17

 ボクたちは今日も屋上で稽古をしていた。

 オーディションの台本はないから、一人芝居の時のようにフリーの台本を使って稽古をする。

 もちろん、ジャンルは王子様とお姫様が出てくる恋愛モノ。

 ボクが王子様役で麗寧がお姫様役だ。


「今回はこの舞踏会シーンを中心に稽古をしていこう」


 麗寧は台本のとあるページを開いて、ボクにそれを見せてきた。

 今回の台本は中世ヨーロッパが舞台で、王子様とお姫様の出会いから結婚、果ては彼らの最期までを描いた物語だ。

 そして麗寧が指し示したのは、その中でも一番最初に盛り上がるシーンだった。


「わかった」


 ボクは小さく頷く。

 そしてボクたちは演技を始める。


 屋上の中心で、ボクと麗寧は向かい合って立つ。

 そこからボクはサッと膝立ちの体勢になる。


「僕と踊ってくださいますか」


 ボクが恭しく手を差し出すと、麗寧は小さく微笑んでみせた。


「もちろん」


 ボクの差し出した手に、麗寧がそっと手をのせる。

 その手をゆっくり優しく握って、ボクは静かに立ち上がった。

 そうしてボクと麗寧は……。



《王子と姫は互いに微笑み合うと、音楽に合わせてダンスを始める。

 来賓たちはそれを遠巻きに眺めていたけれど、二人の目にはもう一人も映ってなどなかった。

 王子と姫は二人の世界で楽しげにステップを踏む。

 やがてダンスは終わる。

 来賓たちがそれぞれダンスを踊り始める中、その騒ぎに乗じて王子と姫はこっそりとバルコニーへと抜け出す。

 会場の喧騒は遠く、夜空には綺麗な満月が浮かんでいる。

 王子と姫は身体を寄せ合う。

 二人は楽しげに笑い合う。

 ふと王子は姫の頬に触れて、こう言うのだ》

『あぁ、君はどうしてそんなにも美しいのだろう』

《姫は微笑んで、頬に触れている王子の手に優しく触れる》

『あなたもとても素敵よ』

《二人は顔を寄せ合う。

 そして二人は静かに、口づけを交わす――》



 ここは寸止めで終わらせる予定だった。

 だからボクは安心していた。

 そんなことは考えてすらいなかったんだ。

 それなのに……。


 

 ――麗寧にキスをされていた。


 

 顔を離した麗寧が熱っぽい瞳でボクを見ていた。

 ……え? なにこれ。

 ……どういう、こと?


 されたことはわかる。

 わかるけれど……、何がなんだかわからない。

 ただなんというか、麗寧の唇の柔らかさが気持ちよかった……。


 麗寧がそっとボクの頬を撫でる。

 ボクは動くことができなくて、ただ麗寧の瞳を見つめる。

 そして、またキスをされる。


 どうして、麗寧の唇はこんなにも柔らかいんだろう。

 ボクはどうして、麗寧にキスされているんだろう。

 

 ……まあ、なんでもいいか。

 今はただこの気持ちよさに身を任せていたい。

 それだけで今は――。


 

 そうやって一瞬、その気持ちよさに飲み込まれそうになった。

 その時、ボクはコーヒーの苦味を思い出す。

 ――急激に頭が冷えた。


 

 パッと麗寧を押し除ける。

 不思議そうな顔をする麗寧から距離をとった。

 胸のドキドキを聞かれたくなかった。

 ……いやいやいや。


「なにしてんだよ!」


 ボクは胸のドキドキを誤魔化すように、麗寧を思いっきり怒鳴りつけた。

 けれど麗寧はまだ「何が?」という顔をしていた。

 なんで不思議そうなんだよ!


「……なにをって、キスだけれど?」

「キスだけれど? じゃないんだよ! それがおかしいって言ってんの!」

「……どうして?」

「あたりまえだろ! 今は稽古中なんだからふざけるな!」


 麗寧は「ふむ……」と何事か考えていた。

 ……いったい何を考える必要があるんだ。


「……そういえば稽古中だった。私としたことがつい誘惑に負けてしまった」


 しばらくして麗寧はなんか、ボクに聞こえないくらいの声で呟いた。


「なに? なんて?」

「いや、なんでもないよ。……今のキスはね、必要なことだった」


 なんかどっかで聞いたようなセリフだな……。


「……どこに必要性があるんだ」

「こういうのはね、実際にやってみた方がリアリティを掴みやすいんだ」

「でも本番で実際にはしないだろ、ドラマとか映画の撮影じゃないんだから!」

「そんなことはない。舞台によっては実際にキスをすることもある」

「……本当かよ」

「本当だよ」


 麗寧はしれっと言うけれどイマイチ信用できない。

 ボクは舞台に立った経験がないからテキトーなこと言っているだけじゃないのか?

 ただいくつも演劇を観てきたけれど、キスは本当にしているのかよくわからないんだよな。


 上手いことしているように見せている気もするし、実際にしているような気もする。

 たぶんしてないだろうなとは思っていたけれど、確証があるわけじゃない。

 舞台でキスシーンをしたことがないから、実際のところはわからないんだ。


 だから絶対違うとは否定できない。

 けれどたとえ舞台で実際キスしているんだとしても、麗寧がそういう理由でしてきたのかは疑問に思ってしまう。

 だって麗寧はボクが好きで……。


 好きな人にはキスがしたくなるなんてことも聞いたことあるし。

 ……というか、だ。

 ボクのことが好きとはいえ、なんでそんな平気そうな顔でキスできるんだ。


 こっちは、……まだドキドキしているっていうのに。

 こんなにドキドキするって、ボクは麗寧に何か特別な感情を……?

 いやいや違う。


 ありえない。

 誰だって顔のいい奴にキスされたらドキドキする。

 そうだ、そうに違いない!


「実際、役には立った」


 ボクが自分自身を納得させていると、不意に麗寧がそんなことを言い出した。


「……何が」

「前回キスした後で、君は私を意識していただろう」

「なっ、そんなわけないだろ!」

「誤魔化さなくてもいい。そのおかげで掴めたものがあった。違うかい?」

「そ、それは……」


 ボクは時々、麗寧に心を読まれているように感じることがある。

 今回だってそうだ。

 麗寧に感謝は伝えたけれど、デートが役立ったとは伝えていない。


 それなのに、麗寧はボクの本心を見抜いていた。

 ……勝手に人の心を覗かないでほしい。

 けれど、キスの話はまた別の話だ。


 別に麗寧を意識しているとか、そういうのはない。

 しばらく夢に見てしまっていたのだって麗寧を意識しているんじゃなくて……。

 そう、初めてだったから思い出してしまっていただけなんだ。


 麗寧なんて意識しているわけがないんだ!


「とにかく、麗寧なんて意識してないから!」

「そうは見えないけれど」

「そうなんだよ!」

「……まあ、そういうことにしておこう」


 その譲歩してあげたとでも言いたげな発言やめろよ。

 事実なんだから。


「それはそれとして、キスをしておいて損はないのは確かだよ。むしろ、舞台で生きようというのなら慣れていた方が良い」


 そう言って麗寧はボクに近づいてくる。

 ボクは危機感を抱いて後ろに下がるけれど、麗寧はどんどん近づいてくる。

 そうやって繰り返して……。


 ボクは金網にぶつかって追い詰められてしまった。

 麗寧がボクの頬に触れる。

 そうして麗寧は微笑む。


「ということで、もう一回キスをしようか」

「なんでそうなるんだよっ」



 ボクの抗議の声は、けれど麗寧には届かなかった。



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