2
「晴希、もう今日は上がっていいぞ」
客席のテーブルを拭いていたボクは、厨房から聞こえてきた声に顔をあげる。
カウンターを挟んだ厨房から父さんが顔を覗かせていた。
「おっけ」
答えてからテーブル拭きを片付けると、ボクは厨房を通って奥にある階段を上る。
店舗は住居も兼ねていて、一階が店舗で二階が住居スペースになっていた。
住居スペースに入って、小さく息をつく。
ボクの家は小さなラーメン屋を営んでいる。
ボクは時々そのお店の手伝いをしていた。
給料は出ないけれど、それなりに楽しいから苦じゃない。
強いて言うなら汗だくになることが大変か。
けれど舞台の稽古でも汗だくになるから慣れていた。
とはいえ汗だくのままでいるのは気持ちが悪い。
さっさとお風呂に入りたい気分だったからお風呂の準備をする。
お湯がたまるのを待って、さっさと入浴を済ませてしまう。
それから畳敷きの居間に座ってぼうっとしていると、スマホから着信音が鳴り響いた。
ちゃぶ台に置いてあったスマホを手に取って画面を覗く。電話の相手は朋絵だった。
『麗寧様が!』
通話ボタンをタップして耳に当てた途端、そんな叫び声が耳をつんざいた。
思わずスマホを落としそうになって、なんとか掴み直す。
「な、なに急に。鼓膜破れるかと思ったじゃん」
『そんなことどうでもいい!』
よくないんですけど。
『そんなことより麗寧様が大変なのよ!』
「加賀美麗寧が? なに、なんの話。またビジュがやばいとかの話?」
『違う! あんたネットニュース観てないの!?』
「ネットニュース? 観てないけど」
『さっさと調べなさいよ!』
なにをそんなに慌てているんだ?
疑問に思いながらも検索しようとして。
「あれ? これって通話しながら検索できるんだっけ?」
『はあ? できるに決まってんでしょ!』
「どうすれば……」
『あんたホントに女子校生!? 機械音痴も大概にしろよ! それかわいいとか思ってんの!? あざとすぎてきついわ!』
「は? 別にそんなこと思ってないんですけど。なに、喧嘩売るために電話してきたのか?」
『違うわよ、バカ! もういい! チャットに送るから開いて!』
数秒後にチャットにURLが送られてきた。
それをタップするとニュースサイトが開いた。
《加賀美麗寧、休業を発表》
《2.5次元舞台を中心に活躍する女優の加賀美麗寧(16)さんが某日、事務所を通じて期限未定の休業に入ることを発表した。理由については諸事情によりとしており、詳細は明かされていない。関係者によると――》
「……加賀美麗寧が、休業」
記事の文面に目を通して、思わず小さく呟く。
『そうなの! どうしよう!』
「や、どうしようって言われても……。ボクたちにできることなんてないでしょ」
『そんなこと言って、麗寧様が引退しちゃったらどうしてくれんの!』
「だからボクに言われても困るって」
まあ確かに詳細が発表されていないからどう判断していいのかわからない部分はある。
だから朋絵がそういう心配をしてしまう気持ちはわからなくもない。
わからないというのは不安を伴うものだから。
けれどひとまずは休業ということで、それなら今すぐ引退とはならないだろう。
きっと大丈夫だ。……そう思っているのに、どこか心の奥が少しだけソワソワする。
「でも……。舞台、どうなるんだろ」
ソワソワを振り払うように、ボクはそんなことを口にする。
朋絵からはその答えが返ってくるわけもなく……。
落ち着かない声でなにかを捲したてるだけだった。
◯
洗面台の鏡の前。制服姿で、ボクはミディアムヘアの髪を後ろに束ねる。
おさげの位置で一本に縛ると、黒髪の内側からインナーカラーの赤色が覗いた。
「よし」
特に意味もなくそう言ってから、ボクは洗面所を後にする。
仕込み中の父さんに声をかけて、それから家を出た。
学校に向かう道を歩き始める。
加賀美麗寧の休業発表から数日が経っていた。
相変わらず理由は発表されていない。
朋絵はそれに対する愚痴をことあるごとに言ってくる。
けれどボクにどうしろと言うんだ。
世間では休業理由についていろいろな憶測が飛び交っていて……。
みんながその理由を知りたがっているのを感じる。
そういうボクも休業理由が気になってはいる。
とはいえ勝手な憶測をする気はない。
そんなことは無意味だと思う。
結局は本人が発表しない限り、正解になんてたどり着けないのだし。
電車に乗っていくつかの駅を通り、最寄りの駅で降りる。
バスに乗り換えて、そうして学校へとたどり着く。
教室に入ると、なにやらいつもより騒がしかった。
「なにかあったの?」
机に倒れ込んでいた朋絵に聞く。
加賀美麗寧のことが相当ショックだったようで、最近の朋絵はいつもこんな感じだった。
「……知らない興味ないどうでもいい」
「本当に興味なさそう……」
「麗寧様がいない世界に興味なんてあるわけないでしょ」
「別にいなくなったわけじゃないじゃん」
相変わらず、【麗寧様】のことになると大袈裟なんだから。
頼りにならなそうな朋絵は放っておくとして、ボクは隣の席の人に聞くことにした。
曰く、このクラスに転校生が来るらしい。
……なるほど、そういうことか。
確かに転校生が来るってなったら話題の中心になるし、みんなが騒ぐのも仕方ないのかも。
この時はまだそんなふうに思っていただけだった。
◯
「加賀美麗寧です、よろしく」
シルバーアッシュのウルフカット、スラリと背の高い美少女。
そんな転校生が口にした言葉は、教室内をしんと静まり返らせた。
やがて。
「麗寧様!?」
朋絵が椅子から音を派手に撒き散らしながら立ち上がって叫んだ。
それをきっかけにして、教室がお祭りの如く騒々しくなった。
……これって夢?
ボクは思わず自分の頬をつねった。
「……痛い」
どうも夢じゃないらしい。
…………いやいやいや、こんなことありえないでしょ。
そんな物語みたいなことがあってたまるか。
否定したくなるようなその出来事は、けれど紛れもない現実だった。
こうして、ボクのクラスに加賀美麗寧が転校してきた。
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