第28話 敵(とも)と、束の間の休息

土曜日の夜。

東京の夜景を地上数百メートルから見下ろす、天空の城。その屋上に設えられたナイトプールは、現実の理から切り離された、幻想的な光と音の渦に包まれていた。


プールの水面は、埋め込まれた無数のLEDライトによって、七色の光を穏やかに反射している。DJブースから流れる軽快なエレクトロニック・ミュージックが、人々の楽しげな笑い声と心地よく混じり合い、プールサイドに立ち込める甘いカクテルの香りが、非日常の感覚をさらに加速させていた。ここは、選ばれた探索者ギルドのメンバーだけが足を踏み入れることを許された、束の間の楽園。新設されたばかりの高級ホテルの、オープニング記念パーティ会場だった。


その、あまりにもきらびやかで、そしてどこまでもリア充たちのエネルギーに満ち溢れた空間の中心で。

三人の少女たちは、まるで水を得た魚のように、それぞれの休日を謳歌していた。


「わあ…!見てください、輝ちゃん、りんごちゃん!お星さまが、泳いでるみたいです…!」

天野陽奈は、白いフリルが幾重にもあしらわれた、清純なワンピースタイプの水着に身を包んでいた。彼女の白い肌と黒い髪が、その純白の水着と完璧なコントラストを描き、その存在そのものが、守ってあげたくなるような可憐な光を放っている。彼女は、生まれて初めて見るであろうその光景に、大きな瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせ、子供のようにはしゃいでいた。


「マジ映えるよねー、ここ!後で、ギルドの宣伝用に、写真撮りまくろ!」

星野輝は、そんな陽奈の隣で、自信に満ちた笑みを浮かべていた。彼女が選んだのは、その完璧なプロポーションを惜しげもなく晒す、黒い紐で結ばれた大胆なビキニ。その姿は、周囲の男たちの視線を釘付けにし、彼女自身もまた、その視線を楽しんでいるかのようだった。彼女は、片手に持ったノンアルコールのトロピカルカクテルを優雅に揺らしながら、すでにいくつかの有力ギルドの若手メンバーと名刺交換を済ませた後だった。


「ふふーん。このプールの水、なんだか魔力がこもってる味がするー」

兎月りんごは、二人から少し離れたプールサイドで、足を水につけながら、一人ご満悦の表情を浮かべていた。彼女が着ているのは、もはや水着という概念を完全に超越した、黒いレースとフリルで過剰に装飾されたゴスロリ風のドレス。その奇抜な出で立ちは、このお洒落な空間の中で、ある種の異様なオーラを放っていたが、本人は全く気にする様子はない。むしろ、その異質さを楽しんでいるかのようだった。


そして、その三人の少女たちの、輝かしい狂乱の中心から、数十メートル離れた場所。

プールの喧騒が、嘘のように遠くに聞こえる、日陰のデッキチェア。

そこに、一つの黒い影が、まるで石像のように沈んでいた。


佐藤健司(35)。

彼は、首元までジッパーをきっちりと上げた黒いラッシュガードに、顔の半分を覆い隠す巨大なサングラス、そして深々と被ったキャップという、完璧な不審者スタイルで、その場にいた。彼の肌は、一ミリたりとも、この楽園の空気に触れることを拒絶していた。


(…帰りたい)


彼の心は、ただその一言で満たされていた。

ローン返済のため、ギルドのコネ作りのため、そして何よりも、部下たちの「お願い」に抗えなかったがために、彼は今、この地獄にいる。会社で理不-尽な上司の機嫌を取る方が、まだ精神的に楽だったかもしれない。


「ボスー!おかわり!」

輝の、悪魔のように明るい声が、彼の鼓膜を揺さぶる。

健司は、深いため息をつくと、重い腰を上げた。彼の、このパーティにおける唯一の、そして最も重要な仕事。それは、少女たちが次々と持ってくる、一杯2500円もする高価なノンアルコールカクテルの会計を、ギルドの経費(という名の、ほぼ彼の私財)で支払うことだけだった。

彼の視界の隅では、ピンク色のタコが、現実をさらに抉るような解説を続けていた。

「健司!今のカクテルで、合計金額は3万2500円だッピ!君の、一週間分の食費に相当するッピよ!これは、未来への投資だッピ!頑張るッピ!」

「……うるせえ」


健司は、無言で会計を済ませると、その喧騒から逃れるように、ふらふらと歩き出した。彼の、サラリーマンとして長年培ってきた危機回避能力が、この会場で最も人が少なく、そして最も目立たない場所を、瞬時にサーチしていた。

あった。

会場の、一番奥。観葉植物の影に隠れるようにして設置された、小さなジャグジー。そこだけが、この狂乱の空間から切り離された、聖域のように見えた。


彼は、誰にも気づかれないように、そっとそのジャグジーへと体を滑り込ませた。

ぶくぶくと湧き上がる、心地よい気泡。

体を包み込む、温かいお湯。

遠くに聞こえる、喧騒。

(…ああ、生き返る…)

彼が、ようやく束の間の安らぎを手に入れ、その疲弊しきった魂を癒していた、まさにその時だった。

ジャグジーの、湯気が立ち込める向こう側。

そこに、先客がいたことに、彼は気づいた。


男が一人、健司と全く同じように、世界の全てを呪うかのような虚ろな目で、夜空に浮かぶ偽物の月を、見つめていた。

その顔には、見覚えがあった。

C級ダンジョンで、自分たちに傲慢な勝負を吹っかけてきた、あのエリートパーティ『アストライア』のリーダー。

剣崎達也だった。


一瞬、健司の体に緊張が走る。だが、その緊張は、次の瞬間、あっけなく霧散した。

なぜなら、剣崎のその姿もまた、健司と寸分違わぬほどの、深い、深い疲労と絶望に染まっていたからだ。彼もまた、健司と同じように、この場にいるべきではない、哀れな魂の持ち主であることを、雄弁に物語っていた。


静寂。

気まずい沈黙を破ったのは、剣崎の方だった。


「……なんだ、君か」

その声は、ダンジョンで聞いた時の、傲慢な響きが嘘のように、力なく、そして乾いていた。

「君も、無理やり連れてこられたクチか?」


その、あまりにも的確な、そしてどこまでも同情に満ちた一言。

それが、二人の間にあったはずの、ライバルという名の分厚い壁を、まるで砂糖菓子のように、あっけなく溶かした。

健司は、サングラスの奥で、その同志の姿を見つめ返した。そして、彼はただ一言、その魂の全てを込めて、答えた。


「……お前もか」



その一言が、合図だった。

二人の間から、堰を切ったように、日頃の鬱憤と愚痴が溢れ出し始めた。

それは、もはや会話ではない。互いの傷を舐め合う、哀れな中年(片方はまだ若いが、精神はすでに中年の域に達していた)たちの、魂のセラピーだった。


「はぁ…。信じられるか?うちのヒーラー、『人前に出るのは恥ずかしいから』とか言って、パーティ中だっていうのに、ずっと物陰に隠れてるんだぞ。お前、ヒーラーだろ、と。前に出なきゃ、回復できねえだろ、と。何度言っても、『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝るだけで、一向に改善の兆しが見えん」

剣崎が、その完璧にセットされた髪を、苛立たしげにかきむしりながら、吐き捨てるように言った。


「分かる…。すごく、分かるぞ…」

健司が、深く、そして何度も頷いた。

「うちのギャル盗賊なんて、どう思う?『ボス、あたし、新しいビルド試したい!』とか言って、いきなり装備を一新しやがった。しかも、その新しいビルド、まだ全然使いこなせてないせいで、戦闘中に何度も死にかけるんだ。その度に、俺が盾になって庇ってる。こっちの身にもなれってんだ…」


「それだ!それなんだよ!」

剣崎が、まるで我が意を得たりとでも言うかのように、ジャグジーの湯を叩いた。

「リーダーたるもの、常に完璧であれ。パーティメンバーの規範たれ。常に冷静に、的確な指示を下し、そして誰よりも強くあれ…。周囲の期待が、プレッシャーが、重すぎるんだ!俺だって、たまには弱音を吐きたい!失敗もする!なのに、あいつらは…!」


「俺なんか、もっとひどいぞ」

健司の声には、もはや何の感情も宿っていなかった。

「俺は、そもそもリーダーになりたかったわけじゃない。ただ、税金対策で、週末だけ冒険者やってる、しがないサラリーマンだったんだ。それなのに、気づいたら、女子高生三人を抱えるギルドの、マスターにさせられてた。なんで俺が、あいつらの確定申告の心配までしなきゃならんのだ…。書類仕事が、増えるだけだというのに…」


彼らは、語り合った。

強すぎる、そして自由すぎる部下たちに、常に振り回される苦悩を。

リーダーという、孤独な立場を。

そして、その全ての元凶が、自分たちの、その人の良さ(という名の、断りきれない弱さ)にあるという、あまりにも残酷な真実を。


そこに、もはやライバル心など、一片たりとも存在しなかった。

ただ、同じ地獄を共有する者同士の、深い、深い共感だけがあった。

彼らは、互いが「強すぎる部下たちに振り回される、哀れな中間管理職」という、全く同じ境遇にあることを、ようやく理解したのだ。

二人は、そのあまりにも数奇な運命に、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。


「…ぷっ」

「…ははっ」

「「あーははははははは!」」


ジャグジーに、二人の、どこまでも哀愁に満ちた笑い声が、響き渡った。



だが、その束の間の平和は、長くは続かなかった。

まるで、二人の密会を嗅ぎつけたかのように。

それぞれのパーティメンバーという名の、嵐が、その聖域へと襲来したのだ。


「――リーダー!こんな所にいたんですか!何サボってるんですか!次の模擬戦の打ち合わせ、始めますよ!」

剣崎のパーティの、生真面目な魔術師の少女が、その場に似つかわしくない、分厚い戦術書を片手に、現れた。


「――健司さん!こっち来てくださいよ!輝ちゃんが、あっちのイケメンギルドのマスターに、勝負吹っかけてます!早く止めないと!」

陽奈が、その大きな瞳に涙を浮かべながら、健司の腕を掴んだ。


「あ」

「…ああ」


二人は、全てを悟った。

休憩時間は、終わりだ。

彼らは、互いに、言葉にならない、しかし心の全てがこもった視線を交わした。

(まあ、お互い、大変だな)

(ああ、本当に、大変だ)

その、同情と、連帯と、そして諦観に満ちた視線の交換。

それが、彼らの間に生まれた、奇妙な友情の、最初の儀式だった。


二人は、それぞれの部下たちによって、その温かいジャグジーから、無慈悲に引きずり出されていく。

そして、それぞれのパーティという名の、騒がしく、愛おしく、そしてどこまでも面倒くさい戦場へと、その重い足取りで、帰っていった。


その夜。

健司が、ようやく解放され、自室のベッドに倒れ込んだ、その時。

ピロリン♪と、スマートフォンが軽快な音を立てた。

画面に表示されたのは、剣崎達也からの、LINEのフレンド申請通知だった。

そして、その直後に届いた、一件のメッセージ。


『今度、サシで飲まないか』


健司は、そのあまりにも不器用な、そしてどこまでも男らしい誘いの言葉に、ふっと、笑みを漏らした。

彼は、その疲弊しきった指で、ただ一言だけ、返信した。

『ああ』と。


彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい人生に、また一人。

面倒くさい、しかしどこか憎めない「仲間」が加わった瞬間だった。

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