最終話 昇華する山神

 初夏が訪れ、雪解けの風が湖面を柔らかに撫でていた。短くも鮮烈な輝きを放つ北国の夏が、今まさに幕を上げようとしていた。


 おぼつかない足取りで歩いていた半年前、母を失った子グマを山の中で町人が見かけたと、徳次郎の耳にも届いていた。

 子グマは寂しげな眼差しで、森に横たわる倒木をひとつずつ越えていった。その姿は、誰に教わるでもなく生きようとする、小さな命そのものだった。


 アシリは、誇り高き文化を受け継ぐアイヌの父と、北の大地に根を張る母との間に生まれた娘だった。

 両親の深い愛情に包まれ、しなやかで折れない心を育んだが、時折、胸の奥に沈む小さな棘のような孤独が、森の静寂の中でふと疼くことがあった。そんなとき、森の匂いと風の音だけが、彼女をそっと癒してくれた。


 母グマの魂が「ポクナモシリ」へと昇華したと伝わる森の湖畔には、いつしか一対の木彫りの像が立っていた。その名は「トゥレンカムイ(憑神)の祈り」。


 木彫り像のどこを探しても作者名は刻まれていない。子を抱きしめるように身を寄せ、小さな命を守ろうとする母の姿。ぬくもりを求めて安らぐ子の表情は、今にも動き出し、言葉を紡ぎそうなほど生き生きとした情感を宿していた。


 *

 黄昏どき、徳次郎はその木像の前に立っていた。


 かつて手にした猟銃は、今では埃を被っている。錆ついた銃を「二度と使うまい」と心に誓った男の足もとには、一輪のクロユリが置かれていた。それは、若き日の彼が今は亡き妻と出会ったコタンの森で、彼女が好きだった花だった。


「おまえは、よくこの花を大切にしろと言ってくれたな。森の恵みと、その境界を忘れるなと……。だが、俺たちは守れなかった。町の誰もが、森のささやきに耳を貸そうとはしなかったんだ」


 徳次郎は膝をつき、木像を見上げた。胸の奥では、自分への深い悔恨と母グマへの哀悼が慈しむように渦を巻いていた。ふと、背後に落ちる影に気づく。それが誰なのかは分かった。アシリだった。


 彼女は何も言わず、ただ目頭を熱くする徳次郎の傍らに立った。言葉の代わりに、そっと首を垂れ、彼の肩先に寄り添う。その胸に宿る痛みが、自分の胸をも裂くように伝わってくる。


 母グマが倒れた日の森の匂いと、胸を裂いた赤く湿った土の光景が、風にちぎれた葉の青さとともに、ふっと息を吹き返す。あの悲惨な気配が、今もなお消えぬ幻のように漂っていた。


「アシリ……」

 徳次郎が口を開き、アシリが続いた。


「一発の銃弾が、大切な命を奪ったんです」

 そう告げるアシリの声は、震えていた。


「卑怯な奴だけは、本当に許せなかった」

 白樺の葉が風に揺れ、声なき祈りを運んでいく。


「でも、あの命はきっと私たちの中に生き続けています」

「そのとおりだ」

 徳次郎が頷き、彼女はその表情を確かめるように見つめ、囁いた。

「だから、心の破魔矢で……最後まで見送るんです」


 ふたりは涙をこらえながら語り合った。アシリは、動物の牙をあしらった小刀マキリで像を彫った夜を思い返す。


 涙で視界が滲み、何度も手が止まったが、母グマの息づかいだけは失うまいと、震える指で祈りを刻んだ。その言葉に、徳次郎の胸の奥で燻っていた悲しみが、ゆるやかにほどけていくようだった。


 *

 やがて、森の奥から篝火が揺らめき、古式の舞で追悼する人々のカムイノプ(神の歌)が、ひとつに重なって響いてきた。


 その火影の中、踊り手たちは藍の刺し文様をまとったアットゥシに帯を締め、厳かに舞い始めた。衣の曲線が篝火に揺れ、祈りの気配が闇へと溶けていく。アイヌの崇高な歌声は、「命は巡る。魂を忘れぬ限り」と遠くへ広がっていった。


 レラカムイ 風の神よ

 トゥレンカムイ 森の神よ

 イコロ(宝)を守りし母の魂を

 清き風に 連れゆきたまえ


 大地に還れ 白き息

 空へ昇れ 母のまなざし

 われら忘れず 祈りを継がん



 翌日の朝、徳次郎は町の仲間たちと湖畔に集い、声を潜めて手を合わせ、豊かな森の神へ感謝の想いを捧げていた。昨日までの喧騒は消え、澄んだ静寂が少しずつ戻っていた。


 いつしか、町の中心部に掲げられていた熊の駆除を称える飾りや看板は、すっかり姿を消した。その跡には、アシリが彫った、笑みを浮かべ破魔矢を手にしたコロポックルが据えられた。それは、人とクマの融和を願う象徴のようだった。


 白南風しろはえがまた湖をそよそよと撫でるように渡り、白く光る波紋が水面に広がっていく。湖の畔には、麦わら帽子をかぶった親子の姿があった。母の影に寄り添いながら、子どもが像を見上げてつぶやく。


「このクマ……泣いてるよ」


 母親は微笑み、何も言わずに頷いた。やがて子どもの手を包み込み、胸の内で眠っていた言葉を、震える声で囁いた。


「ありがとう。子グマの命は守ってくれて」


 そこへアシリが近づき、恥ずかしそうにする子どもに声をかけた。


「大丈夫だよ。悲しい涙だけじゃないんだ。きっと、嬉しいんだよ。みんなが、命の重さに気づいてくれたから」


 アシリ自身も、胸の痛みが、ようやく安らかな祈りへと姿を変えつつあるのを感じていた。子どもはかわいい手で像を撫で、黒ユリのそばに、淡いクリーム色のオオウバユリを添えた。


 並んだふたつのユリは、アイヌの人々がこよなく愛してきた花だった。


 その瞬間、初夏の気配をまとったつむじ風が、羽音のような余韻を空に描いて過ぎていった。湖の水面は光の粒を散らし、祝福のようにきらめいた。


 風の歌だけが響き渡る――「白き息、森を越えて命の記憶を運びゆく」。


 母親の清らかな魂は消えることなく、風となって森を巡り、湖面を渡り、子グマの未来を、そして北国の大地のすべてを、やさしく見守り続けているかのようだった。


 〈――完――〉

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