第29話 賞金一億と中間管理職の決断

賞金一億と中間管理職の決断


金曜日の夜。

佐藤健司(35)は、一週間の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、ようやく自らの聖域…西新宿のタワーマンションの、その広すぎるリビングへと帰還していた。

彼は、玄関で窮屈な革靴を蹴り飛ばし、首を締め付けていたネクタイを緩め、ソファへとその疲弊しきった体を投げ出す。カチャリと音を立てて、買ってきたばかりの限定醸造ビールのプルタブを開ける。喉を駆け下りる、黄金色の炭酸の祝福。


「…ぷはぁーっ!」


彼の口から、心の底からの安堵のため息が漏れた。

テーブルの上には、デパ地下で奮発して買ったローストビーフの切り落としと、コンビニで買い込んだポテトサラダが、完璧な布陣で並べられている。壁の巨大な有機ELモニターには、彼が毎週欠かさず見ているワイドショー番組『ライブ!ダンジョン24』が、BGMのように流れていた。

完璧だ。

あまりにも、完璧すぎる週末の始まり。


アナウンサー: 「さて、続いてのニュースです!ダンジョン界の未来を担う若者たちに、ビッグニュースが飛び込んできました!」

画面が切り替わり、きらびやかなCGと共に、一つの巨大な大会のロゴが映し出された。

『第一回ルーキー・グランプリ開催決定!』


解説者(田中健介): 「いやー、ついに来ましたね!優勝賞金は、なんと1億円!これは破格です!スターリング・ファンドの設立以降、若手の才能を発掘し、育て上げようという機運が、世界的に高まっていますからな!」

アナウンサー: 「注目チームは、やはり冒険者学校のトップチーム『アストライア』や、アメリカからの刺客『スターリング・イーグルス』といったところでしょうか!?」


(…1億か。景気のいい話だな)

健司は、その熱狂をポテチでもかじりながら、完全に他人事として眺めていた。

(まあ、俺には関係ねえが。こっちは、住宅ローンの返済で手一杯だってのに…)

彼が、そのあまりにも平和な日常に浸りきっていた、まさにその時だった。


ピロリン♪


静寂を切り裂くかのように、彼のスマートフォンが、間の抜けた、しかし彼にとっては悪魔の号令に等しい通知音を鳴らした。

画面に表示されたのは、彼がこの世で最も見たくないLINEグループの名前。

『健司さんを囲んで魔石を愛でる会』。


(…来たか)


彼の、完璧だったはずの安らぎの計画が、音を立てて崩れ落ちていく。

彼は、深いため息をつくと、観念してそのトーク画面を開いた。

そこに表示されていたのは、星野輝からの、あまりにもテンションの高いメッセージと、今まさにテレビで見ている大会の公式ページのリンクだった。


星野輝: 『ボスー!緊急事態!これ見た!?今すぐ!』

[リンク:『第一回ルーキー・グランプリ』公式サイト]


健司は、「だから、それがどうした」と返信する前に、矢継ぎ早に送られてくる次のメッセージに、その動きを止めた。


星野輝: 『優勝賞金、1億円だって!これがあれば、健司さんの住宅ローン、一気に完済じゃん!』


(…ローン…)


その言葉が、彼の脳内で重く響く。

彼は、おもむろにブラウザを開き、自らのネットバンクのページにログインする。

そこに表示された、住宅ローンの残高。

ゼロが、いくつあるのか。もはや、数えるのも億劫だった。

35年。

彼の人生の、残りほぼ全て。

それを、この灰色のコンクリートジャングルの、広すぎるだけの箱のために、捧げ続けなければならない。

その、あまりにも絶望的な未来予測。

それに、彼の心は、どんよりとした灰色の雲に覆われていく。


彼の、その内なる葛藤を見透かしたかのように。

グループLINEに、新たな参加者が現れた。


天野陽奈: 『わあ…!すごい大会ですね!プロの冒険者さんたちが、たくさん出るんでしょうか…?私、出てみたいです…!』

兎月りんご: 『1億円あったら、うまい棒、何本買えるかなー?』


その、あまりにも純粋な憧れと、どこまでも現実離れした問いかけ。

それに、健司はただ、天を仰ぐことしかできなかった。

そして、輝がとどめとばかりに、その魂の叫びを、叩きつけた。


星野輝: 『ボス!これは、ただの大会じゃない!あたしたち『アフターファイブ・プロジェクト』が、世界にその名を轟かせる、最高のチャンスだよ!それに、健司さんのローンも完済できて、あたしたちも新しい装備が買える!一石三鳥じゃん!やるっきゃないっしょ!』


その、あまりにも正論で、そしてどこまでも彼の弱点を突いてくるプレゼンテーション。

それに、健司はぐうの音も出なかった。

彼は、その震える指で、返信を打ち込んだ。

その文面は、彼の魂の叫びそのものだった。


佐藤健司: 『…今から、家で会議だ。全員、集合』



数十分後。

彼の城であり、牢獄でもあるタワーマンションのリビングは、これまでにないほどの、奇妙な熱気に包まれていた。

議題は、ただ一つ。

『第一回ルーキー・グランプリ』への、参加の是非について。


「――というわけで、この大会に参加することのメリットは、主に三つあります!」

輝が、ARウィンドウに自作の、しかしどこまでもそれっぽいパワポ資料を映し出し、そのサイドポニーを揺らしながら、熱弁を振るっていた。

「第一に、圧倒的な知名度の獲得!これにより、今後のギルド活動におけるスポンサー契約や、メディア露出の機会が飛躍的に増大します!」

「第二に、賞金1億円という、直接的な経済的利益!これは、ギルドの初期投資を完全に回収し、さらなる成長のための軍資金となります!」

「そして、第三に!」

彼女は、そこで一度言葉を切ると、その大きな瞳で、健司を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、抗いがたいほどの、小悪魔的な魅力が宿っていた。

「――健司さんの、30年以上のローン生活に、終止符を打つことができる!」


その、あまりにも個人的で、そしてどこまでも甘美な最後のプレゼン。

それに、健司の、常に冷静だったはずの心の天秤が、大きく、ギシリと音を立てて傾いた。

だが、彼はまだ諦めない。

彼は、リーダーとして、そしてこの家の家主として、その最後の砦を守るために、反論した。


「馬鹿を言え」

彼の声は、静かだった。だが、その奥には、地獄の底から響いてくるかのような、絶対的な拒絶の響きがあった。

「これは、俺たちがやってる週末の趣味とは、レベルが違う。プロの世界だ。お前たちの、そのC級の標準装備と、付け焼き刃の連携で、世界の強豪相手に勝てると思ってるのか。あまりにも、見通しが甘すぎる」

「それに、俺は目立ちたくない。面倒くさいのは、ごめんだ。この件は、却下だ」


その、あまりにも正論で、そしてどこまでも後ろ向きな、中間管理職としての完璧な回答。

それに、輝は少しだけ怯んだ。

だが、彼女は諦めない。

彼女は、このパーティの、二つの最終兵器へと、その視線を向けた。


「…でも、陽奈ちゃんは、どう思う?」

「えっ、私…?」

突然話を振られた陽奈は、おろおろとしながらも、その素直な気持ちを口にした。

「私…。みんなで、大きな目標に向かって頑張るのって、なんだか『青春』みたいで、素敵です…」


その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも強力な一言。

「だよねー!」

輝は、それに乗っかった。

「りんごちゃんは!?」

「えー?あたしは、どっちでもいいけどー」

りんごは、いつものようにマイペースに答えた。

「でも、優勝したら、毎日アイス食べ放題なんでしょ?それなら、頑張るー!」


その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも食欲に忠実な、追い打ち。

佐藤は、言葉を失った。

賛成、2票。保留(という名の賛成)、1票。

反対、1票。

結果は、火を見るより明らかだった。

彼は、このあまりにも民主的で、そしてどこまでも理不-尽な多数決という名の暴力の前に、完全に敗北したのだ。


佐藤は、その場で頭を抱え、うずくまった。

彼の、孤独で静かだったはずの週末は、今や完全に、この混沌の渦に飲み込まれようとしていた。

だが、その絶望の淵で。

彼の、サラリーマンとして長年培ってきた、一つの哲学が、その頭をもたげた。

『――どうせやるなら、最も効率的に、そして最大の成果を出す』

そうだ。

プロジェクトが、一度動き出してしまったのなら。

それを、ただ嘆いているだけの管理職は、無能だ。

リスクを最小限に抑え、リターンを最大化する。それこそが、課長としての、そしてギルドマスターとしての、自分の仕事ではないのか。


彼は、ゆっくりと、その顔を上げた。

その瞳には、もはや諦観の色はない。

ただ、自らが置かれたこの理不尽なテーブルで、最高のカードを切ることを決意した、ギャンブラーの光だけが宿っていた。

彼は、その三人の、あまりにも手のかかる「部下」たちへと、そのリーダーとしての、最初の、そして最も重い言葉を告げた。

その声は、静かだった。

だが、その奥には、揺るぎない覚悟が宿っていた。


「…分かったよ。その勝負、乗ってやる」

「ただし」と彼は続けた。

「出るなら優勝までするぞ。中途半端に目立つ意味ないしな」


その、あまりにも不本意な、しかしどこまでも力強い勝利宣言。

それに、それまではしゃいでいた三人の少女たちが、一瞬だけ、その動きを止めた。

そして、彼女たちは顔を見合わせた。

そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で、その最高のボスへと、敬礼した。


「「「――はいっ!」」」



その週末。

健司は、ギルドのカウンターで、その人生で最も面倒くさい書類に、その震える指でサインをしていた。

『第一回ルーキー・グランプリ 参加申込書』。

その横には、パーティメンバーの、スキル申告欄があった。

彼は、課長として培ったリスク管理能力を、最大限に発揮した。

陽奈の経験値バフは、あまりにも異常すぎるため隠蔽。輝の複製能力も、対象を魔石のみ、確率も本来の5%と過小申告。あくまで、「ちょっと変わった新人パーティ」を装う。


「――はい、確認します」

受付嬢の、その事務的な声。担当は、佐々木彩だった。

「ギルド名、『アフターファイブ・プロジェクト』。メンバー、佐藤健司、天野陽奈、星野輝、兎月りんご」

「ユニークスキル。佐藤様、【盟約めいやく円環えんかん】、SSS級。天野様、【至福しふくのひとさじ】、D級…効果は、攻撃力100%アップ。星野様、【幸運は二度ベルを鳴らす】、C級…効果は、魔石の5%複製。兎月様、【気紛きまぐれな奇跡きせきのルーレット】、B級…効果は、奇跡のストック。…以上で、よろしいですね?」


その、どこまでも巧妙に「本質」を隠蔽した申告内容。

それに、彩は、その大きな瞳をわずかに細めた。

彼女は、JOKERの最初の鑑定を担当した、ギルド内でも数少ない「本物」を知る人間。その彼女の直感が、この書類の裏にある、尋常ではない何かを嗅ぎつけていた。


「…佐藤様。この申告内容、本当に、間違いありませんか?」

「ああ」

健司は、ポーカーフェイスを崩さなかった。

「何か、問題でも?」

「…いえ」

彩は、一度言葉を飲み込んだ。そして、彼女はプロフェッショナルとしての仮面の下で、その戦慄を隠しながら、言った。その声は、わずかに震えていた。

「このスキル構成は…前代未聞です。特に、天野様のバフ効果と、佐藤様のSSS級スキルのシナジー…正直、私どもの想定を遥かに超えておりますが、この内容で受理してよろしいのですね?」


「はいそうです。」


こうして、彼らの、あまりにも歪な、しかしどこまでも力強い挑戦が、正式に受理された。

健司は、その承認印を見つめながら、心の底から、思った。

(…ああ、やっぱり、面倒くせえ…)


作戦会議で、健司はパワポ(AR)を使い、そのあまりにもシンプルで、そしてどこまでも脳筋な作戦を、三人の少女たちに叩き込んだ。

「いいか、よく聞け。我々の勝ち筋は、ただ一つ。陽奈の攻撃力バフで、道中の雑魚を、俺と輝で最速で蹂躙する。その間に、りんご、お前はひたすら【空詠唱】でルーレットを回し続けろ。そして、何としてでも、ボス部屋にたどり着く前に【超・火炎球】か、それに準ずる超攻撃魔法の『大当たり』をストックしろ。ボスは、それ一発で終わらせる。それ以外に、我々に残された道はない。分かったな?」

その、あまりにも大胆で、そしてどこまでもギャンブルに満ちた作戦。

それに、輝はニヤリと笑った。

「へえ。あんた、意外とギャンブラーじゃん。…気に入った!」

「…うるせえ。行くぞ」

彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」は、彼自身も知らぬ間に、世界の中心へと、その歩みを進め始めていた。

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