第1章。 『探偵事務所、闇より開業。』

天宮・翔あまみや・しょう  

相沢・小百合あいざわ・さゆり 

佐伯・健三さえき・けんぞう


長田区・神戸。【天宮翔の視点】

2016年10月24日・午前6時25分。


何かが噛み合っていない――そんな違和感と共に、目を覚ました。

天井はいつも通り。壁は塗装されていない灰色のコンクリート。ベッド脇の金属製の棚も、赤く点滅するデジタル時計も、全てがいつもの光景のはずだった。

それなのに、まるで見知らぬ世界に迷い込んだような錯覚があった。

部屋の中には、空気が動くのを忘れたかのような重く沈んだ静寂が漂っていた。

ゆっくりと身体を起こす。

頭痛もなければ、二日酔いのような感覚もない。ただ、体が重かった。まるで昨夜、見えない境界線を越えてしまったかのように。

数秒だけ、いや、そうであってほしいと願いながら、あの夜の出来事が夢だったのではないかと考えた。

――アスタロト。

――あの契約。

――小百合さん。

立ち上がり、バルコニーの引き戸へと向かった。

秋の関西ではよくある湿気で、窓ガラスは曇っていた。カーテンをわずかに開け、慎重に扉をスライドさせる。

長田区の裏通りにあるこのアパートの眺めは、いつも通り単調だ。

低層の建物が連なり、錆びた電柱が立ち並び、蜘蛛の巣のように絡まった電線。

その向こう、遠くを走るJR山陽本線の電車の車両が静かに滑るように通り過ぎていく。

時間はまだ早い。

おそらく、午前六時を少し過ぎた頃だろう。

空は一面の雲に覆われていて、アスファルトには未明の雨の跡が残っていた。

冷たい風が顔をかすめる。

そして、その時だった。

ようやく昨夜の出来事を幻と思い始めた、その瞬間――

「おはよう、翔くん〜」

声はすぐ上から降ってきた。ほんの数十センチ先から。

思わず身を引いた。

彼女が、そこにいた。

バルコニーの手すりに腰掛け、脚をぶらぶらと揺らしながら、まるで公園のベンチにでも座っているかのような無邪気さで。

昨夜と同じ黒のレース付きドレスを着ており、手には閉じた日傘をまるで杖のように抱えていた。

銀色の髪が、風に揺れている。

「ア、アスタロト……?」

「もうちょっと寝るかと思ってたけど…まあ、無理もないね。まるで悪魔でも見たような顔してる、ふふふ〜」

思わず眉をひそめる。

「……お前、なんでここに?どうやって入ったんだ」

「バルコニーからだよ、見てわかるでしょ?三階くらい、私にとっては何の問題もないけど?」

彼女は猫のようなしなやかな動きで、スルリと部屋の中に飛び降りた。

そして、何の遠慮もなくキッチンに向かい、冷蔵庫を勝手に開けた。

「あぁぁ……なんという貧しさ。卵と冷えたご飯、そして賞味期限ギリギリの牛乳だけ?悲しいわね、翔くん。朝ごはん、ちゃんと食べてる?お金が必要なのかしら?」

「客なんて滅多に来ないし……ましてや悪魔なんてな」

「ひどい……か弱い女の子に対して、その態度?翔くん、もっと礼儀を学ばなきゃね〜」

そう言いながら、彼女はキッチンのカウンターに手を置いて振り返った。

「ところで、しばらくここに住まわせてもらうわ。文句はないでしょ?ま、仮にあっても私は気にしないけど〜」

「……は?いつ決めたんだよ、それ」

「昨夜のうちに。契約を結んだ時点で、私たちはパートナーよ、覚えてる?パートナーなら、近くに住んで、生活費を分け合って、夢やトラウマも共有すべきでしょ?ふふっ」

ため息をつきながら、小さなダイニングテーブルに腰を下ろす。彼女は手際よく朝食の準備をしていた。

――操作型の悪魔にしては、やけに勤勉だな。

卵とご飯を盛りつけた皿がふたつ。見た目は簡素だが、意外に味は悪くない。彼女の子どもっぽい外見と、その裏にある悪魔的な余裕が、どうにも釣り合っていない。

「なあ、ひとつ聞かせてくれ。なんで小百合さんを巻き込んだ?契約を結んだのは俺だ。彼女は関係ない」

アスタロトは首を傾げた。

「あぁ、それね?もう言ったと思うけど……ただの気まぐれよ。ふたりとも、いいコンビになりそうだったから。彼女がロジックで、あなたが直感。ね?面白そうでしょ〜ふふふ」

「ふざけるな⁉人生をめちゃくちゃにしたんだぞ」

「めちゃくちゃ?むしろ、彼女には新しい目的を与えたの。あの人は行き詰まってたのよ。職を失い、心も傷ついていた。あなたの母親の事件を解決できなかったことも、ずっと引きずっていたわ。それが今、可能になった……あなたも同じよ」

俺は何も言えなかった。こいつのやり方には反吐が出るが、言っていること自体は、どこかで理解できてしまうのがまた腹立たしい。

「じゃあ……これから俺たちは何をすればいい?母親の事件の犯人を見つけたい。それだけだ」

「もちろん。そのためにも……まずは探偵事務所を開かないとね」

「……探偵事務所?」

「うん。犯罪を調査するには、拠点が必要でしょ?しかも、時間が限られてるの。時計はもう動き出してるのよ。30日以内に何かを見つけなきゃ、どうなるかは……言わなくてもわかるよね?」

その声は、どこか無邪気で楽しげなままだったが、微かに陰が差していた。

けれど、彼女の口元には、変わらぬ残酷な笑みが浮かんでいる。

「お金のことは心配しないで。私がどうにかする。でも、場所や名前、準備はあなたと小百合ちゃんで決めて。ふたりのための……闇の巣よ。ロマンチックでしょ?」

俺は答えず、水をひと口飲んだ。

冷蔵庫の低い唸り音だけが部屋に残った。

ポケットからスマホを取り出し、LINEを開く。

昨夜、別れる前に彼女と連絡先を交換していた。

「少し話したい。昼前に会えるか?」

メッセージを送り、画面を見つめる。

既読の表示がすぐに点灯した。

時計は7時12分を示していた。

この街がまだ静けさに包まれているうちに――

俺たちの物語は、動き出していた。

***

北野町・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年10月24日・午前10時45分。


その朝の空気には、どこか落ち着かないものが漂っていた。

カーテン越しに差し込む淡い光。石畳を滑るように舞う枯れ葉が、秋風にさらさらと運ばれていく音。

――すべてが静かすぎるほど、穏やかだった。

私はクローゼットの前に立ち、腕を組んで服を眺めていた。

まるでその中から、自分の内面を読み取ろうとしているかのように。

「何を着ればいいかしら……」

かしこまりすぎず、かといってデートみたいにも見えず。

ただ、何か大切な話をする人間として見えれば、それでいい。

ベージュのロングコート、青緑のタートルネックセーター、グレーのウールパンツ、革のショートブーツ。

髪は低めの位置で一つに結び、顔周りに少しだけ後れ毛を残した。

――落ち着いた、プロフェッショナルな印象。

クローゼットの扉を閉め、鏡の前で立ち止まる。

映った自分は、どこか疲れたような、無表情のまま私を見返していた。

「もう、犯罪捜査なんて関わることはないと思ってたのに……」

心の中で呟いた言葉は、音にすらならなかった。

私は長年、法医学分析官として、そして警察の鑑識として働いていた。

血痕パターン、微細な痕跡、犯罪現場の再構成……

人が文字を読むように、私は現場を読めた。

でも、仕事とは無関係な問題――

上司からのセクハラまがいの行為、内部の腐敗の兆候。

それを拒否した瞬間から、私は『組織の敵』になった。

昇進の道は閉ざされ、気づけば孤立していた。

私の倫理観も、信念も、安売りする気はなかった。

それでも――

気づけば、再びこの深淵の縁に立っていた。

翔さんのせいだけじゃない。

私も……母親の事件を解決したいと思っている。

正義のためじゃない。贖罪のためでもない。

――ただ、未解決のままで終わらせたくない。

私はバッグを手に取り、部屋を後にした。

住んでいるのは、中央区・北野町の静かな通りにある、リノベーション済みの古い二階建てアパート。

洋風の外観、歩道沿いに並ぶ黄葉の木々、開店が遅めの静かなカフェたち。

華やかではないけれど、どこか上品な、古き良き空気が漂う場所。

坂を下りながら、新神戸駅の方へ歩いていく。

その途中、風がふわりと髪を持ち上げた。

枯れ葉たちが小さな渦を描きながら舞い上がり、靴の下でかさりと音を立てる。

遠くで犬が吠える声。

そして、すぐ脇を駆け抜けていく自転車のブレーキ音。

――何かが始まろうとしている。

そんな予感が、確かにあった。

その時だった。

何の気なしに、近くの公園のリサイクルコンテナの横を通り過ぎたとき、端にかけられていた紺色のマフラーに手が触れた。まだ少し湿っていた毛糸の感触。

――映像が、いや、体験が頭を突き抜けた。

首筋を撫でる冷たい風の感覚。

肌にチクチクと刺さる繊維のかゆみ。

耳元で誰かがつぶやいた、意味の分からない震えた声。

そして――置き去りにされたような孤独。

すべてが、わずか十秒ほどの間に押し寄せた。

けれど、その短い時間は永遠のように長く感じられた。

私は一歩後ろに下がり、呆然と立ち尽くした。

「……これが、私の能力?」

手を見つめた。

見た目に変化はなかった。だが、内側で何かが開いた感覚があった。

恐る恐る、近くの金網フェンスに触れてみた。

次に石段の手すりを軽くなぞる。

そのたびに、万華鏡のように断片的な記憶が流れ込んでくる。

匂い、声、映像、感情……

泣いている少女。

笑っている男。

擦りむいた膝の焼けるような痛み。

それらは他人の人生の破片であり、今の私の中を容赦なく突き抜けていった。

――もっと知りたい。

そんな好奇心に突き動かされて、私は歩みを止めなかった。

街灯の支柱。

木の根元に落ちていた丸まった紙。

ベンチの背もたれ。

触れるたびに、新しい場面が脳裏に映し出される。

まるで街そのものが、忘れ去られた記憶を語りかけてくるかのようだった。

だが――その代償は、あまりにも大きかった。

頭が激しく脈打ち始めた。

こめかみがズキズキと痛み、胃の奥がきゅっと縮む。

めまいがひどくなり、視界が揺れる。

ふらついた体を、鉄製の手すりに預けた。

脚にはすでに力が入らない。

私は近くの静かな一角――北野異人館街のベンチに身を沈め、目を閉じた。

「……制御しなければ……」

呼吸は浅く、震えが止まらない。

このまま使い続ければ、体がもたないと直感した。

バッグの中には、気温が下がった時用に入れていた手袋がある。

そのとき、ふと思いついた。

――そうだ。手袋を使えば、直接触れなくて済む。

とりあえず、それが今できる最善策だと考えた。

まだ頭はぐらついていたが、これ以上は歩けそうにない。

私はバッグからスマートフォンを取り出し、画面を見る。

午前11時43分。

翔さんとの約束の時間まではまだ少し余裕がある。

今からでも会うのをやめるか、あるいは場所を変えてもらうか――。

悩んだ末、メッセージを打ち込んだ。

「ごめんなさい、あまり体調がよくないの。でも、会う約束はキャンセルしたくないわ。今、北野異人館街にいるの。もしよければ、ここまで来てくれない?」

送信してから、わずか数十秒。

スマホが震え、画面に翔さんの返信が表示された。

「でも、何かあったの?事故にでも遭ったの?少し待ってくれれば、すぐそっちに向かうよ」

「大丈夫よ。ここで待ってる。あとでね」

「はい。あとで」

萌黄の館の近くにあるベンチにもたれかかり、私はそっと目を閉じた。

吐く息が白くならない程度の冷気。

頭痛とめまいが少しでも和らぐよう、静かに深呼吸を繰り返した。

***

神戸市。【天宮翔の視点】

2016年10月24日・午前11時55分。


いつもより、街が少しだけ灰色に見えた。

長田区の古びた住宅街を抜けて、中央区のほうへと向かって歩いていた。

壁には雨染みが浮き、建物の多くは時代の重みを刻んでいる。

だが、アスタロトだけは別世界の住人のように、陽気に傘をくるくると回しながら隣を歩いていた。

「なんで俺が、お前の子守をしなきゃならないんだよ……」

つぶやいた言葉に返事はなかった。

ただ、あのいつもの鋭く切り取られたような笑みを浮かべて、俺を見つめている。

長田区と中央区をつなぐ坂道を歩いていくと、空気がだんだん冷たく湿り気を帯びてきた。

道端には紅葉の葉が散り、イチョウの黄金色が足元を覆っていた。

秋が深まっている。

……あるいは、俺の気分がそうさせているのかもしれない。

新長田駅を抜け、JR三ノ宮駅で乗り換えた後、北野の丘を目指して歩く。

景色が徐々に変わっていった。

広い歩道、西洋風の明治時代の建物、石畳。ウィンドウに並ぶヨーロッパ風のスイーツ。

北野町。

そこには、俺の世界とはまるで異なる空気が流れていた。

気取った雰囲気。洗練された静けさ。

場違いな感覚が、少しずつ胸に広がっていく。

――そのときだった。

ふと、吐いた息の間に、聞こえてきた。

『妹と浮気してるって知られたら……』

『会計からちょっとくらい抜いても、バレるわけないよな』

『今月の給料入ったら、黙って辞めよう』

『じじい、早くくたばればいいのに……』

声――いや、思考だった。

すれ違った誰かの、心の中。

俺を見もしない通行人の中から、突然、黒い囁きが頭に入り込んできた。

まるで耳元で直接呟かれたように、鮮明に、いやらしく。

俺はその場で立ち止まり、目を閉じ、歯を食いしばった。

こめかみに鋭い痛みが走る。

「……なんだこれは……」

アスタロトがくるりと顔を向け、愉快そうに笑った。

「やっと気づいたのね〜、もう少しかかると思ってたのに」

「これは……お前が言ってた能力か?」

「うん…言葉にならない声を読む力。隠された感情を感じ取る。便利でしょ?」

「……いや、ただの厄介事だ」

「思考の波をフィルターで遮らないと、すぐに潰れるわよ。扉を閉じる練習が必要ね〜」

「……最初から言えよ」

「ふふ、だって、サプライズって大事じゃない?それに……あなたなら大丈夫だと思ったの。腐った世界にも慣れてるでしょ?」

返す言葉がなかった。

思い出したくもない過去。自分が何をしてきたか、どんな人間だったか。

だが、彼女の言葉は正しい。

他人なら一瞬で心を壊すような声でも、俺は耐えられる。

それが何よりも恐ろしかった。

しばらく歩くと、萌黄の館が見えてきた。

緑がかった洋館。小さな庭と、錬鉄製のベンチ。

そのそばに、彼女が座っていた。

小百合さん。

ベージュのコートに、濃い色の手袋。

少し顔色が悪いが、俺たちに気づくと、わずかに微笑んだ。

「大丈夫か?」

「……ええ。まあ、なんとか。ちょっと……能力が勝手に発動してしまって」

アスタロトは傘を持ったまま、芝居でも見ているような仕草をした。

「ふふふ……まだまだこれからよ。二人とも、訓練が必要ね〜、でも安心して、私、教えるの上手だから」

小百合さんは額に手を当てて、静かに言った。

「とりあえず……しばらくは手袋をつけるわ。触れるだけで、視界に溢れてくるの。コントロールできない」

「それで抑えられるのか?」

「ええ、しばらくはね。それが一番安全だと思う」

俺たちは近くのベンチに腰を下ろした。

アスタロトはというと、まるで地獄の花畑でも歩くかのように庭をくるくる回っていた。

「本題に入ろうか」

「探偵事務所の件ね」小百合さんがうなずく。

彼女とアスタロトは、事務所の許可や手続き、場所について話し始めた。

俺は黙って聞いていた。

最初から分かっていた。そんな計画は成り立たない。

「なあ……二人とも、本気で合法的にやれると思ってるのか?」

小百合さんがこちらを見た。

「……どうして?」

「俺の経歴……それに、あんたが警察内で作った敵……そんな状態でどこの県が許可なんて出すと思う? それに、俺たちには手続きに費やす時間なんてない」

「その通りね〜」アスタロトが割り込んできた。

「だから、もっと面白い案があるの。無許可でやるの。しがらみもなし。受けたい依頼だけ選べる。最高じゃない〜?」

小百合さんは眉をひそめた。

「見つかったらどうするの?」

「その時は私に任せて。誰だと思ってるの? それに、書類なんて出す時間も省けるでしょ? 忘れちゃダメよ、時間はもう動き始めてる。あと三十日だけ……」

俺は立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。

「心当たりがある……新開地だ」

「……本気で言ってるの?」小百合さんの声が鋭くなった。

「あそこなら丁度いい。グレーな店が多いし、誰も余計な詮索はしない。それに、俺の知り合いもいる」

「そんな場所……探偵事務所にふさわしいとは思えない」

「じゃあ、どこがいい? 港が見える高層ビルの最上階か?」

「そういう話じゃない! 問題は、信念よ!」

「信念? これは聖戦じゃない。生き残るための話だ」

沈黙が張り詰める。

俺と小百合さんの視線が交差する。

まるで別の世界の人間みたいに、噛み合わない価値観。

だが、その時、アスタロトが手を叩いた。

「私は新開地に一票〜。多数決で決まりね」

「……それは卑怯よ」小百合さんは呟くように言ったが、怒りはもう収まっていた。

「とりあえず見に行こう。気に入らなかったら他を探す」俺が提案すると、彼女は小さく頷いた。

「わかったわ……でも、毎回こうやって決めると思わないで」

「交渉ってやつだよ……相棒さん」

俺たちは駅へと足を向けた。

神戸の南、時代から取り残された町。

そこが俺たちの最初の足場になる。

***

新開地・兵庫県神戸市。【相沢小百合の視点】

2016年10月24日・午後1時45分。


思っていたよりも早く着いた。北野町から新開地までは、電車を乗り継ぎ、少し歩いただけで二十分もかからなかった。三宮で路線を乗り換え、湊川公園駅で降り、南口から地上に出た。そこから広がる新開地は、まるで色褪せた記憶が今もなお残っているかのような、セピア色の風景だった。

その違いは歴然としていた。

ヨーロッパ風の家々、手入れの行き届いた外観、控えめなカフェたち。そういったものは、すでに遠い場所に置き去りにされていた。

この場所では、空気に古びた油の匂いが混ざり、湿ったコンクリートの冷たさと、錆びかけたパチンコ屋の匂いが鼻を突いた。昼過ぎから雲が厚くなり、空はさらに暗さを増していた。低くて窮屈な建物の隅々まで、灰色の膜が張られているようだった。

金属のような自転車の音、半分下ろされたシャッター、ちらつく看板のネオン…

それら全てが、もう過ぎ去った時代の名残でありながらも、どこかで今も息づいていた。

新開地は危険な場所ではない。だが、確実に忘れ去られた場所だった。

完全に見捨てられたわけではない。まだ鼓動はあった。ただ、その鼓動のリズムが、他とは違っていた。

舗道は擦り減り、タイルは欠けていた。店先のガラスには白い紙が貼られ、営業しているのかどうかすらわからない。ひらがなで書かれた名前の古びたバー、そして珈琲の香りよりも絶望の方が濃く漂う、薄暗い喫茶店。

隣を歩くアスタロトが、くるりと踵を返しながら、閉まった酒屋に向かって傘をひょいと掲げた。

「ねぇ、小百合ちゃん。本当にここでいいの?港の見えるビルの二十階とかのほうが、探偵事務所っぽくてステキじゃない?ふふふ」

「私は元鑑識よ。これくらいで驚いたりしないわ…」

私はため息まじりにそう答えた。

「そういうところが好き。だから選んだのよ、あなたを。でもね、個人的には…翔くんとシェアするのも悪くないと思うの。三人で一緒に住めば、ちっちゃな家族になれるかも…なんてね」

「…どういう意味?」

彼女の言葉に思わず立ち止まった。

「ああ、それね。今朝決めたの。翔くんも喜んでくれたし。案外、ああいう硬派な人ほどロリコンだったりして?きゃはははっ」

「おい、お前…聞こえてるからな」

数歩先を歩いていた翔さんが振り返り、少し呆れたように言った。

「ふふふっ、冗談よ。だけど本気で、三人で住めたら楽しいと思わない?小さな悪魔の家族みたいにさ〜」

私は彼女を横目で見た。不快というよりは、その飄々とした物言いに、どこまでが本気なのか分からなくなってくる。

目線を前に戻すと、翔さんの背中が見えた。

黒いジャケットに黒いズボン。無駄のない歩き方。

ただ、それだけの姿だったのに――

アスタロトの言葉が、なぜか胸の奥で反響していた。

「ちょっと待ってろ。電話する」

彼は、閉まった楽器店の前で足を止め、スマートフォンを取り出した。数歩離れて通話を始める。

低く、荒く、抑えた声。言葉は少なく、端的で、必要な情報だけをやり取りしていた。

やがて戻ってきた彼は、無駄な説明もなく言った。

「見つけた。栄光通り沿い、運河の近くだ。案内してもらえることになってる。行こう…」

私たちはしばらく無言のまま歩いた。

新開地のこの辺りは、舗装がでこぼこで、歩道も狭かった。

両側には、古い民家と昭和四、六十と七十年代の商業ビルが入り混じって並んでいた。

小さなテレビ修理屋を通り過ぎ、バターの香ばしい匂いが漂うパン屋を過ぎると、ついに目的地に着いた。

それは三階建ての低い建物で、外壁は薄いベージュ色、二階と三階の窓には黄色く色褪せたカーテンが引かれていた。

一階のシャッターは半分ほど開いており、その入口にひとりの男が立っていた。

「彼が佐伯さん… 昔からの知り合いだ」と翔さんが言った。

その男は五十歳前後、小柄でがっしりとした体格。

チェック柄のシャツのボタンが一つずれていて、煙草とメントールの匂いが体に染みついていた。

「この人たちか?」と彼が言った。

「そうだ。中を見せてもらってもいいか?」と私が応じた。

「もちろんだ…こっちだ」

私たちは彼に導かれて建物の中へ入った。

そこは数ヶ月前まで不動産事務所だった場所で、今は空き家になっていた。

リノリウムの床は擦り減り、壁には湿気の跡があり、年季の入った木製の机と、空のスチールキャビネットがぽつんと置かれていた。

埃は積もっていたが、きちんと掃除すれば問題ない。

「意外と悪くないわね。掃除して、照明を変えて、家具を少し置けば…」と私は呟いた。

「使えるな、借りる」と翔さんが即答した。

「で、何に使うんだ?」と佐伯さんが聞いた。

翔さんは迷いなく答えた。

「探偵事務所だ。ただし、電話帳には載らないタイプのな」

佐伯さんは片眉を上げ、そしてまるで同業者を見つけたかのようににやりと笑った。

「へへっ…やっぱりお前は変わらんな、面白い。実はな…三日前、この辺の中之島近くの空きビルで男の死体が見つかったんだ。警察はすぐに自殺として処理した。嫁が『借金に苦しんでた』って証言したらしいが…俺にはそうは思えなかった」

「どうして?」と私は口を挟んだ。

「妙に綺麗すぎて、都合が良すぎた。捜査も二十四時間以内に終了。あいつは簡単に潰れるような奴じゃなかった。昔、うちの客だったからな…妙なんだよ」

「解剖もされずに即日処理…それが隠蔽じゃなかったら…」

そんな言葉が、自然と頭に浮かんだ。

私たちは三人、顔を見合わせた。

言葉は要らなかった。

「まあ、派手な事件ってわけじゃないけど、練習にはちょうどいい。それに…この街で商売を始めるには、ちょうどいい導入になるわよ〜」とアスタロトが口を挟んだ。

翔さんが頷いた。

「詳細を送ってくれ。あと、また何か怪しい話があったら、すぐに連絡を」

「了解だ…ようこそ、新開地へ。ここじゃな…どんな秘密も、いずれ顔を出す、あとは、どこを掘ればいいか知ってりゃいいんだよ」

佐伯さんはそう言って、意味深な笑みを浮かべた。


❊❊❊❊

次回:『死に至る片道切符。』



最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

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