第7話白河光は、推されないことを誇りにしてる



 梅雨入り前の蒸し暑い午後。

 体育の授業で、クラス対抗リレーの練習が行われていた。


「白河! お前もちゃんと走れよ!」


 大我廉が、ベンチに座っている光に向かって叫んだ。

 光は顔も上げずに答える。


「俺はいい」


「はぁ? クラス全員参加だぞ」


「体調不良ってことにしといてくれ」


 廉の顔が、みるみる赤くなった。


「てめぇ、いい加減にしろよ!」


 廉が光の胸ぐらを掴もうとした瞬間──


「やめて!」


 天音そらが、二人の間に割って入った。


「天音……」


 廉が眉をひそめる。


「なんでお前が庇うんだよ」


「それは……」


 そらは言葉に詰まった。

 理由なんて、説明できない。


 光が立ち上がった。


「別に庇ってもらう必要はない」


 彼は、そらを一瞥することもなく、廉の方を向いた。


「俺は誰にも期待されない方が、自由だから」


 その言葉に、周囲の生徒たちがざわついた。


「自由? 何それ」

「推されたくないとか、変なやつ」


 でも光は、まったく動じない。

 むしろ、薄く笑みさえ浮かべていた。


「期待されないってことは、失望させることもない。誰も傷つけない。最高だろ?」


 廉が拳を握りしめた。


「……お前、マジで言ってんのか」


「ああ」


 光は肩をすくめた。


「お前らみたいに、ポイントのために必死になって、誰かの顔色うかがって、それで何が楽しい?」


 廉の顔が、怒りで歪んだ。


「てめぇ……!」


「廉くん、やめよう」


 姫野ルナが、廉の腕を掴んだ。


「こんな人、相手にする価値もないよ」


 ルナは光を冷たく見下ろした。


「推されることを否定するなんて、この学園にいる資格ないわ」


 光は鼻で笑った。


「資格? 誰が決めたんだ、そんなもの」


「みんなが決めたのよ。社会のルールよ」


「じゃあ、俺はそのルールから降りる」


 光はポケットに手を突っ込んで、グラウンドを去っていく。

 その背中を、クラスメイトたちが複雑な表情で見送った。


 そらは、その場に立ち尽くしていた。


(本当に、そう思ってるの?)


 光の言葉には、確かに力があった。

 でも、そらには別の何かが聞こえた気がした。


 痛み、とでも言うような。


 放課後。

 そらは、いつものように図書室にいた。

 でも、本を読む気にはなれなかった。


(光くんは、本当に自由なの?)


 確かに、誰の期待も背負わない生き方は、楽なのかもしれない。

 でも──


「そら?」


 アオイが心配そうに覗き込んできた。


「また白河くんのこと?」


「……うん」


 そらは正直に答えた。

 アオイの前では、嘘をつけない。


「なんで、そんなに気になるの?」


 アオイは、そらの隣に座った。


「だって……」


 そらは、言葉を探した。


「光くん、『自由だ』って言ってたけど、全然自由に見えなくて」


「どういうこと?」


「誰からも推されないことを選んでるんじゃなくて、推されることが怖いから逃げてるような……」


 アオイは、ため息をついた。


「そら、あなたって本当に……」


「変?」


「ううん。優しすぎる」


 アオイは、そらの頭を軽く撫でた。


「でも、相手が拒絶してるなら、それを尊重するのも優しさだよ」


 そらは、膝を抱えた。


「そうかもしれないけど……」


 その時、図書室のドアが開いた。

 入ってきたのは──光だった。


 彼は、そらたちに気づくと、一瞬立ち止まった。

 でも、すぐに奥の本棚の方へ歩いていく。


「行かないの?」


 アオイが小声で聞いた。


「……うん」


 そらは、じっと光の背中を見つめていた。


 光は、歴史の棚の前で立ち止まった。

 何か本を探しているようだった。


 やがて、一冊の本を手に取る。

 それは『孤高の英雄たち──誰にも理解されなかった偉人伝』というタイトルだった。


 そらの胸が、ちくりと痛んだ。


(やっぱり……)


 光は、席に着いて本を開いた。

 その横顔は、どこか寂しげに見えた。


 アオイが、そらの肩を軽く叩いた。


「私、先に帰るね」


「え? でも……」


「がんばって」


 アオイは、小さく微笑んで図書室を出ていった。


 図書室には、そらと光だけが残された。

 静寂の中、ページをめくる音だけが響く。


 そらは、意を決して立ち上がった。

 そして、光の向かいの席に座る。


「……何」


 光が、本から目を上げずに言った。


「その本、面白い?」


 そらの問いに、光は少し驚いたような顔をした。


「別に」


「じゃあ、なんで読んでるの?」


 光は、ようやく顔を上げた。


「理解されなかった人間が、どう生きたか知りたくて」


 その答えに、そらは息を呑んだ。


「光くんも、理解されたくないの?」


「……逆だ」


 光は本を閉じた。


「理解されたいなんて思わない。期待もされたくない。それが一番楽だ」


「本当に?」


 そらは、まっすぐ光を見つめた。


「本当に、それでいいの?」


 光の表情が、一瞬揺らいだ。

 でも、すぐに元の無表情に戻る。


「いいも悪いもない。俺が選んだ道だ」


「でも──」


「天音」


 光が、初めてそらの名前を呼んだ。

 そらの心臓が、どくんと跳ねる。


「お前は、なんで俺にこだわる」


 その問いに、そらは答えられなかった。

 推しだから、なんて言えない。

 でも、それだけじゃない気もする。


「……分からない」


 正直に答えた。


「ただ、光くんを見てると、苦しくなって」


 光の眉が、かすかに動いた。


「苦しい?」


「うん。なんか、無理してるみたいで」


 そらは、テーブルの上で手を組んだ。


「『自由だ』って言ってるけど、本当は一人ぼっちで寂しいんじゃないかって」


 図書室の空気が、張り詰めた。

 光の顔が、みるみる硬くなっていく。


「……余計なお世話だ」


 光が立ち上がった。


「俺のことは、放っておけ」


「待って」


 そらも立ち上がる。


「なんで、そんなに拒絶するの?」


「拒絶?」


 光が振り返った。

 その瞳には、冷たい炎が宿っていた。


「違う。俺は自分を守ってるだけだ」


「何から?」


「期待から。希望から。そして──」


 光は言葉を切った。

 そして、自嘲的に笑う。


「失望から、だ」


 そらの胸が、締め付けられた。


「誰かに失望されるのが、怖いの?」


「……」


 光は答えなかった。

 ただ、拳を握りしめている。


「俺は、もう誰の期待にも応えたくない。応えられない」


 その声には、深い諦めがにじんでいた。


「前は、違ったんでしょ?」


 そらの言葉に、光の肩がぴくりと動いた。


「3年前の投稿、見たよ。すごく楽しそうだった」


「……見るな」


 光の声が、震えた。


「あの頃の俺は、もういない」


「でも──」


「いないんだ!」


 光が叫んだ。

 図書室に、その声が響き渡る。


 そらは、びくっと身をすくめた。

 光も、自分の大声に驚いたようだった。


 沈黙が、二人を包む。


 やがて、光が口を開いた。


「……あの頃の俺は、バカだった」


 その声は、ひどく疲れていた。


「みんなの期待に応えられると思ってた。応援されることが、力になると信じてた」


 光は、窓の外を見た。


「でも、違った。応援は、呪いだ」


「呪い……?」


「ああ。期待が大きければ大きいほど、失望も大きくなる。そして、その失望が……」


 光は言葉を飲み込んだ。


 そらには、その先が分かった気がした。

 失望が、誰かを傷つけた。

 きっと、取り返しのつかないほどに。


「だから、俺は決めたんだ」


 光は、そらを見た。

 その瞳は、ひどく澄んでいた。


「もう二度と、誰の期待も背負わない。誰にも推されない。それが、俺の生き方だ」


 そらは、何も言えなかった。

 光の決意は、固かった。

 でも──


(それって、本当に生きてるって言えるの?)


 光は、図書室を出ていく。

 その背中が、ひどく小さく見えた。


 一人残されたそらは、椅子に座り込んだ。


(光くん……)


 テーブルの上には、光が読んでいた本が置き忘れられていた。

 そらは、そっとページを開く。


 そこには、赤い線が引かれていた。


『真の孤独とは、一人でいることではない。理解されることを諦めることだ』


 そらの目に、涙が浮かんだ。


(やっぱり、寂しいんじゃない)


 その夜。

 そらは、ベッドの中で考えていた。


 光は、推されないことを誇りにしている。

 でも、それは本当の誇りなのか。

 それとも、傷つくことから逃げるための、言い訳なのか。


(分からない……)


 でも、一つだけ確かなことがあった。


(私は、光くんを放っておけない)


 理由は、まだよく分からない。

 でも、この気持ちだけは確かだった。


 窓の外で、雨が降り始めた。

 梅雨入りが、近づいていた。

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