第2章。 『死に至る片道切符。』

天宮・翔あまみや・しょう 

相沢・小百合あいざわ・さゆり  

佐伯・健三さえき・けんぞう  

月輪教団がちりんきょうだん  

千田・勝せんだ・まさる 

千田・香織せんだ・かおり


新開地・神戸。事務所。【相沢小百合 の視点】

2016年10月27日・午前9時34分。


朝の光が黄ばんだカーテンの隙間から差し込み、空気中に漂う埃の粒子を斜めの線に浮かび上がらせていた。

事務所にはまだ湿気と古い段ボールの匂いが染みつき、放置されていた年月の重みが残っている。

リノリウムの床は、私が箒をかけるたびにきしみ、壁際の空っぽの棚がまるで別の時代の沈黙の証人のようにこちらを見ていた。

ここに来てまだ三十分も経っていないのに、私はすでに髪を鉛筆でまとめ、セーターの袖を肘までまくっていた。

手袋をつけたままの掃除は少し不便だったが、仕方がなかった。

一方の翔さんはというと、金属製のキャビネットを力任せに引きずりながら部屋の隅へ移動させていた。

「それ、本当にそこに置くの?」

掃き掃除の手を止めずに私は問いかける。

「いや、重すぎるんだよ。もう二度と動かさない」

彼は短くそう返した。

私は諦めたようにため息をつき、巾木の隅にたまった埃を強く掃き出す。

その横でアスタロトは机の上に胡座をかき、指先で埃取りの羽根をつまんでは投げ、また掴んで遊んでいた。

「せっかく来てるんだから手伝ってくれない?」

私は眉を上げて彼女を睨む。

「手伝ってるわよ……監督っていう大事な仕事をね。誰かが全体を見ておかないと…ふふふ」

「無能の監督ね……」

私は再びため息をもらした。

アスタロトは口元に笑みを浮かべ、わざとらしいほど優雅に机から降りると、だるそうにブラインドを拭き始めた。

「翔さん……もう捜査を始めたほうがいいんじゃない?事件の手がかりもないまま、こんなふうに管理人みたいに掃除してても意味ないでしょう」

「もう動いてる。佐伯さんが今朝中に情報を送るって言ってたんだ。それを待てばいい」

翔さんは振り向かずに、古びたラベルが貼られた段ボール箱を開けながら言った。

「もし送ってこなかったら?」

「そんときは直接取りに行く」

その口調は冗談ではなかった。

「でも心配するな。あの人は信頼できる、だから少し落ち着け」

そう締めくくった翔さんの背中を見つめながら、私は再びため息をついた。

私は机の上に置いていたリュックに近づき、小さなノートパソコンを取り出した。軽量で、天板には色あせたステッカーがいくつか貼られている。事務所の中で一番埃の少ない机に腰を下ろし、電源を入れた。

「それで、集めた情報の記録を残すつもり?」

翔さんが近づいてきて尋ねる。

「そうよ。まさかコンビニの紙ナプキンに手がかりを書くつもりじゃないでしょうね?」

「ふむ……メールを確認してもいいか?」

「スマホで見ればいいじゃない」

「痕跡を残したくないんだ。ちょっとだけだ」

そう言って翔さんはノートパソコンを指差した。

私はため息をつき、了承の合図をした。翔さんは私の隣に腰を下ろし、素早くキーボードを叩き始めた。画面の隅に現れたメールアドレスに目が留まり、思わず笑ってしまう。

「ちょっと……『kitsune_no_tenshi86』? 本気?」

「若かったんだ……趣味が悪かっただけだ……」

翔さんは気まずそうに答えた。

「だったの?」

背後でアスタロトがだるそうに掃除を続けながら笑い出した。

翔さんは無視して、件名のないメールを開いた。送信者は匿名で、添付ファイルが一つと簡潔な本文が記されていた。

『中之島倉庫・調査報告【速報】』

目撃者なしでの潜入可能時間:18時以降。

監視カメラ:無効化済み。警備員は8月以降巡回せず。

被害者:千田勝。 48歳。

職業:金融コンサルタント ― 経済的に不安定。

住所:神戸市西区。

妻:千田香織。44歳 、子供なし。

公式死因:首吊り自殺。

遺体発見日:10月22日。

解剖:一部のみ。中央システムに未登録。

現場写真を添付。

「……ここだ。中之島の古い工業地帯、西埠頭の一角だ。裏口があって、完全に封鎖されてるわけじゃない」

翔さんが写真を開きながら言った。

私は画面を覗き込む。低解像度の携帯で撮られたらしいその写真には、劣化の跡がはっきりと見て取れた。錆びた金属、割れたガラス、入口に積もるゴミ。

「……で、これが自宅。西区……ここからそう遠くないわね。未亡人に話を聞く必要があるなら、まずはここだ」

翔さんが別の住所を指差した。

画面が一瞬ちらついた。最後の一行を見て私は眉をひそめる。

『不自然に整いすぎている。君たちなら見抜けるはずだ。』

アスタロトが後ろから近づき、翔さんの椅子の背もたれに顎を乗せた。

「ふふ……いよいよ楽しくなってきたじゃない?」

「……楽しいかどうかは別だ。だが、始まったな。まずは掃除を終わらせよう。蜘蛛の巣まみれの頭で事件は解けない」

私はノートパソコンを閉じ、立ち上がった。

***

中之島・大阪。【天宮翔の視点】

2016年10月27日・午後5時49分。


事務所を出た頃には、夕方の空はすでに鉛色に染まり始めていた。新開地の錆びついた屋根の向こうに、ゆっくりと太陽が沈んでいく。十月末特有の湿った冷たい風が、ボタンを一番上まで閉めたコートの襟元から忍び込み、肌を刺した。

小百合さんは首元のマフラーを整え、俯いたまま歩いていた。ノートパソコンとノートが入った黒いバッグを肩にかけ、灰色のロングコートを羽織っている。その色は彼女の青みがかった黒髪と、透けるような白い肌を際立たせていた。後ろを歩くアスタロトは、いつものように気ままな様子で、コートもバッグも持たない。気温など、彼女には関係ない。

俺たちは阪神電車に乗り、新開地から大阪・梅田へ向かった。そこから福島駅まで歩き、近代的なビル群の間を流れる運河沿いを東へ進む。やがて多くの橋の一つ、田蓑橋を渡った先に、中之島が見えてきた。堂島川と土佐堀川の間に浮かぶ細長い島だ。

人の流れは次第に薄くなっていた。帰宅を急ぐサラリーマンが重い足取りで前を行き、自転車が脇をすり抜ける。だが誰もこちらを気に留めない。それが一番都合が良かった。

関西の秋の夕方特有の、どこか物悲しい灰色が街全体に漂っている。電線にぶら下がるケーブルが揺れ、街灯が早すぎる時間に灯り始める。暖簾から湯気が漏れるうどん屋を横目に歩きながら、俺は胸の奥で妙な緊張を覚えていた。街は日常を装っているが、俺たちだけがその外側にいるようだった。

島に入ると、景色が少しずつ変わっていった。近年、中之島の大半は再開発が進み、美術館やオフィスビル、整備された広場が並んでいる。しかし、それでもまだ開発の手が届かない場所が残っていた。コンクリートの倉庫が並び、潮風で腐食した壁がむき出しになったまま放置されている。使われなくなった積み下ろし用のプラットフォームが、静かに風を受けていた。

目的の倉庫は、最新の地図には載っていなかった。二階建ての長方形の建物で、屋根の一部が片方に傾いている。二階の窓は錆びた鉄板で覆われ、正面入口には鎖が巻かれていた。だが、佐伯さんから送られてきた報告書の通り、裏口は半ば開いたままだった。

「……ここだ。監視カメラもないし、数か月巡回していないなら、今の時間は誰もいないだろう」

俺は左右を確認しながら小声でつぶやき、裏口へ近づいた。

小百合さんは俺の背後に立ち、黙ったまま身を縮めるように腕を擦っていた。俺は音を立てないようにゆっくりと扉を押し開けた。アスタロトは何のためらいもなく、俺たちの間をすり抜けて中へ入っていく。その顔には無造作な笑みが浮かんでいた。

倉庫の中は鉄錆と古びたプラスチック、湿った土の匂いで満ちていた。外よりもさらに冷たい。天井の照明は埃と蜘蛛の巣に覆われており、朽ちかけた鉄製の棚や空の木箱が床に散乱していた。角には放置されたフォークリフトと、錆びた缶が積み重なっている。

「ここで……遺体が見つかったの?」

小百合さんがマフラーを握り直しながら小声で尋ねた。

「写真の通りだ。ちょうどあの柱だな。ここなら……誰も悲鳴を聞かない」

俺は中央の通路にある、崩れかけた鉄骨の近くを指差した。

俺たちは慎重に近づいた。足音が床板のきしみで響き、壁の穴から入り込む風が影を揺らす。俺はしゃがみ込み、床を調べたが――痕跡は一つも残っていなかった。テープの跡も、血痕も、指紋の類も…何も。

まるで死そのものが、この場所から余韻まで持ち去ったかのようだった。

小百合さんは片方の手袋を外し、ゆっくりと現場の中心へ歩み寄った。周囲を黙ったまま見回す。

彼女がこれから何をするのか、俺は知っていた。何か――どんなものでもいい――遺された痕跡に触れ、その力に委ねるのだ。

それは小百合さんの瞬間だった。

俺の役目は、短いその間に何者も邪魔させないこと。

無言でコートの内側に隠したナイフの鞘に手を置き、入り口を見張った。アスタロトは壊れた梁にもたれかかり、大きなあくびをした。

「……こんなこと、あまり言わないけど、私はこの場所、好きだわ。歴史……血……記憶……殺人にはもってこいの雰囲気、ふふふ…」

俺は返事をしなかった。ただ小百合さんが動き出すのを待つ。

外の風が向きを変え、海の匂いと錆の匂いが入り混じった空気が倉庫の隙間から流れ込んできた。

何かが変わり始める時に漂う、あの独特の気配だった。

***

中之島・大阪。廃倉庫。【相沢小百合の視点】

2016年10月27日・午後6時27分。


倉庫の中の沈黙は、肌にまとわりつくほど重かった。

足を踏み出すたび、床に積もった埃が深く沈み込み、まるで記憶の上を歩いているようだった。

翔さんが指し示した、錆びついた柱のそばに近づく。そこが遺体が吊るされていたという場所だった。目に見える痕跡はもうなかったが、その一帯の空気だけが異様に重い。まるで、まだ何かがここに取り残されているようだった。

右手の手袋を外し、大きく息を吸い込む。

近くの足場の鉄骨に指先を触れた。冷たく硬い感触が伝わる。

目を閉じる。

――何もない。

指先に伝わるのはざらついた質感と冷気だけ。歴史のない壁に触れているかのようだった。

床に落ちていた古い粘着テープの切れ端を拾ってみる。フォークリフトの錆びたベースにも触れる。

断片的な残響、途切れた囁き、ぼやけた映像……

しかし、明確なものは何一つ得られなかった。死の瞬間に直接結びつく痕跡ではない。

眉をひそめる。ここまで時間がかかるのは珍しい。

もしかして時間が痕跡を消してしまったのか。あるいは、自分の未熟さゆえか。

……それとも、誰かが意図的に痕跡を消したのか。

その時、小さな金属のフックが、崩れた板の下からかすかに覗いているのを見つけた。

慎重に拾い上げ、指先をその冷たい表面に置く。

――世界が裂けた。

肺の中の酸素が一瞬で奪われるような衝撃。

ちらつく人工の光。押し殺された声。

灰色の作業着を着た二人の男が、遺体を引き上げていた。

彼らはマスクを着け、緊張した面持ちで動いている。一人が懐中電灯を握りしめ、その光が吊られた遺体を照らした。顔までは見えない。

そして――気づいた。

倉庫の隅、崩れた柱の陰で、何かが動いた。

それは影だった。

顔を見ることはできなかった。

瓦礫の陰にしゃがみ込み、じっとこちらを見つめる影だけがそこにあった。

検視班の人間ではない。そこにいるべき者の動きではなかった。

ただ――見ていた。

一人の男が持っていた懐中電灯の光が、その方向を一瞬だけ照らした。

だが、光が柱の陰をかすめた時、影はもう消えていた。

――視界が途切れた。

レジデュアル・エコーを見られる十秒が、ちょうど終わったのだ。

私は大きく息を吸い込み、ふらりと後ろにのけぞった。

指から離れたフックが床に落ち、乾いた音を立てた。

翔さんがすぐに駆け寄り、私の腕をつかむ。

「大丈夫か?」低い声で問われた。

「ええ、大丈夫。ちょっと目まいがしただけ」

「少し休んだ方がいいな……何か見えたか?」

私は喉がまだ焼けるように痛むのを感じながらうなずいた。

「遺体を引き上げている二人の男がいたわ。でも……彼らだけじゃなかった。もう一人いたの。隠れて、こっちを見ていた……殺した犯人かどうかは分からないけど」

私は、影を見た倉庫の隅を指さした。

当然だが、翔さんがその場所を調べても何も出てこなかった。足跡も、痕跡も――何一つ残っていない。

アスタロトが大きなあくびをしながら、私たちのもとに歩み寄った。

「じゃあ自殺じゃないわけね……まさか死んだ本人の幽霊が、自分の吊るされた死体を見物してたわけでもないでしょうし」

からかうように言った。

「まだ断言はできないわ。でも、何かがおかしいの。悲しみも絶望もなかった。ただ……静けさだけ。それにあの影。まるで……何かを待っていたみたいだった」

私は声を取り戻しながら答えた。

翔さんはフックを拾い上げた。

「この場所のどこにも自殺を示すものはない。写真で見た時から分かっていたが、現場は不自然に整えられすぎている」

「これからどうするの?」私は手袋をつけ直し、こめかみを押さえながら尋ねた。

「飯を食おう……明日、未亡人の家に行く」翔さんは淡々と答えた。

「そんなあっさり決めるの?」私はまだ現場を調べたかった。

「必要なことだ。もう何度も力を使ったろう。これ以上やれば倒れるかもしれない……それに、もう夜だ。未亡人の家に押しかけるわけにはいかない」

「そうね……仕方ないわ」私はため息交じりに頷いた。

アスタロトがにやりと笑った。

「……あらあら、翔くんは小百合ちゃんを宝物みたいに扱うのね……愛の匂いがするわ、ふふふ」

その言葉を聞いた瞬間、顔が一気に赤くなった。

頭痛のせいか、彼女の言葉のせいか自分でも分からない。けれど、それがほんの数秒でも翔さんに気づかれるには十分だった。

「おい……ふざけたこと言うな…クソ悪魔」

翔さんがアスタロトを睨む。

「まあまあ……どうせ翔くんは私だけを見てるんでしょ?

……そうよね、ロリコンさん?」

挑発するように微笑んだ。

翔さんの表情を見て、私は思わず吹き出してしまった。

「……じゃあ、行くぞ?」翔さんが話題を強引に切った。

「うん……たこ焼きかラーメンがいいわ……どっちも食べて、

そのあとお菓子も買って」

「一つに決めろ」

「翔くんって冷たいのね……か弱い女の子にそんな態度?」

「黙れ、悪魔」

子供のように言い合う二人を横目に見ながら、

私たちは倉庫を後にした。埃と影と、衣服に染み付いた鉄錆の匂いを置き去りにして。

外の風はさらに冷たくなり、空が頭上で金属の蓋のように重く覆いかぶさってくるのを感じた。

――これは始まりに過ぎない。

けれど、さっき感じたものは……ただの死ではなかった。

それはもっと深い何か。木材に刻まれた跡のように、決して消えることのない痕だった。

***

福島・大阪 。【天宮翔の視点】

2016年10月27日・午後8時12分。


倉庫を出ると、気温はさらに下がっていた。

あの場所の埃と錆の匂いが、服にまとわりついたまま湿った空気の中に溶けていくようだった。

小百合さんは口を閉ざし、コートの前をきっちり閉め、マフラーを首に巻いたまま歩いていた。髪はすでに後ろで低く束ねられている。

アスタロトはというと、後ろからのんびりついて来ながら、どこで拾ったのか分からない錆びた枝をくるくると回していた。

「何か食わないとな。それにお前は糖分が必要だ。倒れる前にな」俺が言った。

「倒れたりしないわよ。ただ……ちょっと目まいがしただけ」小百合さんが答えたが、その声は少し弱々しかった。

「議論はしない。行くぞ」

俺たちは田蓑橋を渡って東に抜け、そのまま北へ向かう路地に入った。

夜の大阪は、東京のように眠らないわけでも、神戸のように早く静まるわけでもない。

ここではコンビニの光が現代の灯台のように角ごとに立ち、まだ急ぎ足の靴音や、遠くの笑い声、自転車が風を切る音が絶えなかった。

壊れた自販機の横を通り過ぎると、パチンコ店の看板の下で、カップルが小声で言い争っていた。

やがて、のれんがまだかかっている小さなラーメン店を見つけた。店の奥から立ち上る蒸気がまるで店そのものが息をしているように見えた。

中に入ると、客はほとんどいなかった。酔っぱらったサラリーマンが二人と、眼鏡を曇らせた老人が漫画を読んでいるだけだ。

――俺の目から見れば、完璧な場所だった。

俺たちはカウンター席に腰を下ろした。

小百合さんは卵を追加した豚骨ラーメンを頼み、俺も同じものを注文した。

アスタロトはというと、「人間のラーメンは血の味覚を壊す」とか言って、コーラと餃子だけを頼んでいた。昨夜のことを繰り返したくないらしい。

誰も彼女が昨夜何をしていたかは尋ねなかったが、俺は覚えている。

夜遅く、ベランダから部屋に戻ってそのまま寝床に直行するのを。

「それで? 未亡人が怪しまないように、どうやって会うつもり?」小百合さんが麺をかき混ぜながら尋ねてきた。

「警察に成りすます」俺は箸を置きながら答えた。

「は……?」

「偽の警察手帳がある。かなり出来がいいやつだ。去年、病院に侵入したときにも使った。彼女は今ショック状態だ、冷静に振る舞えば疑いはしないだろう……お前が担当の捜査官、俺は補佐役だ」

小百合さんは冗談かどうか判断できない顔をしていたが、やがてため息をつき、再び丼を見つめた。

「……もし失敗したら?」

「その時は即興で何とかする。言葉選びさえ間違わなければ問題ない。それに、こいつがいるだろ、最悪の場合はフォローしてくれる」

俺はアスタロトを顎で指した。

「数週間前までは大学院の書類のことばかり心配していたのに……」小百合さんが小声でつぶやいた。

「今は?」

「今は、刑務所行きにならないかの方が心配よ」そう言って小さく笑った。

ラーメンの温かさと会話のおかげか、少し顔色が戻ってきたようだった。

アスタロトは炭酸飲料を大げさな音を立ててすすり、餃子の皿の上に箸を落とした。

「はぁ……人間の食べ物っていいわね。カロリーは空っぽなのに、感情はたっぷり、現代の最高の嗜好品よ」ため息混じりに言った。

「でも今日一番良かったのは、小百合ちゃんがさっき私の言葉で顔を赤くしたところね。翔くん、まさか惚れちゃったんじゃないでしょうね?」

「おい、悪魔……やめろ」俺は低くうなった。

「もう遅いわ~」彼女は鼻歌まじりに言った。

「それに、二人が結婚するなら、私がブライズメイドになってもいいかしら? 黒のレースのドレスにコウモリの羽がいいわね」

小百合さんがスープでむせた。俺は完全に無視した。

会計を済ませ――もちろん俺が――冷たい夜気の中へ出た。

遠くで列車の光が点滅していた。車の往来は少なかったが、街がまだ生きているというざわめきがそこかしこにあった。

その頃には、小百合さんの足取りはだいぶしっかりしていた。

俺たちは再び阪神線に乗り、神戸へ向かった。夜の列車は小さく揺れながら、次第に少なくなる街の明かりの中を進んでいく。

小百合さんは窓にもたれかかり、流れる街灯の反射をぼんやりと見つめていた。

彼女を北野町の入り口まで送った。

そこからは細い坂道が古い洋館や静かなカフェの間を縫うように上っているので、ひとりでも問題なく帰れる。

小百合さんはマフラーを整え、ポケットから鍵を取り出すと、少し落ち着いた表情でこちらを振り返った。

「送ってくれてありがとう」

「気にするな。休め。明日の九時に迎えに行く」

「わかったわ。それと……ラーメン、ごちそうさま」彼女は小さな声で言い、ドアへと向き直った。

アスタロトは猫のように伸びをして、低くつぶやいた。

「デザートを食べさせなかったわね、翔くん。それは恋愛ポイント減点よ~」

「彼女と付き合ってるわけじゃない」

「まだ、でしょ」そう言うと、彼女は一瞬で姿を消した。

俺はポケットに手を突っ込み、後ろを振り返らずに歩き出した。

だがここ数週間で初めて、胸の重さが少しだけ軽くなった気がした。

***

西区・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年10月28日・午前8時43分。


北野町の朝の空気は湿った土と枯れ葉、それに焙煎したコーヒーの香りが混ざっていた。

十月の霧はまだ完全に晴れず、石畳の路地にしつこくまとわりつくように漂っていた。窓の外には雲に覆われた六甲山が見え、遠くで学校の鐘の音が時刻を告げていた。

建物の階段を下りると、翔さんはすでに入り口で待っていた。消えた街灯にもたれかかり、両手をポケットに突っ込み、いつもの暗い服装に適当に巻いたマフラー。北野町の静けさの中で、彼の存在はどこか異質だった。

私は落ち着いた服装を選んだ。キャメル色のロングコートに、内側はアイボリーのタートルネックのブラウス。紺色のストレートパンツと黒のショートブーツ。メッセンジャーバッグを肩にかけ、今日は髪を下ろしてえんじ色のマフラーと合わせた。

「ちゃんと眠れたか?」翔さんはぶっきらぼうに尋ねた。

「まあまあね……胸を締め付けられるような変な夢を見たわ」

駅へ向かって歩きながら腕を擦った。翔さんは答えず、ただ頷くと、三宮方面へと坂を下っていった。

そこからJR神戸線に乗り、西の鷹取駅まで向かった。車内で翔さんはリュックから小さな木箱を取り出し、私に視線も向けず差し出した。

「これ、なに?」

「偽の警察手帳だ…」

箱の中には、精巧に作られた二つの警察身分証が淡い光を反射していた。その細部の作り込みは、正直、背筋が寒くなるほどだった。

「これ、どこで手に入れたの?」

「聞くな……言ったろ、お前が担当の刑事で、俺は補佐だ」

「…もし彼女が疑ったら?」

「その時は即興で誤魔化す。俺は嘘をつくのが得意だ、もし失敗してもアスタロトがなんとかする。だが一発で決めたい……あの悪魔にこれ以上借りは作りたくない」

私は深くため息をついた。もう後戻りはできなかった。

未亡人が住む家は西区の櫨谷町近くの小高い丘にあった。駅からは、藤の花と洗剤の匂いが漂う閑静な住宅街を歩いた。家々は低い柵と鉢植えの並ぶポーチで穏やかに整列していた。

近所の人たちは歩道を掃いたり、庭木に水をやったりしている。この時間帯は、世界全体がゆったりとした日常に包まれているかのようだった。

その家は緩やかに曲がった路地の突き当たりにあった。灰色の外壁と小さな窓。門扉には、まだ亡くなった夫の名字が掲げられている。私はベルをそっと押した。

出てきた女性は、この一週間で十年は老けたように見えた。青白い肌、乱雑にまとめられた髪、部屋着の上から羽織った暗いガウン。それでも丁寧に頭を下げた。

「おはようございます……警察の方ですか?」

「お忙しいところ失礼します、千田さん。ご主人の件についていくつか確認させていただきたいことがありまして。お時間は取らせません」

私の声は落ち着いていたが、決して冷たくはなかった。翔さんはいつものように黙って私に任せていた。彼は観察し、判断していた。あの能力が常に彼を緊張の中に置いているのだろう。

彼女は私たちを中に招き入れた。

居間は静かで、趣味というより習慣を感じさせる簡素な装飾。小さな仏壇の上には、スーツ姿で厳しくも穏やかな表情をした夫、千田勝さんの写真が置かれていた。

「主人は……借金のことでずっと悩んでいました。かなりのストレスを抱えていたんです。数か月前から『精神的なリトリート』に通い始めて……詳しくはわかりませんが、本人はそれで救われていると言っていました」

翔さんはわずかに片眉を上げた。私は静かにうなずいた。

「そのリトリートがどこで行われていたか、覚えていらっしゃいますか?」

彼女は答えずに立ち上がり、仏壇の下の引き出しを開けた。やがて一枚の長方形のカードを持って戻ってきた。それは簡素で、中央には満月が描かれていた。

『月輪教団』

そしてその下には、筆のように柔らかな文字でこう書かれていた。

『中之島こそが、あなたが自由になれる場所です』

「これも見つけました」

彼女は封筒から折り畳まれた使用済みの電車の切符を取り出した。日付は――夫が亡くなったその日だった。

私は二つの物を慎重に受け取り、心の中でつぶやいた。

――「これは死に至る片道切符……」

「亡くなられた日にご主人が身につけていた物で、何か残っている物はございますか?」

「……あります。あの日も着けていた、彼の一番のお気に入りのネクタイです」

彼女は小さな布袋を持って戻ってきた。中には丁寧に畳まれた濃紺の細いストライプのネクタイが入っていた。私はそれに指先で触れた瞬間、胸を突き刺すような痛みが走った。

「小百合さん……」翔さんが低くつぶやいたが、私はすでに目を閉じていた。

――闇。

――かすかに見える顔。

――男の首に力強く巻きつく両手。

――床に崩れ落ちる身体の音。

――そして、祝福のように響く低く深い声。

「これで……お前はもう自由だ」

「……っ!」

私は喉の奥から息を絞り出し、目を開けた。ネクタイが手から滑り落ち、床に落ちる乾いた音が響いた。翔さんの冷たい指が私の手首をしっかりと掴んでいた。

「……ごめんなさい……大丈夫」私は小さくつぶやいた。

――《これがアスタロトが言っていた危険性なのね……能力を使うと、本当に死に引きずり込まれそうになる……》

未亡人は困惑した様子で私たちを見つめていたが、何も聞こうとはしなかった。

翔さんは落ちたネクタイを拾い上げ、彼女に向き直った。

「まだ断言はできませんが……ご主人は自ら命を絶ったわけではない可能性があります」

彼女の顔色が一瞬で青ざめた。俯いたまま、声を震わせる。

「……では、夫は……殺されたと? でも……どうして首を吊った状態で見つかったのですか?」

「それも可能性のひとつです。殺害後に吊るされたのかもしれません、今その点を調べています。ご協力いただきありがとうございます、必ず、新しい情報が入り次第お伝えします」私は真剣な声で答えた。

「……わかりました。どうか……どうか真実を見つけ出し、この犯人を……罰してください……」

未亡人は涙をこらえながら懇願した。

その誠実な願いを拒むことは到底できなかった。

翔さんは深く一礼した。

「ご安心ください、俺たちが必ずやります……約束します」

翔さんの言葉に、彼女の顔にはわずかな安堵が浮かんだ。そして、なんとかその場は収まった。

家を出ると、秋の冷たい風が正面から吹きつけた。乾いた落ち葉が通りで渦を描き、真昼の光は鈍く、まるで空が息を潜めているかのようだった。翔さんは私の少し前を歩き、その肩はいつもよりわずかに硬く見えた。

「……人を落ち着かせるのが上手ね」私はつぶやいた。

「さっきの未亡人は嘘をついていなかったし、夫を失ったことでひどく参っていた……俺はろくでもない人間だが、信じられないかもしれないが、一応自分なりのコードはある」

「じゃあ、さっきの約束……本気で言ったの?」

翔さんは立ち止まり、私の目をまっすぐ見据えた。

「俺は約束したことは必ず守る……それに、事件を解決できなきゃ、俺たち死ぬからな…ははは」

私は何も言えなかった。ただ、胸の奥にまだあの声が響いていた。

――『これで……お前はもう自由だ』

それはただの事件ではないとわかっていた。

どれだけ走っても、ある種の真実は何かを失う覚悟ができた時にしか届かないのだと、その瞬間私は悟った。

***

櫨谷町・神戸。【天宮翔の視点】

2016年10月28日・12時28分。


駅へと下る細い通りを、俺たちは黙ったまま歩いていた。昼下がりの薄い陽射しの中、町全体がうたた寝をしているかのようだ。落ち葉がゆっくりと渦を巻き、木と古い雨の匂いが混じった風が頬をかすめる。小百合さんはいつもより少し遅い歩調で俺の隣を歩いていた。あのネクタイの件で身体に目立つ傷はなかったが、影がどこか長くなったように見えた。

「……どう思う? 俺は自殺じゃないって確信した」

「……わかってる。あの手の感触を感じた時から……それに、千田さんの話し方からもそう感じたわ」

しばらく互いに言葉を交わさず歩いた。

「月輪教団……? なんだその名前……安っぽい漫画から出てきたみたいだな」

「それでも、実在するみたい。たぶん宗教団体か何かで、死によって自由を与えるとか言ってるのね」

「……警察は……全部隠してた。最悪だな、証拠があんなに揃ってたのに、取り繕うことすらしなかった」

「誰かがお金を受け取ったのか……それとも恐れていたのか……」

小百合さんは俯いたまま、足元の石畳を見つめていた。低い陽射しが歩道に俺たちの影を長く歪んで映し出す。

俺は小さく息を吐いた。

「……大丈夫か?」

小百合さんは驚いたように顔を上げ、そして小さく微笑んだ。

「うん、ありがとう。もし翔さんがネクタイを引き離してくれなかったら……多分倒れてたかも、もっとひどいことになってたかも」

「……お前はいつも無理をする」

「練習中よ。まだどれくらい見えるかコントロールできないの、でもあの時は手を離せなかった。……まるで、あの布の奥から何かに呼ばれているみたいで……それに、翔さんはどうして自分の能力を使っても平気なの?」

「さあな……俺の能力は集中力をかなり使う、じっと人間を見ていないと考えが読めないし……それに俺は、基本的に人を無視するのが得意だからな」

「ずるい……とても便利な能力じゃない」

小百合さんがむくれたように言った時、俺たちはほとんど駅の近くまで来ていた。

もうすぐ駅に着くというところで、アスタロトが路地の影から何事もなかったかのように現れた。手にはいちごミルクのボトルを持ち、顔にはからかうような笑みを浮かべていた。

「あら〜、夫婦の面会はもう終わったのかしら?」

誰も答えなかった。彼女は一口飲んで肩をすくめる。

「小百合ちゃん、少し疲れてるみたいね。あんまり自分の能力を使いすぎない方がいいわよ… まだ未熟なんだから、もし気を失ったり、コントロールを失ったら、閉じ方のわからないものを引きずることになるわよ」

小百合さんが眉をひそめた。

「大丈夫よ、ちょっと休めば平気」

「だからこそ、今日はここまでだ」俺は言った。

「でも、教団のことを調べなきゃ、時間を無駄にできないわ。」小百合さんが反論する。

「倒れたらもっと大事なものを失うぞ……命にな」

俺はポケットに手を突っ込み、全員が黙り込んだ。

電車が十五分後に来るはずだが、また地下鉄で移動することを考えるだけでうんざりした。横目でアスタロトを見る。

「なあ… こういう仕事で電車と徒歩だけってのは無理があるだろ」

「疲れちゃったの、翔くん?クルマが欲しいの?弱いわねぇ、かわいそうに… ふふふ」

「お前がロジスティクスを担当するって言っただろ…じゃあ、車を用意しろ、運転は俺がする」

彼女は予想していたかのように笑った。

「車を見つけてきなさいよ、あとは私が私たちのものにしてあげるわ」

小百合さんが片眉を上げる。

「それって違法じゃないの…?」

「違法なのは、悪魔を上司に持ってることだ。車は俺の報酬だと思え」俺はアスタロトを睨んだ。

電車が近づいてきた。街の下からレールの軋む音と生温い風が頬を打つ。

アスタロトは飲み終えたボトルを近くのゴミ箱に放り込み、俺たちを見た。

「これからが本番よ。もっと深い穴に落ちる覚悟はある?」

小百合さんがため息をつく。

「選択肢なんてないでしょ」

俺はうなずいた。駅の鐘が遠くで鳴り響く。

「じゃあ、さっさと行くわよ。今夜はカレーが食べたいの、翔くん。夕飯はあなたが作るって言ってたわよね?」

駅の入口へと歩き出す。自動ドアが金属的な音を立てて開いた。

階段を降りながら、俺はポケットの中で電車の切符を握りしめた。

次の目的地はもう決まっている。どれほど深い穴だろうと関係ない。


❊❊❊❊

次回:『帰還なき旅の序章。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る