第二章 暗躍する男達④

「あの……っ」

 気まずい沈黙を破るように、ミレニエはむっつりと黙りこくっているカイルに改めて頭を下げた。

「今日はいろいろと助けていただき、本当にありがとうございました」

 背負われたり抱き上げられたりした時のことを思い出すと頰に熱がのぼりそうになるが、それについては頭の隅に追いやる。

「……礼など不要だ。ラナジュリア様の御身と名誉をお守りするためにしたことだからな。きみを助けたのは、そのついでに過ぎない」

 口調はぶっきらぼうだが、ミレニエが助かったのはまぎれもない事実だ。

「それでも、助けていただいたことに変わりはありませんから。ただ、その……」

 顔を上げ、おずおずとカイルを見つめる。

「もうひとつだけ、お願いしたいことがあるんです。下宿先のブラン夫人に何か聞かれても、私が男に襲われそうになって足をひねったことは、黙っていてくれませんか?」

 告げた途端、カイルのまゆがきつく寄る。

「俺に噓をつけと?」

「い、いえ! 黙っていてくださるだけでいいんです!」

 あわててかぶりを振るが、カイルの冷ややかなまなざしは変わらない。

「理由もなしにそんなことを言われて、頷けるわけがないだろう」

 カイルの言うことはもっともだ。ミレニエは思い出すだけで湧き上がる胸の痛みをこらえるように、ひざの上でぎゅっと両手を握りしめる。

「その、どこから話せばいいのか……。小さい頃から新聞記者にあこがれていたんですけれど、私が本格的に新聞記者を目指したきっかけは、同じように新聞記者を目指している乳母姉妹のケリーと再会したからなんです……」

 三年前、屋敷を出たミレニエが頼ったのは、自分の乳母を務めてくれていたブラン夫人だった。乳母を辞めたあとも、折にふれてはミレニエと手紙のやりとりをしていたブラン夫人と、乳母姉妹として幼い頃は本当の姉妹のように育ったケリーが、当時のミレニエにとって、信じられる数少ない相手だったためだ。

 新聞記者になりたいと、ゴーディン新聞社で事務員をしながら記者を目指していたケリーと再会したことで、ミレニエは心の奥にしまい込んでいた夢を思い出すことができたのだ。ミレニエにとって、ケリーはいくら感謝しても足りない恩人であり、ミレニエが憧れる目標でもあった。けれど。

「ケリーは、半年前に事故で亡くなってしまって……。ブラン夫人は、ケリーの母親なんです」

 ケリーが事故死した時のことを思い出すと、半年以上経ったいまでも胸が痛んで仕方がない。姉のように慕い、目標としていたケリーが突然いなくなった喪失感は、いまも胸にぽっかりと大きな穴を開けたままだ。

 だが、たったひとりの娘を亡くしたブラン夫人の哀しみはミレニエなどとは比較にならない。

「ケリーが事故死してから、ブラン夫人は前以上に私に対して過保護になって……。私までケリーみたいに急にいなくなったらっておびえているようなんです。私は大丈夫だと何度言っても、ケリーの哀しみが大きすぎて信じてもらえなくて……。もし、私が男に襲われそうになって怪我をしたと知ったら、ひどく取り乱すに違いありません。噓がよくないことは、私だって重々承知しています! でも……。ブラン夫人に、余計な心配はかけたくないんです……っ」

 膝の上に置いた手を、すがるように握りしめる。

 三年前、ミレニエが一番つらかった時に寄り添ってくれたのはブラン夫人とケリーだ。二人がいてくれなかったら、ミレニエはとうに人生に絶望し、家のためだけに息をし、目から光を失くした生きるしかばねになっていただろう。

「お願いです! 黙っていてくださるだけでいいんです! アルリード様に噓をついてくださいだなんて言いませんから……!」

 もう一度頭を下げて頼み込むと、あきらめたような吐息が降ってきた。

「……俺は余計なことを言わない。それだけでいいんだな?」

「っ! はいっ、ありがとうございます!」

 まさかカイルがすんなり応じてくれるとは思わず、息をむ。すぐに笑顔を浮かべて礼を言うと、ふん、と鼻を鳴らしたカイルがそっぽを向いた。

 横顔は不機嫌そうだが、やはり根は悪い人ではないに違いないと改めて思う。

 見るともなしに窓の外を眺める横顔は端整で、いままでの険悪なやりとりがなければ、思わずれてしまいそうだ。そんなことを考えてしまった自分にうろたえ、ミレニエは動揺をごまかすように問いかける。

「あの……。アルリード様は、今日の男達は何者だとお考えですか?」

 レルディールの婚約者になるということは、この豊かなブリンディル王国の次期王妃になるということだ。婚約者候補は、ラナジュリアだけでなくタンゲルス王国の王女や、国内の有力貴族の令嬢達と数多くいる。婚約者の座を巡って、様々な思惑が絡みあっているのは想像に難くない。

 貴族達の派閥も、親マルラード王国派、親タンゲルス王国派、中立派、国内の令嬢からめとるべきだと主張する派閥、果ては次期国王にふさわしいのは第二王子のアルガイルだと主張する派閥など、さまざまに分かれている。

「王太子殿下との婚約を阻止したいどこかの派閥からの差し金でしょうか……?」

 それだけではない。マルラード王国の保守派の貴族達の中には、女性の地位向上を目指すラナジュリアの施策を、伝統的な社会秩序を脅かすとして敵視している者も多いらしい。

「それとも、マルラード王国の保守派でしょうか?」

「マルラード王国の者なら、わざわざブリンディル王国に殿下がいらっしゃる時を狙う必要はあるまい」

「誰もがそう考えるからこそ、あえて訪問中を狙っているという可能性も考えられます」

「なるほど。そういう理屈も……」

 思わずといった様子でミレニエの言葉に腕を組んだカイルが、はっと我に返ったようにひとつせきばらいするとミレニエをにらみつける。

「だが、真相がどうであれ、きみには関係ないことだ。これ以上、首を突っ込もうなんて考えるな」

「それを決めるのはアルリード様ではありません」

 いままでのお返しとばかりにつん、とそっぽを向く。

「私は記者です。隠された陰謀があれば、真実を追いかけるのは当然のことでしょう?」

 ラナジュリアの独占取材というだけでも一面を飾れる可能性はあるが、そこに陰謀まで加われば、一面に載ること間違いなしだ。何があろうと引く気はない。

 固い決意を込めて告げると、カイルが手に負えないとばかりに嘆息した。

「そのせいで身を危うくしたらどうするつもりだ? 先ほど男に襲われかけてたというのに……。きみが言うブラン夫人の心配も、あながち間違いと言えないのではないか?」

「っ!」

 カイルの指摘に反射的に身体に震えが走る。助けられたあとのごたごたで心の片隅に追いやられていたが、男に襲われかけた時のことを思い出すと、勝手に身体が震え出してしまう。

「……悪い。失言だった」

 震えをこらえようと唇をみしめたミレニエの様子を見たカイルが、気まずげに謝罪する。

「い、いえ……。ですが、記者として陰謀がたくらまれているかもしれない事態を放っておくなんてできませんから!」

 挑むようにきっぱりと告げたところで、カイルが返事をするより早く馬車が停まった。御者がブラン夫人の家に着いたと教えてくれる。

「アルリード様の的確な手当てのおかげで痛みもかなり引いてきていますし、ちゃんとひとりで降りられますから!」

 また抱き上げられてはかなわない。そんなところをブラン夫人に見られたら、腰を抜かすに違いない。先手を打ってくぎを刺すと、目をしばたたいたカイルがくすりと口の端をり上げた。

「わかった。エスコートだけにとどめよう」

 そう言ったカイルがミレニエの鞄を手に取り、御者が開けた扉からさっと降りる。続いてミレニエも足が痛まないかと心配しながらそろそろと立ち上がったが、幸いわずかな痛みしか感じない。しっかりと包帯で固定されているおかげだろう。

 カイルの手を借りて馬車から降り立ったところで、馬車の音に気づいたのだろうブラン夫人が、家の扉を開けて外へ出てきた。ミレニエの姿を見た途端、あわてた様子で駆け寄ってくる。

「お嬢様っ! いつもの時間に帰ってこられないので、何かあったのかと……っ!」

 ふだん新聞社から帰ってくる時間より少し遅いくらいで、まだ陽も沈みきっていない時間だ。ブラン夫人の心配っぷりに苦笑しながら、ミレニエは抱きしめんばかりに取り縋ってきたブラン夫人を穏やかな声でなだめる。

「大丈夫よ。まだそれほど遅い時間ではないわ。けれど、心配をかけてごめんなさい。でもお嬢様はやめてちょうだい。私はもう家を出た身ですもの」

 乳母だったブラン夫人はいつまでもお嬢様扱いするが、二十歳になったのだから、人前ではさすがに恥ずかしい。

 ミレニエの言葉に、ブラン夫人はようやく隣に立つカイルの存在に気づいたらしい。

「お嬢様、こちらの御方は……?」

 といぶかしげにまゆをひそめる。一礼したカイルの所作は優雅なことこの上なかった。

「初めまして、カイル・アルリードと申します。このたびブリンディル王国へ視察に来られたラナジュリア王女殿下の近衛このえ騎士を務めております」

「まぁっ! マルラード王国の王女殿下の……!?」

 ブラン夫人の目がきようがくに見開かれる。

「そうなの。王女殿下の記者会見の取材に行ったのだけれど、その、うっかり階段で転んで足を痛めてしまって……。殿下がご厚意で馬車をお貸しくださったの」

 黙っていてくれると約束したものの、カイルが余計なことを言わないうちにと、ミレニエは早口で告げる。

「なんてことでしょう! お嬢様がお怪我をなさるなんて……っ!」

「でも、ちゃんと手当てもしていただいて、もう痛みもほとんどないのよ。だから、安心してちょうだい」

 せ気味の背中をなだめるようにでると、ブラン夫人が感謝のまなざしをカイルに向けた。

「お嬢様の手当てまでしていただき、なんとお礼を申し上げればよいか……っ! 嫌だ、私ったら、お嬢様の恩人を立たせたままにしてしまって……。どうぞ、お上がりください。お茶をお出しいたします」

「いえ、お気持ちだけいただきましょう。申し訳ありませんが、このあと屋敷に戻って護衛の任につかねばなりませんので」

 ブラン夫人の申しでにカイルは穏やかな笑みを浮かべてかぶりを振る。

「それより、ルーフェル嬢が『お嬢様』というのは……?」

 ミレニエが止めるより、ブラン夫人が答えるほうが早かった。

「いまでこそ市井でお暮らしになっていますが、ミレニエお嬢様は、ルーフェル伯爵家のれっきとしたご息女でいらっしゃるのですよ!」

「伯爵家の……!?」

 胸を張って告げたブラン夫人の言葉に、カイルが目をみはる。

「確かに、庶民にしては所作が洗練され過ぎているとは思っていたが……」

「自分が令嬢らしくないのは承知しています。──アルリード様、本日は誠にありがとうございました。どうか、王女殿下にも私が深く感謝していたとお伝えくださいませ」

『貴族令嬢がお遊びで記者をしているのか』と、これまで幾度となく投げられたべつの言葉を聞きたくなくて、スカートをつまんで優雅に一礼したミレニエは、カイルが片腕に抱えていた肩掛けかばんを手に取る。

「まだお役目が残ってらっしゃるのでしょう? 私はもう大丈夫ですから。どうぞ、殿下のもとへお戻りください」

 顔を上げ、一分の隙も無くにっこりと笑って告げると、凍りついたように動きを止めていたカイルがぎこちなくうなずいた。

「ああ……。明日は昼過ぎに迎えにくる」

「ありがとうございます。明日は出社するので、ゴーディン新聞社へお願いします」

 ミレニエの言葉に頷いたカイルが馬車に乗り込み、御者が手綱を操る。

「お嬢様。本当にお怪我は大丈夫なのですか?」

 馬車を見送る間もなく心配そうに尋ねてくるブラン夫人に「ええ、もちろん大丈夫よ」と微笑みかけると、ミレニエは夫人を促して家へと入った。

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