第三話 慟哭招く銃弾

 居酒屋の隣にある土産物屋の片隅で、若き木彫り職人のアシリが、ひとり黙々と三角刀を握り、木に向き合っていた。


 祖母から受け継いだ彫刻刀のひとつを、大きな鮭をくわえたクマの彫り物にそっと当てるたび、木の奥からかすかな命の鼓動が伝わるようだった。


 刃先がオンコの木をかすめるたび、静かな工房には生き物の気配が宿り、時間さえもゆっくりと流れていくように感じられた。


 だが、遠くのコタンの森からは、クマ退治の喧騒が風に乗って届く。人々の興奮した声が、彼女の胸の奥をざわつかせた。


 不安と焦燥が静寂を破り、アシリの握る刀の先に微かな震えが走る。木彫りのクマたちは、まるで彼女の心を映すように、黙って見守っていた。


 店頭には、彼女が最初に彫った笑顔のコロポックルが飾られていた。アイヌの伝承に登場する、夜中にそっと食べ物を届ける慎ましい妖精。その姿は、どこか彼女自身にも重なって見えた。


 祖母はかつてこう語っていた。


「あのクマたちは、孤独な神さまなんだ。悪いもんじゃないんだよ」


 その教えを思い返しながら、アシリは蒼穹に祈りを託した。レラカムイ──風の神に、平穏を祈る声が乗せられ、森の奥へと届いていった。


 *

 雪が止み、雲間から光が差し込む。徳次郎は雪を踏みしめながら、山の奥へと分け入っていった。


 斜面の白い雪原には、ふたつの足跡が並んでいた。ひとつは大きく、もうひとつはそのすぐそばに寄り添うように、小さく刻まれていた。


「子グマがいるな。……ってことは、親グマも近くにいる。まだそんなに時間は経っていないはず」


 徳次郎の呟きは、同行する役場職員たちの胸に不安の波紋を広げた。彼は白樺の木々を見つめながら言葉を続けた。


「昨年の夏が暑すぎて、ドングリが育たなかった。だから食べ物を探して、洞穴から出てきたんだ」


 森の上空では報道ヘリの唸りが響き、町役場は「観光促進」と「安全確保」を掲げて、警察とともにクマ狩りを開始した。若者たちはドローンを片手に無断で山へ入っていく。


 周囲の喧騒を背に、アシリは固い決意を胸に聖なる森の結界へ向かっていた。チノミシリ──アイヌの聖域へと続く登山口に立ちはだかり、侵入者をまっすぐに見据える。


「この山も森も、神々の聖地だ。私欲にまみれた人間のものじゃない。一歩たりとも踏み入れるな。クマを脅かし、魔物に変えてしまうな」


 彼女の声に呼応するように、風が雪の結晶を舞い上げ、森の奥からは命の気配が立ち上がる。居合わせた者たちは声を失い、その響きに身を沈めるしかなかった。


 *

 同じころ、コタンの森の聖域では、子を連れた母グマがどこか不穏な気配を感じ取り、木立に身を潜めながら我が家の洞穴へと急いでいた。


 母グマの背中に刻まれた古傷が、冷気に触れてじんと疼いた。かつて猟師に撃たれたときの記憶が、雪の匂いとともに胸の奥でざわめいていた。


 それでも母グマは牙を剥くことなく、ただ子を守ろうと雪を一歩ずつ踏みしめて進んでいた。子グマは母の温かさを頼りに必死でついていったが、疲れと寒さがその細く弱い足を鈍らせていた。


 まさにその瞬間、雪と影が交錯する森に異様な気配が走った。外国製の銃を肩に下げた男が、冷ややかな視線で獲物を狙っていた。けれど、母グマは身に迫る脅威に気づかず、再び同じ猟師の照準に捉えられていた。


 風が森を揺らし、シマフクロウが木立を縫って飛び交う。雪原には迫る足音が緊迫した鼓動を刻んでいた。


 男は焦らずに銃口を持ち上げた。冷たい銃身の金属が手のひらに吸いつくように重い。カチリとセーフティレバーを外す音が、森の静寂を切り裂く。

 照準スコープを覗き込むと、視界の中心に母グマの胸元が大きく脈打つように揺れていた。男の喉がゴクリと鳴り、指先がわずかに震える。引き金までの距離が、やけに遠く感じられた。


 傍らの子グマがぬくもりを求めてすり寄ると、母グマはためらいを呑み込み、そっと我が子の身体を遠ざけた。未来へ送り出すための、静かで切なる決断だった。


「撃つな!」「撃たないで!」


 徳次郎の怒声が、アシリの絶叫に重なる。ふたりの目は寸分たがわず、銃を構えた男のあとを追い、接近していた。


「やめろ、見ろ!」

「あれは、ただの親子よ!」


 だが、ふたりの叫びに背を向けるように、引き金はすでに絞られていた。乾いた銃声が天空を裂き、母グマの胸を撃ち抜いた。その巨体は、ゆっくりと、まるで森と一体になるように雪へと沈んでいった。


 弾丸がパンと放たれた瞬間、遠い空の奥で雷鳴がざわめいた。天と地を結ぶ風の神レラカムイが、母の魂をそっと抱き上げ、白き結晶の風に乗せて、空の彼方へと送り出した。


 母グマの瞳は最後までこよなく愛した我が子を見つめていた。


 怨嗟もなく、ただ深く、すべてを受け入れるかのように。まさにその瞬間、森を渡る風が木々を震わせ、ひとひらの雪が空へと舞い上がった。

 森そのものが命の挽歌を奏でているかのようだった。白く透き通る雪の結晶は、母の魂が風に抱かれ、静かに空へ昇っていった。


 子グマは母のもとへ駆け寄り、身を縮めて顔をうずめた。冷えきった頬を母の身体に押しあて、震える幼い身体は、なおもぬくもりを求めて離れようとしなかった。


 アシリは赤く染まった雪を踏みしめて歩み寄り、母グマの亡骸に膝をつき、凍えた毛並みにそっと手を添えた。


 張り裂けそうな胸を押さえながら、彼女は子グマに言葉を託した。


「お母さんのぶんまで、強く生きて。森の中で、きっとあなたを見守ってるから」


 母グマは、弔いの調べを奏でる森そのものの息吹──トゥレンカムイの魂をその身に宿していたのかもしれない。


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