第51話 孤独な夜と、睡蓮の貌

月曜日の夜。

佐藤健司(35)は、一日の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、ようやく自らの聖域…西新宿のタワーマンションの、その広すぎるリビングへと帰還した。

彼は、玄関で窮屈な革靴をまるで脱ぎ捨てるように蹴り飛ばし、首を締め付けていたネクタイを乱暴に引き抜いた。ソファへと、その疲弊しきった体を投げ出す。

しん、と静まり返った部屋。

聞こえてくるのは、高性能な空気清浄機の、静かな運転音だけ。


「…はぁ」

彼は、深く、そして重い息を吐いた。

その静寂が、彼の疲弊しきった魂に、わずかな安らぎと、そしてそれ以上に大きな、どこか所在のない空虚さをもたらしていた。


ポポンッ!という、間の抜けた効果音と共に。

彼の目の前の、何もない空間に、一体の奇妙な生命体が、現れた。

頭に小さな冒険者のヘルメットをかぶった、デフォルメされたピンク色のタコ。フロンティア君だった。


「お帰りだッピ!健司!」

その、あまりにも甲高く、そして元気いっぱいの声。

それに、健司は、その死んだ魚のような目で、ゆっくりと顔を上げた。

「…ああ」

彼は、そのあまりにも短い返事の中に、隠しきれない疲労の色を滲ませながら、部屋の中を見渡した。

ソファの上には、いつも散乱しているはずのスナック菓子の袋がない。床から天井まで続く巨大な窓ガラスには、りんごが描いたはずの下手なウサギの絵がない。そして何よりも、彼の聖域であったはずのフィギュア棚に、少女たちの制服のジャケットが無造作にかけられていない。

あまりにも、綺麗すぎる。

あまりにも、静かすぎる。


「あれ?お前だけか?あいつらは、今日来てないのか?」

健司の、その何気ない一言。

それに、フロンティア君は、その8本の足を、もにゅもにゅと動かしながら、答えた。

「うん、珍しく今日は来てないッピ!陽奈は、学校の補習があるって言ってたッピ!輝は、新しいビジネスのアイデアを思いついたから、アメ横で市場調査するって言ってたッピ!りんごは…『今日は、なんだか眠い気分だから、帰るー』って言ってたッピ!」


その、あまりにも自由奔放な、そしてどこまでも彼女たちらしい、それぞれの理由。

それに、健司は、ふっと息を吐き出した。

そして彼は、そのあまりにも静かすぎるリビングで、ぽつりと、その心の底から漏れ出た、あまりにも素直な一言を、呟いた。

「…うーん。すっかり、いるものだと思ってたからな。なんか、言いにくいが…寂しいな」


その、あまりにも珍しい、そしてどこまでも人間的な、彼の本音。

それに、フロンティア君の、その大きな瞳が、これ以上ないほど、キラキラと輝いた。

「寂しいッピ?」

「…ああ。寂しいな」

健司は、苦笑いを浮かべた。

「いつの間にか、誰かが迎えてくれるのが、当たり前になってたみたいだな」


その、あまりにも穏やかな、そしてどこまでも温かい、自己分析。

それに、フロンティア君は、最高の、そしてどこまでも悪魔的な提案を、そのテーブルへと叩きつけた。

「そうだッピ?じゃあ、呼べばいいッピ!」

「いや、いいよ。たまには、静かに過ごせるしな」

健司は、そのあまりにも魅力的な提案を、最後の理性を振り絞って、拒絶した。

そうだ。

たまには、こういう日も、悪くない。

一人の、静かな夜。

彼が、その失われた平穏を、噛みしめようとした、まさにその時だった。


「そうだッピ!」

フロンティア君が、まるで最高のニュースを思い出したとでも言うかのように、そのピンク色の体を輝かせた。

「健司!朗報だッピ!君が、前に僕に丸投げしていた、『プラス・アルファ・フロンティア制度』の申請が、済んだッピ!」

「ほう」

「うん!君の、B級としての数々の輝かしい活躍が認められて、税金の満額免除が、決定したッピ!」

「おお!」

「それだけじゃないッピ!なんと、この免除は、過去2年間まで遡って適用されるから、莫大な還元金が、君の口座に振り込まれるッピ!」


その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも甘美な、吉報。

それに、健司の、その死んだ魚のようだった目に、ほんの少しだけ、生気が宿った。

「おっ、そいつは良いな。さすが、お前だ。フロンティア君に丸投げして、正解だったな」

彼の、そのあまりにも素直な、そしてどこまでも上から目線な賞賛。

それに、フロンティア君は、これ以上ないほど、誇らしげに、その胸を張った(ように見えた)。

健司は、その場でソファから立ち上がった。

そして、その顔には、これまでにないほどの、晴れやかな笑みが浮かんでいた。

「そうだな。今日は、外に飲みにでも行くか。たまに、外で一人飲みも、悪くない」


その、あまりにも人間的な、そしてどこまでも哀愁に満ちた、決断。

それに、フロンティア君は、最高の笑顔で、応えた。

「それは、いいッピ!」



新宿、歌舞伎町の、喧騒から少し離れた路地裏。

赤提灯が、どこか懐かしい光を投げかける、古びた居酒屋。

その、引き戸を、健司は、おそるおそる開けた。


「すみません、一人ですが、良いですか?」

「ええ、良いですよ!お客様、1名様、入りましたー!」


威勢のいい、しかしどこか温かい店員のコールに迎えられ、彼はカウンターの、一番奥の席へと、その身を滑り込ませた。

そして彼は、その日の、最初の、そして最高の儀式を始めた。

生ビールと、枝豆。

キンキンに冷えたジョッキが、テーブルに置かれる。

彼は、その黄金色の液体を、一気に、その喉へと流し込んだ。

「…ぷはぁーっ!」

彼の、その魂の叫び。

それが、彼の、ささやかな、しかし完璧な夜の始まりを告げる、合図となった。


彼は、カウンターの隅で、一人静かに、酒を飲み始めた。

彼の視界の隅では、フロンティア君が、AR表示で、ふわふわと浮いている。


「それで、フロンティア君。ギルドの進捗は、どうなってる?」

健司は、その日々の業務報告を、まるで部下に求めるかのように、その有能な秘書へと、尋ねた。

「うん!リフト計画、どれだけ進んでる?」

「80%は消化して、現在の純利益は、5000万円を超えたッピ!やっぱり、輝の複製スキルが、チートだッピ!」

その、あまりにも順調な、そしてどこまでも規格外な報告。

「レベルも、みんな45に到達してるので、アジールにいけるようになるのは、あとレベル1ッピ!」

「ほう」

「これで、安定して金策100万円が、毎日ゲット出来るッピ!輝の複製スキルが、これにも効力があるなら、その利益率は、倍になるッピ!」


その、あまりにも壮大な、そしてどこまでも現実的な、未来への展望。

それに、健司は、ただ静かに、頷いていた。


彼が、その二杯目のビールを、飲み干そうとしていた、まさにその時だった。

彼の隣の席に、一つの、あまりにも場違いな影が、音もなく、腰を下ろした。


一人の、あまりにも美しい青年だった。

月光をそのまま編み込んだかのような、流れるような銀髪。

その身を包んでいるのは、どこかのトップギルドの特注品であろう、機能美と気品を兼ね備えた、白銀の軽鎧。そして何よりも、その顔立ち。

まるで、古の彫刻家が、その魂の全てを込めて削り出したかのような、完璧な造形。

だが、その青い瞳の奥には、遊び人のような軽やかさと、全てを見透かすかのような、鋭い知性が、同居していた。

イケメン。

その、あまりにも陳腐な言葉でしか形容できないほどの、完璧なイケメン。

彼は、その完璧な顔に、人懐っこい笑みを浮かべて、続けた。


「どうも。『アフターファイブ・プロジェクト』の、佐藤健司さん、ですよね?いやー、偶然だなぁ」

その、あまりにも滑らかで、そしてどこまでも親しげな声。

それに、健司は、その手に持っていたジョッキを、落としそうになった。

「…どうも」

彼は、なんとか、その一言だけを、絞り出した。

「いやー、たまたま飲みに来て、帰ろうと思ったら、有名人がいるんだもん。ビックリしましたよ」

「…有名人、なんですか、俺?」

健司の、その素直な問い。

それに、青年は、心の底から楽しそうに、笑った。

「ええ、もちろん。『アフターファイブ・プロジェクト』は、今、最も注目のギルドですからね。ご活躍は、かねがね聞いてますよ」

彼は、そこで一度言葉を切ると、その完璧な笑顔で、言った。

「おっと、一人で飲んでた所、すみませんね。じゃあ、俺はこれで、行きますね。頑張って下さいね!」


彼は、そう言うと、風のように、その場を立ち去っていった。

後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、そのあまりにも非現実的な遭遇に、ただ呆然と立ち尽くす、一人の哀れな中年男性だけだった。

彼は、その隣でふわふわと浮遊する、ピンク色のタコへと、その魂の全てを込めて、呟いた。

「…いやー。俺も、有名人になった物だな」

その、あまりにも人間的な、そしてどこまでも哀れな一言。

それに、フロンティア君は、最高の笑顔で、応えた。

「そうだッピね!」

笑い合う、一人と一匹。



その、あまりにも平和な光景の、そのすぐ裏側で。

世界の、歯車は、静かに、そして確実に、回り始めていた。

あのイケメンは、会計を済ませて外に出て、路地裏に入る。

そして、彼はその指に嵌められた、一つの、指輪に、そっと触れた。

そして、指輪を触ると、瞬時に銀髪の美少女に変化する。服装も、女性向きの装備に変わる。

彼女は、そのあまりにも美しい顔に、一切の感情を浮かべることなく、その懐から、一つのスマホを取り出した。

そして、どこかに電話する。


「――こちら、睡蓮。警護対象と、接触しましたわ」

彼女の、その透き通るような、しかしどこまでも無機質な声。

それに、スマホの向こう側から、一つの、どこまでも穏やかで、しかし絶対的な王者の風格を宿した声が、答えた。

『うむ。どうだった』

「B級相当には、強いですわ。とはいえ、SSS級持ちとしては、まだまだですね」

『そうか』

「今後も、私が警護で、良いですか?」

『ああ、そうだ。同じSSS級の、睡蓮。お前に、任せる』

「分かりましたわ。では」


彼女は、そう言うと、一方的に電話を切る。

そして、彼女は夜の闇の中へと、その姿を、完全に溶け込ませていった。

彼女の、そのあまりにも静かで、そしてどこまでも孤独な、任務の始まり。

それを、西新宿の、月だけが、静かに、そしてどこまでも優しく、照らし出していた。






【アニマとアニムスの円環】

[画像:一本の白金の線と、一本の黒金の線。その二つが、互いを求め、そして補い合うかのように、完璧な二重螺旋を描きながら一つの輪を形成している指輪のイメージ。その表面には、継ぎ目が一切存在しない。]


名前:

アニマとアニムスの円環(えんかん)

(The Circlet of Anima and Animus)


レアリティ:

神話級 (Mythic-tier)


種別:

アーティファクト / 変容の指輪 (Artifact / Ring of Transfiguration)



効果:

この指輪を身に着けた者は、自らの魂が持つ二つの側面…すなわち『男性性』と『女性性』を、完全に、そして自在に、その肉体へと顕現させることができる。


術者の意志に応じて、その肉体は、遺伝子レベルから完全に再構築される。

身長、骨格、声、そして全ての生殖機能に至るまで、その変化は、神々の創造の御業と何ら変わるところのない、完璧なものとなる。

この変容は、術者が望む限り維持され、そしてまた、術者が望めばいつでも、もう一つの性の姿へと、瞬時に回帰することができる。


ただし、この変化は術者の魂の本質を変えるものではなく、あくまでその「器」としての肉体を、もう一つの可能性の姿へと変えるものに過ぎない。


フレーバーテキスト:


英雄は、男の目で世界を断罪し、

聖女は、女の心で世界を憂いた。


だが、彼らは、その半分の真実しか、知ることはない。


この円環を指にはめた者だけが、知る。

愛することの本当の意味を。

そして、愛されることの、本当の痛みを。




名前:

自在じざい仮面かめん

(じざいのかめん)

(The Visage of Freedom)


レアリティ:

神話級 (Mythic-tier)


種別:

アーティファクト / 概念偽装具 (Artifact / Conceptual Disguise Tool)


効果:

この仮面を所有する者は、自らの「存在情報」を、世界の理そのものから完全に切り離し、再定義することができる。


レベル50以上の術者は、この仮面を介して、自らのステータス、スキル、パッシブツリー、さらにはユニークスキルに至るまで、完璧に偽装した仮想のビルドを構築することが可能となる。

術者は、自らをレベル1の初心者であると偽装することも、あるいは全く別のクラスのA級探索者であると偽装することもできる。


この偽装は、単なる幻術や魔法的な干渉ではない。世界のデータベースそのものを書き換える、因果律へのハッキングである。

したがって、この偽装は、いかなる鑑定スキルや、神話級の洞察能力をもってしても、絶対に見抜くことはできない。


フレーバーテキスト:


王は、その顔に刻まれた威厳を誇った。

英雄は、その身に受けた無数の傷跡を誇った。

賢者は、その瞳に宿る深い叡智を誇った。


だが、その全ては、あまりにも重すぎる、ただの「役割」という名の、牢獄。


真の自由とは、何者にでもなれることではない。

いつでも、「何者でもない者」へと還れることだ。


さあ、仮面をつけろ。

そして、思い出せ。

ただの自分として、この世界で遊んだ、あの最初の日のことを。

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