、舌打ちした。

『ギデオン!お前は、下がってろ!』

『おう!』

「前方に敵、俺が仕留める!」

健司は、その警備兵たちの壁へと、正面から突撃した。

そして、彼は叫んだ。


「――じゃまだ!」


彼の必殺技、衝撃の一撃!

【必殺技】衝撃波の一撃。

ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!

その、圧倒的な質量の暴力。

それに、警備兵たちの壁は、まるで紙切れのように一掃され、吹き飛ばされた。

そして、開かれた一本の道。

「よし、仕留めた!逃げるぞ!」


彼らは、その道を一気に駆け抜けていく。

入口まで戻り、階段を駆け上がる。

だが、その最後の、最後の出口の前で。

それは、いた。

「ボスが出たー!」

輝が、絶叫した。

一体の、ひときわ巨大な、そしてどこか威厳のある、鉄のゴーレム。

ハイストの、最後の番人だった。

その、あまりにも絶望的な光景。

だが、その絶望を、一つの、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも理不尽な一言が、粉砕した。


「りんご、頼む!」

健司の、その信頼に満ちた叫び。

「あいよー!」

りんごが、その手に持つ星のワンドを、まるでテレビのリモコンでもいじるかのように、気楽に、そして暢気に、ゴーレムへと向けた。

そして彼女は、そのストックしていた、最後の、そして究極の奇跡を、解き放った。

【超・火炎球】。

ワンパンだった。


「ナイスー!じゃ、走れ走れ!」

輝の、その歓喜の絶叫。

彼らは、その光の粒子となって消えゆくボスの残骸を、横目に、最後の階段を駆け上がった。

そして、ついに彼らは、地上へとその身を躍り出た。

外に出て、脱出完了!


「…ふぅ。終わったな」

健司は、安堵の息を吐いた。

その、あまりにも鮮やかな、そしてどこまでもハチャメチャな、初陣。

それに、ギデオンは、腹を抱えて笑っていた。

「はっはっは!面白いな、あんたたちは!最高の、ショーだったぜ!」

彼は、そう言うと、その場に緑色のポータルを開いた。

「じゃあ、またな」

彼は、そのポータルをくぐり、アジールへと戻っていった。

後に残されたのは、四人と一匹だけだった。

彼らは、顔を見合わせた。

そして、その顔には、これ以上ないほどの、達成感が満ち溢れていた。


「よし」

健司は、その疲弊しきった、しかしどこまでも満足げな顔で、言った。

「あと3回、やるぞ」

その、あまりにも無謀な、そしてどこまでも中毒性の高い宣言。

それに、三人の少女たちは、この日一番の、そしてどこまでも無邪気な歓声を、上げた。

「えいえいおー!」

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