第44話 ご挨拶と、課長の心労

土曜日の昼下がり。

西新宿の空は、久しぶりに雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。だが、その晴れやかな空とは裏腹に、佐藤健司(35)の心は、梅雨明け前のじっとりとした湿気を含んだ、重く陰鬱な雲に覆われていた。

今、彼は自らの意思とは全く無関係に、その人生において最も縁遠いと思っていた場所へと、その重い足取りを向けていた。

中央線に揺られながら、彼は窓の外を流れる見慣れない住宅街の風景を、死んだ魚のような目で眺めていた。


(…なんで、こうなった)


彼の脳内には、その一言だけが、無限にリピート再生されていた。

数日前、陽奈から告げられた、あまりにも恐ろしい一言。

『両親が、健司さんに、一度ご挨拶がしたいと、言い出しててですね…』

それ以来、彼の平穏な日常は、完全に崩壊した。

夜も眠れず、食事も喉を通らない。彼の脳内では、常に最悪のシミュレーションが繰り返されていた。鬼のような形相の父親に「娘に何をしてくれたんだ!」と胸ぐらを掴まれる光景。涙ながらの母親に「娘を返してください!」と泣きつかれる光景。そして、警察署の、冷たいコンクリートの床の上でカツ丼を食べる、自らの哀れな姿。


「健司さん、大丈夫ですか?顔色が、真っ青ですよ?」

隣に座る陽奈が、その大きな瞳で、心配そうに彼の顔を覗き込んできた。

「…ああ。大丈夫だ。少し、寝不足なだけだ」

彼は、その完璧なポーカーフェイスの裏側で、荒れ狂う心の嵐を、必死に隠していた。

「そっかー。ボス、昨日も徹夜で『ご挨拶シミュレーション』してたもんね」

反対側の席で、輝がスマホをいじりながら、悪戯っぽく笑った。

「『初めまして、私、天野陽奈さんのギルドマスター兼、保護者代行を務めさせていただいております、佐藤健司と申します。以後、お見知りおきを…』って、リビングで一人でブツブツ言ってるの、マジウケたんだけど」

「うるせえ!」

健司の、その悲痛な叫び。

それに、りんごが、どこまでもマイペースに、とどめを刺した。

「健司さん、大丈夫だよー。陽奈ちゃんのお父さん、食べたりしないって」

「…当たり前だ」


その、あまりにも緊張感のない少女たちの会話。

それに、健司はただ、天を仰ぐことしかできなかった。

やがて、電車は目的の駅へと到着した。

そこは、都心から少し離れた、どこにでもあるありふれた、穏やかな住宅街だった。


「うち、こっちです」

陽奈が、そう言って指さした先。

そこには、小さな庭付きの、可愛らしい二階建ての一軒家が、静かに佇んでいた。

その、あまりにも「普通」で、そしてどこまでも「温かい」家庭の象徴。

それに、健司の心臓が、大きく軋んだ。

彼は、この日のためにデパ地下で買ってきた、一番高価な羊羹の詰め合わせの入った紙袋を、汗ばんだ手で、強く握りしめた。



ピンポーン、という、間の抜けたチャイムの音。

数秒後、ガチャリと音を立てて、玄関のドアが開かれた。

そこに立っていたのは、陽奈と瓜二つの、しかしその目元には深い優しさが刻まれた、穏やかな雰囲気の女性だった。

陽奈の、母親だった。


「まあ、陽奈!それに、皆さん!ようこそ、いらっしゃいました!」

彼女は、その柔らかな笑顔で、四人を迎え入れた。

そして、その視線が、健司の姿を捉えた瞬間。

その笑顔が、さらに深くなった。

「あなたが、佐藤さんね。いつも、娘が本当にお世話になっております」


その、あまりにも丁寧な、そしてどこまでも温かい挨拶。

それに、健司はただ、その背中に滝のような汗を流しながら、人生で最も深く、そして最も美しい角度で、その頭を下げた。

「は、初めまして!私、天野陽奈さんのギルドマスター兼、保護者代行を務めさせていただいております、佐藤健司と申します!この度は、突然お邪魔して、誠に申し訳ございません!」

彼の、その練習し尽くされた完璧な挨拶。

それに、陽奈の母親は、くすくすと楽しそうに笑った。


リビングに通されると、そこには少しだけ緊張した面持ちで、しかしその瞳には確かな威厳を宿した、人の良さそうな中年男性が座っていた。

陽奈の、父親だった。

彼は、立ち上がると、健司の前に進み出た。

そして、その大きな手を、差し出した。

「父の、天野です。いつも、娘が世話になっている」

その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも力強い、感謝の言葉。

それに、健司はただ、その差し出された手を、震える手で、握り返すことしかできなかった。


そこから始まったのは、健司の予想とは、全く違う光景だった。

怒号も、詰問も、そこにはなかった。

ただ、どこまでも温かい、そしてどこまでも普通の、「家族」の時間が、流れていた。


「いつも、娘がお世話になっています」

父親が、再び深々と頭を下げる。

それに、健司も慌てて、それ以上に深く頭を下げた。

そして彼は、そのサラリーマンとして培ってきた最高の営業スマイルで、そして心の底からの本音で、答えた。

「いえいえ、こちらこそ!いつも、大変お世話になっています!」

(主に、経験値や攻撃力バフ的な意味で!)

彼の、そのあまりにも切実な心の叫びは、もちろん、誰にも届かなかった。


他愛のない会話が、続いた。

陽奈の、冒険者学校での様子。

グランプリで優勝した時の、感動。

そして、彼女たちが、いかに素晴らしい仲間たちに恵まれているか。

両親は、その全てを、嬉しそうに、そしてどこまでも誇らしげに、聞いていた。

輝は、そのギャルの仮面を完全に脱ぎ捨て、完璧な「好青年(?)」として、その場を盛り上げ、りんごは、出されたお茶菓子を、リスのように頬張りながら、時折、天才的な相槌を打っていた。

それは、あまりにも完璧な、そしてどこまでも健司の神経をすり減らす、理想的な光景だった。


やがて、その穏やかな時間が、終わりを告げる頃。

陽奈の父親が、その優しい目で、健司を見つめた。

そして彼は、その全ての感謝を込めて、言った。


「今日は、本当にありがとうございました。いやー、これで、職場で自慢出来ますよ。『うちの娘のギルドマスターは、あの世界一の佐藤さんなんだぞ』とね」

「今後とも、どうか、よろしくお願いいたします」

彼は、そう言って、再び深々と、その頭を下げた。

その、あまりにも温かい、そしてどこまでも誠実な、父親の姿。

それに、健司はもはや、何も言うことはできなかった。

彼は、その場にいる全員に、人生で最も深く、そして最も美しいお辞儀をして、その温かい一軒家を、後にした。



帰り道。

夕暮れの住宅街を、四人は、静かな沈黙と共に歩いていた。

その沈黙を破ったのは、健司の、心の底からの、安堵のため息だった。

「はー…なんとか、終わった…」

その、あまりにも人間的な一言。

それに、りんごが、その大きな瞳をぱちくりとさせながら、尋ねた。

「緊張したー?」

「いやー、緊張したわ。流石に、初めてだからな」

健司は、その正直な気持ちを、吐露した。

その、あまりにも情けない、しかしどこまでも素直なリーダーの姿。

それに、輝は腹を抱えて、笑った。

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