第45話 課長、迷子を助ける
金曜日の夜。
佐藤健司(35)は、一週間の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、ようやく自らの聖域…西新宿のタワーマンションの、その広すぎるリビングへと帰還した。
だが、その聖域は、もはや彼の安息の地ではなかった。
「ボスー!あたし、この新しいネイル、どう思う?超イケてない!?」
「健司さん、今日の夕食は、私が新しく覚えたボルシチです!たくさん食べてくださいね!」
「ねえねえ、健司さん、このカエルのペットに、王冠の飾りつけたいんだけど、ポイント貸してー!」
「健司!今日のギルド収支報告書、まだ出てないッピ!早く提出するッピよ!」
三人の女子高生と、一匹のARマスコット。
その、あまりにも暴力的で、そしてどこまでも日常的な、情報の洪水。
それに、健司は、その手に持っていたビジネスバッグを、ばたりと床に落とした。
彼の、サラリーマンとしてのHPは、すでにゼロだった。
(…はぁ)
彼は、深く、そして重い息を吐いた。
(一人に、なりたい…)
その、あまりにも切実な、そしてどこまでも小さな願い。
彼は、その願いを叶えるため、一つの完璧な「言い訳」を、その場で捻り出した。
「…ああ、悪い。ちょっと、ギルドの備品が足りなくなったのを思い出した。俺が、一人でF級ダンジョンにでも行って、素材を集めてくる」
彼の、そのあまりにも白々しい、そしてどこまでも哀愁に満ちた一言。
それに、少女たちは、きょとんとした顔をした。
だが、輝だけは、その全てを見透かしたかのように、ニヤリと笑った。
「へえ。息抜き、ってやつ?まあ、いいけどさ。たまには、一人の時間も大事だもんね、オジサンは」
「…うるせえ」
◇
数時間後。
F級ダンジョン【忘れられた
その、ひんやりとしたインクと、古い紙の匂いに満ちた、静寂な空間。
健司は、そのあまりにも平和な環境に、心の底から安堵していた。
「…ああ、静かだ…」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
あの、姦しい声も、無機質なアラート音も、ここにはない。
ただ、自らの足音と、遠くで本がひとりでにページをめくる、パラパラという音だけが、響いている。思えば、一人でダンジョンに来るのも、初めて冒険者になった日以来だな。
あの時は、ゴブリン一体に、あれほど緊張したものだが。
彼の、その感傷を、一体のモンスターが断ち切った。
本棚の影から、数冊の古びた魔導書が、そのページを翼のようにはためかせながら、襲いかかってきたのだ。
【エンチャント・ブック】。
だが、健司は動じない。
彼は、その手に持つ【
ザシュッという、紙が裂ける音。
魔導書たちは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その知識の全てを、ただの紙吹雪へと変えて、消滅していった。
彼の首元で輝く【
(…楽だな)
彼は、心の底からそう思った。
これだ。
これこそが、俺が求めていた「冒険」だ。
誰にも邪魔されず、何の責任も負わず、ただ目の前の敵を、淡々と処理していく。
この、あまりにも単調で、そしてどこまでも心地よい作業。
彼が、その至福の瞬間に浸りきっていた、まさにその時だった。
彼の耳に、一つの、あまりにも場違いな音が届いた。
それは、戦闘の雄叫びではない。
モンスターの呻き声でもない。
ひっく、ひっく、という、か細い、人間の子供の、泣き声だった。
(…はぁ)
彼は、この日一番の、深いため息を吐いた。
彼の、中間管理職としての魂が、警鐘を鳴らしていた。
関わるな。
面倒なことに、なるだけだ、と。
だが、彼の、その35年間の人生で培ってきた、哀れなまでの人の良さ。
それが、彼の足を、その声がする方へと、向かわせてしまっていた。
◇
書斎の、最も奥にある、巨大な閲覧室。
そこに、彼はいた。
冒険者学校の、真新しい制服に身を包んだ、まだ幼さの残る少年。
彼は、その場に座り込み、その膝に顔をうずめて、泣きべそをかいていた。
その彼の前には、一つの、巨大な鉄の扉が、その口を固く閉ざしている。
そして、その扉の前には、複雑なパズルが仕掛けられていた。床に埋め込まれた、九つの圧力プレート。壁に刻まれた、意味不明な古代文字。
「…おい」
健司の、その低い声。
それに、少年の肩が、びくりと震えた。
彼は、その涙に濡れた顔を上げ、驚きと、そして恐怖の色を浮かべて、こちらを見つめている。
「だ、誰ですか…?」
「…通りすがりの、ただのサラリーマンだ」
健司は、そう言って、そのあまりにも面倒くさい状況を、一瞥した。
「仲間とはぐれたのか?」
「…はい」
少年は、しゃくり上げながら、その経緯を語り始めた。
彼が、この謎解きギミックで、仲間と分断されてしまい、一人だけ、この部屋に取り残されてしまったのだと。
その、あまりにもありふれた、そしてどこまでも初心者が陥りがちな、典型的な失敗。
それに、健司は再び、深いため息を吐いた。
彼が、その面倒な状況から、どうやって穏便に立ち去るか、その完璧な言い訳を脳内で組み立てていた、まさにその時だった。
閲覧室の、四隅の本棚から、数体の、甲冑を纏った亡霊が、その姿を現した。
「ひっ…!」
少年が、悲鳴を上げる。
だが、健司は動じない。
彼は、その亡霊たちに、一瞥もくれることなく、ただ目の前のパズルを、値踏みするように見つめていた。
そして、彼は少年に、言った。
その声は、どこまでも、面倒くさそうだった。
「…下がってろ。5秒で、終わらせてやる」
その、あまりにも不遜な一言。
少年が、その言葉の意味を理解する前に。
健司の、その右腕が、閃光のように煌めいた。
【
亡霊たちは、その剣を振りかぶる間もなく、その存在を、完全に両断されていた。B級クラスの制圧力で、敵は一撃だった。
そして、健司は、その亡霊たちがドロップした魔石を、手早く回収すると、その視線を、壁に刻まれた古代文字へと向けた。
(…なるほどな。ただの、論理パズルか)
彼の、課長まで上がってきた頭脳が、そのパズルの、その全てを、一瞬にして解き明かした。
それは、彼が毎日のように格闘している、サーバーのログ解析や、バグの特定作業に比べれば、あまりにも単純で、そしてどこまでも子供騙しな、パズルでしかなかった。
彼は、その圧力プレートの上を、まるでダンスを踊るかのように、軽やかな、しかし完璧なステップで、踏みつけていく。
そして、最後のプレートを踏み終えた、その瞬間。
ゴゴゴゴゴ…という重い音と共に、その鉄の扉が、ゆっくりと、その口を開けた。ギミックは、簡単に解かれた。
「…ほらよ」
健司は、そう言って、その呆然と立ち尽くす少年を、促した。
「これで、仲間たちのところへ、行けるだろ」
「あ…」
少年は、そのあまりにも圧倒的な光景に、ただ言葉を失っていた。
そして、その瞳には、絶対的な、そしてどこまでも純粋な、尊敬の光が宿っていた。
◇
健司は、その初心者一人を牽引し、ダンジョンの出口へと、導いていった。
道中、少年は、その興奮を隠しきれない様子で、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
「あの、すごいですね!あなた、一体何者なんですか!?」
「…ただの、通りすがりのサラリーマンだと言ったろ」
「でも、あの強さ!それに、あの頭のキレ!絶対に、ただのサラリーマンじゃありません!」
その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでもキラキラとした、賞賛の言葉。
それに、健司は、ただ、その頭をガシガシとかくだけだった。
やがて、彼らはダンジョンの入り口へとたどり着いた。
そこには、仲間とはぐれた少年を、半泣きで探し回っていた、三人の、同じ制服を着た若者たちの姿があった。
彼らは、少年の無事な姿を認めると、歓喜の声を上げ、そしてその隣に立つ、見慣れない中年の男の姿に、訝しげな視線を向けた。
少年は、その仲間たちへと駆け寄ると、興奮した様子で、その一部始終を語り始めた。
その、英雄譚を聞きながら。
健司は、誰にも気づかれないように、そっと、その場を立ち去ろうとしていた。
彼の、今日の「業務」は、終わった。
これ以上、面倒なことに関わるのは、ごめんだった。
だが、その彼の、ささやかな願い。
それを、少年の、その感謝に満ちた声が、引き止めた。
「あ、待ってください!」
少年が、振り返る。
「ありがとうございました!僕、田中って言います!あの、あなたのお名前は…!」
その、あまりにも真っ直ぐな問いかけ。
それに、健司は、振り返ることなく、ただその右手を、ひらりと振って応えた。
そして彼は、その喧騒を背に、ポータルの中へと、その姿を消していった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、その謎のサラリーマンの、あまりにも大きな背中を、ただ呆然と見つめる、四人の若者たちの姿だけだった。
その日の夜。
健司は、自室のベッドの上で、深いため息を吐いていた。
彼の、完璧だったはずの「息抜き」は、結局、いつものような「面倒事」に、その姿を変えてしまった。
彼は、その手に持っていたビールを、一気に呷った。
そして彼は、呟いた。
その声は、心の底からの、本音だった。
「…だから、パーティなんざ、嫌いなんだよ…」
その、あまりにも矛盾した、そしてどこまでも人間的な一言。
それを、彼の肩の上で、緑色のカエルの霊体が、きょとんとした顔で、ただ静かに、聞いていた。
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