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「ふーさん、今日の仕事後って空いてない?」



 同期入社の女子社員・浅木深苑あさぎみそのからそう声を掛けられたのは、華も狂い咲く金曜の昼休みだった。ふーさん……という釣りが得意な初老の男性みたいなあだ名は正直一ミリも気に入っていないが、福山さん、なんて距離感をおぼえる呼び方をされるよりはマシだ。



「特に何もないけど」

「ほんと? よかった」



 ここで、よかった、とワンクッションを自然と置けるあたりがさすが弊社の就職面接をくぐり抜けてきた猛者、あるいは世渡り上手と褒め称えたいところだ。私の会社の面接試験は、どちらかと言えば圧迫系に偏っている。彼女たちはうまくいなしながら通り抜けてきたのだろうが、私は未だにどうしてあんな始末で合格できたのか、今でも疑問に思ってしまう。強いて言えば流行りのユーチューバーよろしく、喧嘩を売られたら涼しい顔をしながらカラーボールを投げつけるような皮肉っぽさが効いたのかもしれない。


 ……というか、何故「よかった」のかは訊いてみたいところだ。今日は家に帰って殻に閉じこもる日じゃないんですね……みたいな意味合いだったら、いま私の手元で繊維をさらけ出しているサラダチキンを眉間に投げつけることも辞さない覚悟である。



「何かあるの?」

「今日の夜にちょっとした食事会があるんだけど。実は真瀬まなせちゃんが来れなくなっちゃったみたいでさぁ。だから女子がちょっと足んないのよ」

「食事会って、要は合コンってことでしょ」

「そうそう、室町時代から続く呼び名はそれですね」



 ふざけたことを宣う深苑は、うつくしい造形の顔をヘラヘラした笑みに歪めている。

 もはや男を探すことではなく、合コンに行くこと自体が目的になっていそうな彼女が、なぜ数合わせのメンバーに私を選んだのか皆目見当がつかなかったのは最初の数秒だけで、合コンのメンバーにおける数合わせというのは即ち、コンビニで売っている幕の内弁当で言えば、端っこで所在なさげにしている柴漬けと同レベルだと気づいてようやく合点がいった。


 本来ならば、さっさと家に帰りたい気持ちがあった。哀しいけれど、目の前の深苑や今日来られないという真瀬彩乃あやのなど、私の同僚はどいつもこいつも、男ならブレイクショットで上手に白球をぶつけて一番にポケットへ叩き込みたい美人ばかりだ。幕の内弁当で喩えれば、みんな紅鮭や卵焼きのような華やかさのある食材がふさわしい。私はやっぱり柴漬けか、せいぜい鰹節が武士の情けみたいにまぶされた沢庵たくあんが関の山だ。漬物がメインディッシュの弁当なんて見たことがないし、誰かが考えることもない。そんな私が彼女たちと一緒に合コンへ出たところで、通販番組で言う「送料無料」から弾き出された北海道と沖縄みたいな惨めさを味わうことになるのは明白だった。


 それでも私は既に、日頃の仕事のやりやすさが、職場における人間関係へ大きく依存していることに気づいていた。仲の良くない人間にヘルプは求められないし、どんなに短くても一日の三分の一は拘束される職場の環境が悪化することは避けたい。


 なにより、今の環境は誰かに強要された結果与えられたものではなく、すべて自分自身の決断と行動によって導き出されたものだ。これが親や他人に無理やり決めさせられた職場だったなら、退職代行を頼むのも煩わしくて自分自身で退職を願い出ていただろう。



 自己責任。

 私にとって、嵐の夜の篝火かがりびとなる四文字が告げている。


 とりあえず行っとけよ、今後の職場環境のために……と。



「場所はどこなの?」

「おっ。ふーさん、来てくれるんだ。そしたらお店の場所はメールしとくよ」

「今言えばいいでしょ」

「わはは。ぶっちゃけあたしも、会社の近くってことしか覚えてないんよ。そんじゃ、また終業後ね」



 深苑は一方的に告げると、早足で去ってゆく。彼女の狙いは最初から、私という人間の出欠ではない。急に空いた穴を埋めるために必要なパテを机の抽斗ひきだしから漁り、取り急ぎその穴を埋めることだけだ。スマートな彼女は、それが固まるまで黙って眺めているようなことはしない。


 穴に押し込められた私は思考する。大人になってからの私はいつも自分を二の次にして、相手の顔色ばかり窺いすぎて、誰でもいいような役割に選ばれただけで嬉しくなってしまう。多少無理があっても、なんとか背伸びをして他人に合わせようとする。それは、自分が我慢をすれば世界がうまく回るのなら、下手にぶつくさ文句を垂れている人間よりもずっと、社会を構成する一員となれた気がするからだ。



 というか、こんな生きづらい世の中に誰がしたんだ。


 ――ああ、私だった。



 午後の始業時間が訪れた。

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