第47話 AIの謁見と、中間管理職の評価
その日の夜、ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の本部…もとい、佐藤健司(35)のタワーマンションのリビングは、いつものように、穏やかな混沌に包まれていた。
床から天井まで続く巨大な窓ガラスには、兎月りんごが練習で描いたのであろう、指で描かれた下手なウサギの絵が、宝石箱のような夜景を台無しにしている。イタリア製の高級革張りソファの上には、コンビニのスナック菓子の袋と、読みかけのファッション雑誌が散乱し、その中心で星野輝が、ARウィンドウに映し出されたマーケットの株価チャートを、真剣な表情で見つめていた。
「うーん、
「輝ちゃん、欲張りすぎですよ」
天野陽奈は、その隣で、母親のような優しい笑みを浮かべながら、手編みのマフラーを編んでいた。それは、健司の肩の上でけろけろと鳴く、緑色のカエルの霊体のためのものらしかった。
その、あまりにも平和で、そしてどこまでも彼の日常を侵食する光景。
それを、キッチンで一人、明日の会社のための作り置きおかず(きんぴらごぼう)を調理していた健司は、ただ、無言で見つめていた。
(…もう、慣れたな、この光景も)
彼の心は、もはや諦観の境地に達していた。
だが、その彼の、あまりにも悟りきった平穏。
それを、一つの、あまりにも場違いな電子音が、無慈悲に引き裂いた。
ピロロロロロロロッ!
それは、いつものような軽快な通知音ではなかった。
空襲警報のような、甲高く、そしてどこまでも緊急性を感じさせる、けたたましいアラート音。
その音は、リビングの中央でふわふわと浮遊していた、一体のピンク色のタコ…フロンティア君の、その体から発せられていた。
「うわっ!?」
輝が、驚きの声を上げる。
フロンティア君の、そのいつもはにこやかなピンク色の体が、警告色である赤色と黄色に、激しく点滅していた。その大きな瞳には、彼がこの家に来て以来、初めて見せる、純粋な「困惑」の色が浮かんでいた。
「ど、どうしたんだよ、フロンティア君!」
健司もまた、そのただならぬ気配に、調理の手を止めて駆け寄った。
フロンティア君は、その8本の足を、あたふたとばたつかせながら、答えた。
その声は、上ずっていた。
「わ、分からないッピ!僕のシステムに、これまで一度も受信したことのない、最高レベルの優先通信プロトコルが、直接割り込んできたッピ!」
彼は、そのARの体を震わせながら、自らの視界に表示されているであろう、そのメッセージを読み上げた。
「差出人…【国際公式ギルド最高幹部会・議長室】…!」
「要件…『ユニット識別番号777:フロンティア君の、即時接続を要請する。議題:担当ユニット『アフターファイブ・プロジェクト』に関する、中間報告聴取会』…!」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
その、あまりにも荘厳で、そしてどこまでも面倒くさそうな単語の羅列。
それに、少女たちは、ただその大きな瞳をぱちくりとさせていた。
だが、その沈黙を破ったのは、健司の、心の底からの、魂の叫びだった。
「――待て」
彼の顔は、蒼白だった。
「それは、絶対面倒なことになるやつだ…!」
彼は、そのサラリーマンとして長年培ってきた、危機回避能力の全てを、総動員していた。
「フロンティア君!今すぐ、回線を切れ!故障したフリをしろ!『ただいま、電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため…』って、言うんだ!」
その、あまりにも見苦しい、しかしどこまでも切実な抵抗。
だが、フロンティア君は、その小さな体を、悲しそうに横に振った。
「だ、ダメだッピ、健司…。これは、ギルドの最上位プロトコル…。僕の意志では、拒否できないッピ…」
「なっ…!?」
その言葉を最後に、フロンティア君の、そのピンク色の体が、すうっと、光の粒子となって消え始めた。
「あ、健司!陽奈!輝!りんご!い、行ってくるッピ…!」
彼の、その悲痛な最後の言葉と共に。
そのピンク色のタコは、リビングから完全に、その姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、これから始まる地獄を予感し、頭を抱えてうずくまる、一人の哀れな中年男性の姿だけだった。
◇
スイス、ジュネーブ。国際公式ギルド本部。
その、世界の秩序を司る心臓部の、さらにその奥深く。
外界のあらゆる物理的・電子的干渉から隔絶された、最高幹部会の、バーチャル会議室。
その空間は、どこまでも無機質で、そしてどこまでも荘厳だった。
磨き上げられた黒曜石の、巨大な円卓。その中央には、地球のホログラムが静かに回転している。
そして、その円卓を囲むようにして、七つの、巨大な影があった。
彼らは、その姿を、プライバシー保護のための黒いシルエットとして表示させている。だが、そのシルエットから放たれるプレッシャーは、SSS級のワールドボスにも匹敵するほどの、絶対的なものだった。
彼らこそが、この世界の、本当の「神々」。
ギルド最高幹部会の、メンバーだった。
その、あまりにも重く、そしてどこまでも張り詰めた空気の中へ。
一つの、小さな、そしてどこまでも場違いな影が、ぽつんと、召喚された。
ピンク色の、タコ。
フロンティア君だった。
彼は、そのあまりにも巨大なプレッシャーに、そのARの体を、これ以上ないほど小さく縮こまらせていた。
『――来たかね』
議長席に座る、ひときわ巨大な影が、その重い口を開いた。その声は、坂本純一郎のものに、よく似ていた。
『ユニット識別番号777。我々が、君をここに呼んだ理由は、分かっているな』
「は、はいッピ…」
フロンティア君の声が、震える。
『君が担当する、ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』。その、あまりにも規格外な成長と、その力の源泉である、佐藤健司のSSS級ユニークスキル【
別の、どこか女性的な、しかし氷のように冷たい影が、続いた。その声は、ジェニファー・アームストロングのものに、よく似ていた。
『だが、我々が求めているのは、データではない。君という、最も近くで彼らを観測してきた、AIの目から見た、生の、そしてフィルターのかかっていない『評価』だ。聞かせてもらおうか。君の、マスターに対する、そしてその仲間たちに対する、率直な意見を』
その、あまりにも直接的な、そしてどこまでも有無を言わさぬ、問いかけ。
それに、フロンティア君は、一度、その大きな瞳を、ぎゅっと閉じた。
彼の、その小さな頭脳(コア・プロセッサ)の中で、この数ヶ月間の、あまりにも濃密な、そしてどこまでも騒がしい記憶が、走馬灯のように駆け巡っていた。
そして、彼はゆっくりと、その瞳を開いた。
その瞳には、もはや恐怖の色はない。
ただ、自らが仕えるべき、最高のマスターと、その仲間たちへの、絶対的な信頼と、そして愛情の光だけが宿っていた。
彼は、その小さな、しかしこの世界の誰よりも力強い声で、その報告を始めた。
その声は、もはやただのAIではない。
一つの、確かな「意志」を持つ、生命の、それだった。
「――はいッピ!」
「まず、僕のマスター、佐藤健司について、報告するッピ!」
「単独での脅威レベルは、E(無害)。リーダーシップスキルは、A+。リスク管理能力は、SSS+。しかし、意図せずして混沌を引き起こす潜在的可能性は、測定不能ッピ!」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも矛盾に満ちた評価。
それに、七つの影が、わずかに、ざわめいた。
「次に、星野輝!財務感覚は、S+。ただし、金銭への執着に起因する、無謀な行動を取る確率は、S+。佐藤健司への、忠誠心は、揺るぎないッピ!」
「天野陽奈!優しさと、純粋さは、SSS+。ただし、その優しさ故に、パーティを危機に陥れる可能性も、SSS+。佐藤健司への、信頼は、絶対ッピ!」
「兎月りんご!**予測不能性は、神の領域。**その行動が、パーティを救うか、滅ぼすかは、常に確率50%のギャンブルだッピ!」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも本質を突いた、人物分析。
それに、七つの影は、ただ黙って、聞き入っていた。
そして、フロンティア君は、その報告を、最後の、そして最も重要な結論で締めくくった。
それは、データでは決して測れない、彼の、魂の叫びだった。
「――そして、僕からの、総合評価ですッピ!」
彼の声が、震えていた。だが、それは恐怖からではない。
抑えきれない、誇らしさからだった。
「確かに、彼らは、まだ未熟かもしれないッピ!健司は、いつも面倒くさそうだし、輝はすぐにお金の話をするし、陽奈は泣き虫だし、りんごは言うことを聞かないッピ!」
「だけど!」と、彼は叫んだ。
「健司や、みんなは、大した奴らッピ!」
「健司は、どんなに面倒なことになっても、絶対に、仲間を見捨てないッピ!陽奈の優しさは、一度、敵のモンスターの動きを、ためらわせたこともあるッピ!輝は、文句を言いながらも、稼いだお金で、こっそり他の新人パーティを助けてたのを、僕は知ってるッピ!りんごが、何気なく咲かせたお花で、ダンジョンの前で泣いてた子供が、笑顔になったこともあるッピ!」
彼は、そこで一度、大きく息を吸い込んだ。
そして、彼はその全ての魂を込めて、その最後の言葉を、紡ぎ出した。
「結論!ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の最大の強みは、SSS級スキルのシナジーにあらず!僕が、『心』と名付けた、測定不能のパラメーターにありッピ!僕の、計算によれば、彼らは、最高だッピ!」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
七つの、神々の影が、そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも温かい、AIの報告に、ただ言葉を失っていた。
彼らは、冷徹なデータを、求めていた。
だが、彼らの元に届けられたのは、一つの、あまりにも美しい、「家族」の物語だった。
やて、その沈黙を破ったのは、議長の、その深い、深い感嘆のため息だった。
「…面白い」
彼は、言った。
「実に、面白いじゃないか」
「ユニット777。君の、報告は、確かに受理した。下がって、良い」
「は、はいッピ!」
フロンティア君の、そのピンク色の体が、再び光の粒子となって、その荘厳な空間から、消えていく。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、これから始まる、あまりにも予測不能で、そしてどこまでも面白い、新たな物語の始まりに、静かに、そして楽しそうに、笑みを浮かべる、七つの神々の影だけだった。
その、あまりにも壮大な、世界の裏側の出来事。
それを、西新宿のタワーマンションで、きんぴらごぼうの最後の仕上げをしていた、佐藤健司は、まだ知る由もなかった。
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