未来へ吹き続ける夢色の風

天音おとは

第1話「二人の出会い」

 4月1日 午前6時

 小鳥のさえずりが、静かな朝をやさしく彩っていた。

 まぶしい朝日が、桜野舞の頬をそっと照らす。


「……まぶしい……」

 まどろみの中、ゆっくりとまぶたを開けると、眩しさに思わず顔をしかめた。

「ふぁぁ……」

 あくびをひとつ。

 カーテンの前まで歩き、大きく開ける。差し込む光に包まれて、舞は思わず目を細めた。


「んー、気持ちいい……」

 そして、空を仰ぎながら背伸びをする。


【私、桜野 舞。16歳。今日から高校生――新しい毎日の始まり】


 パジャマのまま1階へ降りて、朝の挨拶と朝食をすませた舞は、部屋に戻って着替えた。

 鏡に映る自分に、「可愛くなれてるかな?」と少しだけ意識しながら笑みを浮かべる。


 だけど、椅子に腰かけるとふと、ため息がこぼれた。

「はぁ……」


 どこか心がふわふわしていた。

 まぶたを閉じると、いつの間にか眠ってしまっていた――。


 30分後。

「あれ……? 私、寝てたの……?」

 まだ少し眠気が残っている。

「外に出たら、シャキッとするかな……」

 そう言って、舞はふらりと外へ出た。


「うーん、外って……どうしてこんなに気持ちいいんだろう」

 春の風が舞の髪をなでる。自然と笑みがこぼれる。


 周りの人が振り返っていることに気づき、

「え……? まさか、気持ちいいって言ってるの、私だけ……?」

 少しだけ恥ずかしくなる。


 けれど、

「ま、いっか」

 舞は深呼吸をして、太陽の下で再び笑った。


 15分ほど歩いて、公園にたどり着く。

 咲き始めた桜が優しく出迎えてくれた。


「わぁ……きれい……」

 花びらが風に舞う様子に、思わず目を細めてしまう。

 ベンチに腰を下ろし、ゆっくりと桜を見上げた。


「……あれ?」


 鼻がムズムズして、両手で口元を押さえた。

「くしゅんっ!」


 くしゃみがひとつ、舞の可愛らしい声とともに響く。


「風邪……かな……?」


 額に手を当ててみると、少し熱っぽい気もする。

「……くしゅんっ!」


 止まらないくしゃみ。

「なんか寒くなってきた……。帰ろう」


 公園をあとにして帰路につくが、春風が少し冷たく感じた。

「……寒い……」


 15分後、自宅。

「ただいま」

 手を洗い、うがいをすませてから母の元へ。


「お母さん、なんだか風邪っぽいかも……」

「えっ、大丈夫?」

「公園に行ったときは気持ちよかったのに、急に寒くなって……」


 母は舞の額に手を当て、

「熱はなさそうだけど、体温計ってみて」


 2分後、体温計には「36.5℃」の表示。

「平熱か……」

「とにかく安静にね」


 舞は自室に戻ると、ベッドへ横になった。


 そこへ姉が顔を出す。


「舞、大丈夫?」

「うん……少し風邪かも」


【桜野 祈 17歳。高校2年生。私の姉。】

【桜野 勝 17歳。高校2年生。私の兄。】


「くしゅんっ!」

 またくしゃみが出た舞に、姉と兄は心配そうな顔を向けた。


 午後4時。

 部屋のベッドに伏せていた舞は、ぼんやりと天井を見上げながら、小さくつぶやいた。


「……やっぱり、風邪……かな……」


 ほんの少し喉がイガイガして、頭も重たい気がする。

 そんなとき、扉がノックされて、姉の祈が顔をのぞかせた。


「大丈夫? 少し眠れた?」

「あ、お姉ちゃん……うん、ちょっとだけ」


 祈はそっとベッドのそばに座り込んだ。


「私もね、そういうことあったよ。舞と同じくらいの時期に、風邪っぽくなって……」

「え? お姉ちゃんも?」

「うん。体温は平熱だったのに、体がだるくてさ。無理しない方がいいって、思い知ったよ」


 そんな姉の話を聞いて、舞は少し安心したような顔を見せた。

 すると、


「……はっくしゅん!」


 今度は祈のほうが可愛らしいくしゃみをしてしまう。


 舞と勝は思わず顔を見合わせて、

「くすっ」

 と小さく笑った。


「え、なに? なんで笑うの?」

 祈がちょっとむくれたように言うと、舞はにこっと笑いながら、


「なんかね……お姉ちゃんのくしゃみ、可愛かったから」


 その言葉に、しばらく沈黙が流れ――

「ふふっ」

「ははっ」


 三人は、静かな部屋で、やわらかい笑い声を交わした。


 夜9時。

「じゃあ……おやすみ、舞」

「うん。おやすみ、お兄ちゃん。お姉ちゃん」


 そう言って舞は布団に入った。

 温かい空気の中、少しだけ、気持ちが軽くなっていた。


 4月2日 午前6時。

 ゆっくりと目を覚ました舞は、体が少しだけ軽くなっている気がした。


「……よかった、ちょっと楽かも」


 1階へ降りると、キッチンには姉と両親が揃っていた。


「舞、調子はどう?」

「うん、大丈夫。お姉ちゃん、ありがとう」


 心配そうにしていた家族も、舞の明るい声に少し安心したようだった。


【桜野 仁 40歳。お父さん】

【桜野 蒼 40歳。お母さん】


「無理しないでね。風邪、ぶり返すと大変だから」

「うん、わかってる」


 部屋に戻ると、舞は机に向かって腰を下ろした。

 だけど――


「……うーん、やっぱりちょっと変かも」


 額に手を当ててみる。なんだか、ぽわんと熱がこもっている感じ。


「くしゅんっ!」


 またくしゃみが出た。

 鼻水もずるずるしてきて、ティッシュを手に鼻をかむ。


「ふーんっ……」

 鼻をかんだあと、ちょっとすっきりしたような気もするけど……。


「……治ってないな、これ」


 ごみ箱にティッシュを捨てながら、小さくため息をついた。


 午前9時。

 気分転換に外へ出てみたくなって、舞は近所にある川沿いの遊歩道を歩いていた。


 春風は穏やかで、川の水面がきらきらと輝いている。

 だけど――


「くしゅんっ!」


 くしゃみがまたひとつ。

 頭がぼんやりして、視界が少しかすんでいる。


「……あれ?」


 舞は目をこすってみた。だけど、視界のもやは晴れない。


「……フラッ」


 体が傾く。

 右手で頭を押さえるけれど、どうにもふらつく。


「なんか……頭が重い……」


 そのまま咳が出て、呼吸も少し荒れてきた。

 関節もじんわりと痛む。


「どうしよう……ここから家まで、10分くらいあるのに……」


 周りには人がたくさんいる。だけど誰も、こちらを気に留めてはいない。

 そんな状況が、余計に胸を苦しくした。


「恥ずかしい……こんなとこで、ひとりで、具合悪くなって……」


 舞の目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「ぐすっ……」


 拭っても、あとからあとから涙がこぼれてくる。

 足も、もう一歩も動かなかった。


 川沿いのフェンスにもたれかかり、うつむく舞。

 頬に触れる風は冷たく、汗ばんだ肌にじわりとしみた。


「はぁ、はぁ……」

 呼吸もだんだん浅くなっていく。

 周囲の人の姿が、どこか遠くぼやけて見えた。


 ――そのとき。


「ちょっと! 大丈夫!?」


 男の子の声がした。

 驚いて顔を上げようとした瞬間――


「っ……!」


 視界が大きく揺れて、足元が崩れる。

 フェンスに寄りかかるようにして、そのまま、意識がふっと遠のいた。


「おいっ!? ……大丈夫かっ?」


 声が聞こえる。でも、頭はぼんやりとしている。

 その中で、かすかに呟いた。


「……水……飲みたい……」


「水……? ちょっと待ってて!」


 男の子は急いで走り去った。

 そしてほんの数分後、小さな水筒を持って戻ってきた。


「お待たせ! 水、持ってきたよ!」

「……え……ありがとう……」


 舞の声はかすれていた。


「自分で飲める……?」

「……ちょっと、無理かも……」


「じゃあ……飲ませてあげる」


 男の子は水筒のふたを開け、そっと差し出した。


「口、開けて」


 舞はおそるおそる口を開いた。


「……コク、コク……」


 冷たい水が喉を通り、体の中をゆっくりと潤していった。


「……ありがとう。ちょっと楽になったかも……」


「よかった。……でも、すごい汗だよ」

「え?」


 男の子はポケットからハンカチを取り出し、そっと舞の額を拭いた。


「……ありがとう」


「風邪……なんだよね?」

「うん……。熱っぽくて、ちょっとふらついちゃって……」


「そっか……無理しないほうがいいよ。顔も真っ赤だし……」


 男の子がふと顔を近づける。


「……なんかいい匂いする」

「え、そ、そうかな……」


 舞は思わず顔を赤くした。


「私ね、薔薇のシャンプーとリンス、使ってるの」

「へぇ、すごくいい香りだね」

「……ありがとう」


「あと……服も似合ってるよ。シュシュも可愛い」


「えっ、そ、そう……?」


 ちょっと照れながら、舞は一回くるっと回って見せた。


「どう? 似合ってる?」

「うん、すごく可愛いよ」


 舞ははにかんだように笑って――


「っ……くらっ……!」


 また、バランスを崩しそうになった。


「だ、大丈夫!?」

「だ、大丈夫……ごほっ……」


「ほんとに? 無理しないでよ」


「うん……ごめん……」


 少し落ち着いたあと、舞は顔を上げて訊ねた。


「ねえ……君の名前、教えて?」

「俺は、石神 雄汰。4月8日生まれ、今年から高校1年生」

「私と同い年……。私、桜野 舞。4月1日生まれだよ」


「じゃあ……ほぼ同じだね」

「うん! 幼なじみ、みたいかも!」


 そう言って舞が微笑んだそのとき――


「……くらっ……」

 またふらついた。


「まだ立っちゃダメだって……」


「……うん、わかってる。でも……もう帰らないと……」

「その体調でひとりじゃ無理だよ」


「でも、家で心配されちゃう……」

「心配されてもいい。無理しないのがいちばんだよ」


「……でも……」

「無理っ!」


 2人が言い合っているうちに、また舞の体がふらついた。


「だから言ったのに……! もう、しょうがないな……」


 石神は深く息をついて言った。


「俺が家まで送るよ。ついてきて」

「……ありがとう」


 舞の家の前に着いた頃には、舞の表情も少し落ち着きを取り戻していた。


「本当に、ありがとう……」

「気にしないで。それくらいやらなきゃ、見捨てたみたいに思われそうだし」


「ふふっ、そんなことないよ。でも……助かったよ」


 舞は小さく頭を下げた。


「午後は、ちゃんと安静にしててね」

「うん、わかった」


 石神が手を振る。


「じゃあ、またね」

「うん、バイバイ……」


 石神の背中を見送りながら、舞は胸に手を当てた。


『石神くん……すごく優しい人だな……』


 小さく息を吐いて、ふわりと微笑む。

 けれどその直後、


「ごほっ、ごほっ……」


 咳がこみ上げてきた。


「まだ熱あるのかも……」


 右手で頭を抑えながら、ふらりと自室へ向かう。

 ベッドに身を投げるようにして、ぽつりとつぶやいた。


「……4月2日、疲れたな……でも……」


 目を閉じる。


「……いい日だった……かも」


 そのまま、そっと眠りについた。


 4月3日 午前7時。


「……ん……」


 布団の中で目を開けた瞬間、舞は自分の体がじんわり熱を帯びていることに気がついた。


「……あれ……?」


 額に手を当てると、明らかに熱い。


「……なんか、熱っぽい……ごほっ、ごほっ……」


 のろのろと布団から起き上がり、ふらふらと階段を降りて1階へ向かう。


「お母さん……」


 キッチンにいた母がすぐに振り返る。


「どうしたの? 舞?」

「……なんか……咳が止まらなくて……頭も……くらくらして……」


 顔を見た瞬間、母の表情が変わる。


「顔、真っ赤じゃない。ちょっとこっち来て……」


 母は舞の額に手を当てた。


「熱い……! 体温、測って!」


「……うん」


 リビングの椅子に座り、体温計を脇に挟む。

 時間がやけに長く感じられる。


 ピピッという音とともに表示された数字を見て、舞は声を失った。


「……37.9度……」


「高いじゃない!」

「……うん、昨日も、ちょっと熱っぽかったんだけど……」


「なんで言わなかったの……!」

「……大丈夫だと思ってたの……」


「とにかく! 午前9時になったら病院行くよ!」


「……わかった……」


 午前9時。

 母の車に乗って、近くの病院へ向かった。

 待合室は少し混んでいたけれど、母の隣に座っているだけで少しだけ安心できた。


 1時間ほどで診察が終わり――


「風邪ですね。お薬出しておきますから、しっかり休んでください」


 医師の言葉に、舞は静かにうなずいた。


 帰宅後。


「今日はベッドで休んでなさい」

「……うん、わかった……」


 布団にくるまりながら、舞はぽつりとつぶやいた。


「……どうしよう……風邪、ちゃんとひいちゃった……」


 正午ごろ。


「舞、ごはん食べられそう?」

「……食欲ないよ……」


「そっか……無理しなくていい。でも、水分はとってね」


「……うん……ありがとう」


 母の声が部屋を出ていき、静寂が戻った。


 舞は再び目を閉じて、しばらくまどろんだ。


 夜。

 風邪薬を飲み、喉に優しいお茶を少しだけ飲んで、

 そのまま静かに、深く眠りについた。


 4月4日 午前7時。


「……ん?」


 目を覚ました瞬間、昨日までのような熱っぽさがなかった。


「……なんか、ちょっと楽かも……」


 恐る恐る体温計を手に取り、額に当てる。

 数分後、ピピッという音とともに表示された数字を見て――


「……36.8度……!」


 すぐに1階へ降りていくと、家族がダイニングに揃っていた。


「舞、大丈夫だった?」

「熱、測った?」

「うん、36.8度だったよ!」


 家族全員の顔がほっと緩んだ。


「よかった……!」

「でも今日は無理しちゃだめだよ」

「うん、大人しくしてる」


 その日、舞は一日中家の中でゆっくりと過ごした。

 外にはまだ出なかったけれど、熱が下がった安心感と、家族のやさしさに包まれて――


 心だけは、少し軽くなっていた。


 そして4月5日から7日までは、

 中学の復習をしたり、高校の準備をしたり。

 本を読んだり、ノートを整理したり。

 ゆっくりと、静かに、新しい毎日への心の準備をしていた。


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