【第4話】野獣の目覚め

 喧嘩祭りが終わったというのに、闘技場の裏通路にはまだ熱気の名残が漂っていた。


 「……おい、待てっつってんだろ!」


 ラキエ・ププアが苛立ちを隠さぬ声で叫ぶ。彼の視線の先、観客席の陰をすり抜けるようにして闘技場を出ていく一人の男がいた。

 ギル・ボアーレ――“幸運の男”と呼ばれた無口な戦士だ。


 「おいおい……」


 そのすぐ後ろで、シエラ・ハウマールはやれやれと肩をすくめながら、ラキエの後を追う。


 ――観客の歓声も引き、会場からは人々のざわめきが徐々に薄れていく。

 その中を一人、ギルは足を止めることもなく、淡々とコロッセウムの外へと歩いていた。


 「なあ、アイツ今どこ向かってんだ? 宿か? 逃げようとしてるんじゃねーだろうな」


 「いや、たぶん……あれは歩いてるだけだ」


 「歩いてるだけって、何だそりゃ」


 シエラの言葉を理解しきれぬまま、ラキエは早足で階段を駆け下りる。まるで獲物を逃すまいとする獣のように。


 やがて、コロッセウムを抜けた先の大通りで、ギルの背中を見つける。


 「よう、幸運の男さんよ――ちょっと面貸せよ」


 ラキエの呼びかけに、ギルは何も言わずに振り返る。その瞳には怒りも戸惑いもなく、ただ無表情な静けさだけがあった。


 「さっきの結果には納得いかねぇ。運で勝っただのなんだの、言われたまま終わってたまるかよ。今度こそ、真正面から殴り合おうぜ」


 ギルは何も言わない。ただ、わずかに顎を引き、再び歩き出す。それが答えだった。


 「……あーあ、ホント付き合わされる身にもなれっての」


 ぼやきながらも、シエラもその後に続く。三人はそのままコロッセウムから街外れの広場へと向かった。


 夕陽が街を赤く染め始める頃――


 開けた広場にたどり着いた三人は、互いに無言で距離を取った。


 「さあて……今度は“運”じゃなく、“拳”で勝負つけようぜ」


 ラキエが構える。対するギルは、依然として一言も発せず、ただその場に立つ。


 次の瞬間、ラキエが吼えたように踏み込んだ。


 「オラァッ!」


 轟音のような拳が、広場の地面を抉る。ギルはそれをその場でいなす。


 「ほぉ……いいねぇ!」


 ラキエの拳が風を裂くたび、地面にヒビが走る。観客のいない空間に、激音だけが響く。


 息つく間もなく繰り出させる乱撃の爆音と共に土煙が舞い上がった。


 「ハッ、これで終わりだろ!」


 ラキエが自信満々に叫ぶ。巻き上がる砂煙が、視界を完全に覆っていた。


 しかし次の瞬間、煙が晴れ――その中央に、無傷のまま立つギルの姿が現れた。


 「なっ……!?」


 ラキエの目が見開かれる。


 その動揺からなのか全身から力が抜け、思わず膝をつく。


 ギルが一気に間合いを詰める。


 とっさにシエラがラキエを抱え込み、ギルの突進を後方にかわす。


 ギルはその場で振り返った。赤い夕陽に照らされたその顔――否、その風貌は、もはや人ではなかった。


 目が爛々と輝き、息が荒く、口の端からは唸り声が漏れている。


 「――獣、か?」


 シエラが息を飲んだ。その直感は間違っていなかった。


 ギルは吼えた。けたたましい咆哮が広場を震わせ、鳥たちが一斉に空へ舞い上がる。


 その気迫にシエラは一瞬足を止めるが、すぐに体を捻り一瞬も目を逸らさず、ギルの連撃をすれすれで避け続けた。


 激しいの攻防の最中、周囲にはいつの間にか、戦闘の轟音に気づいた住民たちが集まり始めていた。


 それを見たギルは突然跳躍し、屋根伝いに走って街を離れていく。


 「……速っ!」


 その姿はまさに、野生の獣そのものだった。


 「う、うぅ……」


 ラキエがゆっくりと目を開ける。


 「ようやく起きたか」


 「な、何が起きた……?」


 「お前、あいつに完封されかけたぞ。俺が止めなかったら今頃……って感じだな」


 シエラの言葉に、ラキエは顔をしかめる。


 「……ッ、クソッ!」


 拳を握りしめるラキエ。悔しさと屈辱に満ちた顔が、夕暮れに沈んでいく。


 「……ほっとけねぇな、あいつ」


 シエラがふと呟いた。


 「んだと?」


 「いや……ギル、あのまま放っといたらまずい気がする」


 そう言い残し、シエラは立ち上がる。


 「お前はここにいろ。俺がアイツを追う」


 「おい、勝手に決めんなよ!」


 「今のお前じゃ勝てねぇよ、ラキア」


 その言葉に、ラキエは返す言葉を失った。


 ――ギルを追いかけるシエラ。


 街行く人々の情報を頼りに足取りを追っていくと、「裏山の方へ逃げていった」との情報を得たのだが……


 「裏山だって? あそこは……やめとけ!」


 住民の男がシエラの肩を掴んで制止する。


 「なんでも、あそこには“人喰いの化け物”がいるって話だ」


 「ふーん……じゃあちょうどいいじゃん。化け物同士、お似合いだ」


 シエラは軽く手を振り、住民たちの制止を振り切って裏山の道を駆け上がっていった。


 山道を登る頃には、すでに空は赤から群青に変わりかけていた。


 「日が暮れるな……」


 呟きながら、シエラは木々の間を縫うように進む。


 やがて、鬱蒼とした木々の奥に、ぽつんと佇む小さな山小屋を見つけた。


 「こんなとこに……?」


 警戒しつつ、そっと扉を押し開ける。


 中は薄暗く、獣のような、荒々しい鼻息が空気を揺らしていた。


 「――なんだ?」


 目を凝らすと、そこには――闇に潜む"何か"があった。


 だが、その何かは……まるで生き物のように、息を荒げ、ただじっとこちらを睨みつけていた。


 「――獣、か?」

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